人は信仰によって生まれ変わります。
信仰によって救われます。善い行いや、古い律法を守ることによっての行いによってではありません。
『なぜなら、心で義にいたり、口で告白して救いに至るからです』ローマ10.10
神の力ではないと無理です。が、聖書では心で信じて口で告白すると言う行いを必ずすることになります。
信仰というのは行いが伴います。
『あなたは信仰を持っており、私は行いを持っています。あなたのその信仰をあなたの行いなしに私に見せてください。私は私の行いから私の信仰をあなたに見せましょう。あなたは神はお一人であると信じています。立派なことです。けれども悪霊どもも信じており、身震いしています。空虚な人よ。あなたは知りたいのですか?信仰は行いなしには死んだものであることです。』ヤコブ2.18
悪霊どもはもちろん神様を信じています。しかし行いがかなり悪いです。
そこで、聖書に出てくるクレタ人はこの悪霊のように行いが悪かったようですが、ここで比較して見てみましょう。
彼らに属する人で、彼らのうちの預言者がこう言いました。「クレテ人たちはいつも偽り者、悪い獣、怠け者の大食漢。」この証言は本当のことです。それ故あなたは厳しく彼らの過ちを暴きなさい。それは彼らが信仰において健全になり、ユダヤ人たちの作り話や真理に背を向けている人たちの命令に心を向けないためです。清い人たちにとってはすべてのことが清いのですが、汚されていて、信じない人たちにとっては清いものが1つもなく、彼らの知性も良心も汚されています。彼らは神を知っていると公言していますが、行いでは否定しており、忌まわしい者たち、また聞き従わない者たちであり、どんな善いわざにも是認されない者たちです。』テトスのパウロの手紙1.12〜
このようにクレテ人は堕落したクリスチャンです。そしてこの聖書が語っているように、パウロは彼らを健全なクリスチャンに戻そうとしています。堕落したクレテ人は、神を信じていながらも忌まわしいものたちとなってしまいました。
黙示録にはこう書いてあります。
『しかし、臆病な者たち、不忠信な者たち、忌まわしい者たち、殺人者たち、淫行をする者たち、魔術を行う者たち、偶像礼拝者たち、偽りを言うすべての者たちにとって、彼らの受ける分は、火と硫黄との燃える池にある。それは第二の死である。』黙示録21.8
1部のクレテ人は故意にわざと罪を犯していたわけです。
心で、悪いことだと知っていながらわざと罪を犯した人はどうなるでしょうか?聖書にはこう書いてあります。
『なぜなら、真理について全き知識を受けた後、私たちが故意に罪を犯しているなら、もはや罪のためにいけにえは残されていないからです。あるのは裁きを待つ恐ろしい予感のようなものと敵対する者たちを食おうとしている火の熱心さです。』ヘブル10.26〜
もし私たちが、真理の知識を受けた後、
進んで罪にとどまり続けるなら、もはや罪のきよめのためにはいけにえは残されておらず、
ただ、さばきと、逆らう者たちを焼き尽くす激しい火を、恐れながら待つしかありません。」新改訳2017ヘブル10.26〜
自分は救われているし、これからも救いは漏れる事は無いので、どんな悪いことをしても大丈夫なのだ、
どんな悪いことも悪いことも既に許されているので、悪いことをしても大丈夫なんだ。そう思う人たちが1部でいます。
悪霊どもや、サタンも神様を信じています。しかし彼らは天国に住むでしょうか。彼らも心で信じていますから。
聖書にはそんなこと書いてありませんし、一度救われたら罪をわざと犯し続けても救われ続けると言うことも聖書には書いてありません。
クリスチャンの中には堕落していても、天国で冠がもらえないだけなのだと考えている人がいました。
古い肉に従うか、御霊に従うか、選択する自由を与えられています。
人間には、天国に行く権利もありますが、地獄に行く権利もあります。
『高くそびえるものも深みも、他のどんな被造物も、私たちの主なるキリスト、イエスにおける神の愛から私たちを引き離すことができるようにはならない。と』ローマ8.39
この聖句を悪用して罪を犯し続けても、天国に行けるのだと言う説教者がいるが、勿論、悔い改めたらそうでしょう。
聖句はただ、神の愛から私たちを引き離すことはできない、と述べているだけです。
『あなたはわたしの座ること、起きることを知り、遠くからわたしの思いを悟られる。
あなたはわたしの道をふるい分け,わたしの横たわる道を知り,わたしのすべての道を知っておられる。わたしの舌にはひとことも言葉がありませんが,見よ,主よ、あなたはすべてを知っておられます。あなたはわたしを後ろにも前にも閉ざされ,あなたの御手がわたしの上に置かれています。そのような知識はわたしにはすばらしすぎます。わたしはあなたの御霊からどこへ行こうか。 あなたの御顔から、わたしはどこへ逃げようか。わたしが天に上っても、あなたはそこにおられ、シェオルに寝ても、見よ、あなたはそこにおられる!わたしが朝の翼を取り、海の果てに住んでも、あなたはそこにおられます」
詩篇139.2〜
確かに、この聖句を見れば神はシェアルにもおられ、神の愛から私たちを引き離すことは出来ませんが、それは故意に罪を犯して悔い改めなくても大丈夫、という意味ではありません。
私たちは罪を犯せば悔い改めることが必要ですし、救いは、罪の許可証ではありません。
主は、私があなた方に命じたすべてのことを守るように彼らにおしえなさい(マタイ28.20)
と言い、
『もし誰かが私を愛するなら、その人は私の言葉を守り…』(ヨハネ14.23)と聖書で語ります。
しかし、それを一部の説教者は勘違いされて『行いによって救われようとしている別の福音』と批判します。
私が言っていることではなく、聖書が、イエスが言っていることです。彼らは聖書と対立しています。聖書を理解することはとても大切なことです。
新約聖書を読むことをお勧めします。
牧師がこう言うから信じると言う人がいますが、その偽教師の場合があります。
牧師だから、という理由だけですべて信じてはいけません。
聖書のみことばが何を言っているか、が一番重要です。