生産性はなぜ上がるのか

前回のエントリに対するあままこ(id:amamako)さんの応答へのお返事です。

さて、前回のエントリの主張をざっくりまとめると「潜在成長率がプラス(数%)になるので失業を防ぐためにはそれに見合った経済成長が必要」「そのことは「生産性で人間をはからせない」こととは矛盾しない」ということです。

それに対するあままこさんの反論をざっくりまとめると「潜在成長率がプラスになるのは自明ではない」「潜在成長率をプラスにするような思想こそが「生産性で人をはかる」思想なのではないか」ということでしょうか。

これに対する僕の回答は以下になります。

まず「潜在成長率がプラスになるのは自明ではない」は Yes です。僕の議論は近代資本主義を前提にしています。産業革命以前の社会では成り立たない話でしょう。

「潜在成長率をプラスにするような思想こそが「生産性で人をはかる」思想なのではないか」もそういう傾向はありうるという点では Yes と言えるでしょう。

しかし、僕が問題にしている数%(飯田泰之氏の説だと2%)の潜在成長率というのは、社会に「生産性が人間の価値の全て」という風潮が蔓延するほどのものとは思えません。そこまで万人に成長へのコミットメントを要求するものではないし、過半の人が一切成長しなくても成り立つ話です。

あままこさんは「人間は「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という文化・価値観に縛られてるから、生産性を向上し利益を上げようとする」のではないかと主張していますが、それは僕の実感とはかけ離れています。

僕の職業はプログラマですが、製品コード以外にもちょっとしたスクリプトを書いて作業工程を自動化したりしています。これもわずかながらに生産性を向上する営みの一つですが、別にそうしないと「ダメな人間」とは思いません。いや、「ダメなプログラマ」とは思うかな… しかし「ダメな人間」にならないためにやってるわけではないのです。

この手の生産性向上というのは「楽して同等以上の結果(=利益)を出したい」というのが動機になっている面が大きくて、それは言い換えると「楽はしたいけど今より貧しくはなりたくない」「楽して今より豊かになるならもっといい」ということです。

もちろんスクリプトを書くのが「楽」かどうかその人の能力によります。でも解かれるべき課題とそれにマッチする才能を持つ人が出会えば生産性の向上は必然的に起こるのです。それこそ「働きたくない」と思っているからこそ起こってしまう。そういう出会いがない人が大半かもしれませんが、それでもトータルで年率2%程度の生産性の向上は起きてしまいます。

貧しいとか豊かというのは、単にお金のことではなくて、自分のやりたいことをどれだけできるかということです。やりたいことというのは、僕の場合だと天体写真を撮るのがそうですし、「国境なき医師団」に寄付するのだってそうですが、人それぞれでなんだっていいんです。

僕も含め多くの人は働いて得たお金でその人が価値があると考える活動をするために働いています。資本主義社会ではお金であらゆる活動が可能になるので、価値観は多様でもみんなお金を稼ごうとします。「経済人(合理的経済人)」というのはそういうことだと思っているのですが違うのでしょうか?*1

もちろん、お金がそのようなものであるからこそ「お金こそが普遍的な価値」「生産性は絶対的な価値」と思いつめる人も出てきますが、それは倒錯的な考えです。アマチュア天文家が天体望遠鏡を買うために働いているのに働き詰めで夜に星が見れないのだとしたらそれは本末転倒でしょう。

それでもそういう倒錯的な考えが蔓延っているのだとしたら、それは稼いだお金がもっぱら生存のために使われていて、多様な価値観のために使われていないからではないでしょうか。つまり「命=お金」が生活実感になってしまっていると。そしてそういう状況は、労働力を安く買い叩ける状況、すなわち労働力が余っている状況、要するに経済成長が足りていない状況なのでは?


