言葉と記憶の小径。

D's Diary./The long and winding path of my own choice.

道と星座。

最初に見たのが、高校の文化祭。グラウンドに張られた薄汚れたテントの中でした。その後、映画館のリバイバルで、レンタルビデオで、テレビ放映とその録画でと、何度も見た「道」。映画のことを評する資質など皆無に等しいのですが、好きな映画はと問われれば①「ニュー・シネマ・パラダイス」②「鉄道員」③「道」と上位3位がイタリア映画なのが不思議な気がします。

 

監督はフェデリコ・フェリーニ、音楽はニーノ・ロータ。ジェルソミーナ役をジュリエッタ・マシーナ(フェリーニの妻)、ザンパノ役はアンソニー・クインが演じています。

 

ザンパノは屈強な体をした大道芸人です。ジェルソミーナの家は貧しかったため、わずかなお金でザンパノに雇われ、道化師役でザンパノを助けながら一諸に旅をすることになります。

 

修道院に泊めてもらった夜、ジェルソミーナがザンパノに、私のことが好きかと尋ねる場面がありました。ザンパノは何も答えず、それどころかこの修道院で泥棒をしてこいと命令します。それでも、ジェルソミーナはザンパノが大好きです。でも、自分自身が役立たずな存在であるように思えて、心の中はいつも、悲しくてしかたがありません。

 

そんなジェルソミーナに、綱渡りの芸人イル・マットが語りかける場面が強く印象に残っています。

「この世の中にあるものは必ず、何かの役に立つ。例えばこの石だ。こんな小石でも何かの役に立ってる。神様はご存じなんだ。お前が生まれる時も死ぬ時も人間にはわからん。おれには小石が何の役に立つかわからん。だけど、必ず何かの役に立つ。これが無益ならすべて無益だ。空の星だって同じだ」

 

こんな感じの内容だったと思いますが、この世のどんな存在にも、必ず役割があるという言葉に、私たちも勇気づけられます。しかし、ザンパノは次第に、ジェルソミーナを持て余すようになり、ある日、野宿先で眠り込んだジェルソミーナを見捨てて、そのまま立ち去ってしまうのでした。

 

旅芸人を続けていたザンパノは、数年後、ある町の道端で聞き覚えのある曲を耳にします。誰もが知る、ニノ・ロータのあの曲です。庭先で口ずさんでいた女に尋ねると、昔、近くで、少し頭のおかしい娘がラッパで吹いていた曲だと教えられます。そして、その娘はしばらくして死んだことを知らされます。

 

その夜、酒におぼれ、闇に覆われた海辺をさまよい歩くザンパノの姿がありました。砂をかきむしり、泣き崩れる場面で物語は終わります。白黒のコントラストが生きることの光と陰、人間の弱さと強さ、人生の歓びとはかなさを映し出すかのようです。真っ暗な夜の海の場面は、白黒でしか表現し切れないといっていいほどの深い陰翳で、この物語を締めくくっています。

 

家族も友人も知人も、隣のおじさん、おばさんも、この世で知り得た人と人との間には、どんなにしても揺らがない一定の距離があり、その関係は「Constellation(星座))」に例えられます。語源はラテン語の「com(ともに)」と「stella(星)」 とされ、一つの星ではなくまわりにある星と繋がって初めて存在する集団でもあります。

 

離れていようが、近くにいようが、互いの距離は永遠に変わることはありません。それどころか引力関係もあって、仮に星座を構成する誰かが亡くなったとしても、その関係性は永続的に続くといいます。ユング心理学では、こうした「星座」のことを「布置(ふち)」と呼びました。この「布置」はまた、人に定められた「道」でもあります。

 

失って初めて気づくことがあります。いなくなったら、現われるものがあります。ザンパノは、ジェルソミーナを失って初めて「小石」の意味を知ります。私たちは、砂をかきむしり、闇のなかで泣き叫ぶザンパノの姿に、自分の傲慢さを透かして見ます。同時に、いま目の前にいる人、周囲にいる人たちと形づくる「星座」の意味を問い直し、改めて自らが歩むべき「道」を選択したり、その選択に覚悟を決めるのかもしれません。

 

 

 

 

※「道」(1954)

監督:フェデリコ・フェリーニ

キャスト:アンソニー・クイン、ジュリエッタ・マシーナ他

音楽:ニーノ・ロータ

写真はジュリエッタ・マシーナとアンソニークイン/Getty Images.

 

 

 

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