最後に「生きるに値しない命がある」というナチスの思想が「生産性を向上して利益を上げなきゃダメな人間なんだ」という価値観の延長線上にあるのかという点について。

『自由からの逃走』も『啓蒙の弁証法』も読んでいないのですが、ナチスの場合「生産性」それ自体が自己目的化しているというよりは、それこそ富国強兵の思想、国家や民族の繁栄こそが絶対的な価値、という価値観が先にあっての「生産性」だと認識しています。これは多様な価値観から生まれる多様な活動を産むための「生産性」という価値観とは真逆です。

相模原の津久井やまゆり園の障害者殺傷事件(相模原殺傷事件)はこれとは少し違うと思っています。この事件の容疑者は自ら「ヒトラーの思想が降りてきた」と語ってはいたものの、国家主義民族主義的な色合いは希薄です。彼も後にナチスユダヤ人虐殺は間違っていた、しかし障害者の安楽死は問題ないと語っています。*2

これは頭の痛い話なのですが、彼自身は日本が財政破綻の寸前に追い込まれていると信じていて、福祉の負担を軽減しないと社会が保たないと考えているのです。ここまでは多くの人が信じているストーリーとまるで変わりはありません。実際のところ、これはひどく誇張されたストーリーなのですが、それはひとまず置きます。

カルネアデスの舟板の寓話のように「誰かを犠牲にしないと誰も助からない」という状況では誰かを犠牲にすることが正当化される場合があります。この状況では犠牲者の選別は多くの人がやりたがらない、しかし多くの人はやって欲しいと思っている仕事です。彼は自分がそれを敢えて引き受けたことを評価されるべきだと思っているフシがあります。

ここまでは割とありふれた、ある意味善意と言ってもいい動機なのが怖いところです。正直「いや、それは現状認識が間違っているから」で逃げたい気分です。「意思疎通がとれない」かどうかという彼の選別基準はあまりにも雑だろうと批判はできても、ではお前はどんな基準で選別するのか、と言われたら何も言えません。せいぜい黙って自分が舟板から手を離すぐらいしかできない気がします。

実のところ彼は「生産性」を命の選別の基準としては挙げていません。生産性のない人にお金を回すから財政が悪化するという話はしているようですし、*3 「生産能力のない障害者は不幸をばらまく」とも言っているようですが、*4 命の選別という点ではむしろコミュニケーションを人間の条件として、それを裏返して人とつながれない人は人間ではない、殺していい、と短絡しているように見えます。

相模原殺傷事件は事件の構図があまりにステレオタイプなのでナチズムや優性主義と関連付けられがちですし、そこから「生産性」の話になりがちなのですが、「短絡」に至る手前までの理路は比較的「常識的」なもので、だからこそ心が震えます。

「「生きるに値しない命」などない!」
「しかし、誰かを犠牲にしなくては誰も生きられない状況にあるとしたら?」

僕はこの問いに対する確かな答えを持ち合わせていません。でも「まず状況の方を変える努力を最大限尽くそう」とは言えると思います。また「その状況認識が間違ってないか落ち着いて考えよう」とも言うべきだと思います。

僕が適正な経済成長を重視するのは、成長しない経済環境にはそういった状況に陥るリスクがあるし、なにより悲観的な状況認識を生み出しやすいからです。もちろん経済成長していれば万事大丈夫ということは全くないですが。*5

これで答えになっているでしょうか?言い足りないところや詰めきれてないところはたくさんありますが、ひとまずこれでお返事とさせてください。

*1:Wikipedia の「経済人」の説明だと拝金主義みたいなニュアンスが強いのですが…

*2:参照:「ヒトラーとは考えが違う」植松聖被告が獄中ノートに綴った本心

*3:参照:被告との対面 事件を問い直す - 特集ダイジェスト - ニュースウオッチ9 - NHK

*4:参照:「善意」の暴走、「生産性」追求の果て 続く差別との闘い | 社会 | カナロコ by 神奈川新聞

*5:資源や環境の有限性からいずれは成長できなくなる(潜在成長率がゼロになる)日が来るかもしれませんが、僕は何十年、何百年も先のことを予測できるほど賢くないので、そういうことは誰か賢い人に考えてもらいたいです。今はそれより大事なこと、今できることがたくさんあります。