意見表明と主張と議論と説得 "「まどマギの社会的責任についての問題提起」について"を受けて

はじめに:本題は次の小見出しから

※本エントリは、「まどマギの社会的責任についての問題提起」についてを受けたものです。
最初に申し上げておきますが、本エントリはあなたのまどか☆マギカ論を批判する気もなければ、議論するつもりもありません。なぜなら、本題をそこに置いていないからです。

なので、

なお、ここで書いたことはだいぶ簡略化した説明です。僕がまどマギをなぜ批判するかきちんと知りたい、あるいはその批判に異議があるということを伝えたい人は、

天原誠氏の『まどか☆マギカ』最終話までの感想Tweet - Togetter
天原誠氏の『まどか☆マギカ』最終話までの感想Tweet - Togetter
まどかー、もどってこーい。 - 斜め上から目線
なぜマミさんの葬儀は開かれないか - 斜め上から目線
あなたはまどかを信じますか? - 斜め上から目線
ポストまどマギのアニメ史(2011-2012) - 斜め上から目線
ある中二病アニメオタクの半生 - 斜め上から目線
を読んで、その上で批判してください。読めないなら黙っててください。

と書かれていますが、こうした理由から、一部しか読んでおりません。

***

さて。

では、残酷描写をつかってまどマギが示したかったものは何か?それは結局「他人のために流す犠牲はすばらしいが、自分の欲望のために頑張ることは醜い」ではなかったかと、僕は考えるわけです。これの根拠は、さやかの戦いがことさら醜く描かれていることと、最終回において、まどかの自己犠牲によって極めて簡単に世界が救われてしまっていることです。

なるほど、そう感じ取られたのですね。
私は、「絶望の克服」、具体的には「(絶望に負けない)強い意志」と「(絶望の淵から救い出す)友情」の力を、メッセージとして強く感じ取りました。
根拠は、ソウルジェムが穢れグリーフシードに変化する理由として、「魔力を消費しきる」ほかに、「絶望する」が含まれていることです。
※もし仮に、「魔力を消費しきる」ことのみが魔女化の条件であったならば、「魔力を消費しきるまでにどう生きるか」といった、「イキガミ」に近い物語になっていたのではないでしょうか。

さやかとまどかが登場したことによって、孤独な戦いから解放されたマミ。
さやかと杏子の、格好悪いけれど、とても格好いい友情。
ただ一つの恩を忘れず、時間を巻き戻し続けるほむら。
ほむらの絶望を救い、大きな決断を下したまどか。
そうして生まれた、ささやかな奇跡。
まどか☆マギカは、ボーイミーツガールならぬ、ガールミーツガールとして王道の作品。そんな見方もできるのではないかと考えています。

そして、なぜその様に「他人のために流す犠牲はすばらしいが、自分の欲望のために頑張ることは醜い」ということになってしまうかというと、それは最終回の最後に示された「−忘れないで。いつも、どこかで、誰かがあなたの為に闘っている。彼女を想い続けていれば、あなたはひとりじゃない−」というメッセージにあるように、常に誰かに見張られている、その誰かによって恩を受けている。だからその恩を返さなくてはならないと思うからです。
しかし僕は、このようなメッセージはとても気持ち悪い、否定されるべきものじゃないかと考えるわけです。自分の存在が他者のためにのみ存在すると考えるなら、人は結局自分の幸せのために動くことは許されず、それこそ最終回のほむらのように、自分の幸せなんか全く考えずに魔獣退治に専念する、ブラック企業の社畜のような存在を生み出してしまうわけです。僕は、そんな生き方はしたくないし、他人にもそんな生き方はしてほしくない。「誰かがあなたの為に闘っている」として、それをいつまでもぐじぐじ忘れないで生きているから、その誰かさんも何時まで経っても闘いから逃げられないのであって、そんなのさっさと忘れてしまえば良い。そして「ひとり」で生きていく、その覚悟を身に付けるべきだと、そう考えるのです。

なるほど、そう感じ取られたのですね。
私は、前述の観点から、「どんなにつらくても、絶望しなくてもいいんだよ。なぜなら、ひとりじゃないから」というメッセージだと受け取りました。そして、「ひとりじゃな」くしているのは、まどかやほむらかもしれないし、視聴者の近くに実在している人かもしれない。少なくとも、特定の「誰か」を強く指しているのではないように受け取りました。

あなたはまどか☆マギカを見て、そう感じた。
私はこう受け取った。
なるほど、いろいろな考え方がありますね。

これだけの話です。
これだけでいいではないですか。
何も議論などしなくても。

なぜそこまで、議論にこだわるのでしょうか。

ここからが本題

あなたのエントリの中で、私が困ってしまったのは、このくだりです。

そして、そういう個人的評価から公共的見解へ至る議論をしていくことが、実は民主主義社会にとっても、非常に重要なことなのです。なぜなら、民主主義を維持するためには、「人々は個々に差異があるが、しかし差異ばかりではなく、共通な価値観もある」と信じられることが重要で、あり、そして共通の価値観を人々が信じるということは、まさしく、まどマギのようなアニメ作品も含めた、文化の役割なのです。もし、人々が個人的価値観の中に閉じこもり、「他人と共有する価値観なんて無い。だから文化について議論を戦わせるのは無駄だ」と思うようになるならば、それはやがて、社会全体から共通の価値観を失わせ、民主主義社会自体の崩壊にもつながっていくのです。

こういうことでしょうか?

まどか☆マギカに対する議論を避ける
   ↓
個人的価値観に引きこもる
   ↓
公共的な見解が得られない
   ↓
社会全体から共通の価値観が失われる
   ↓
このままじゃ民主主義社会が崩壊しちゃう!

そんなばかな。
どこのルナ先生ですか。

もし仮に、「社会全体から共通の価値観を失わせ民主主義社会自体の崩壊にもつながっていく」のが真だとしても、それを「まどか☆マギカ」でやらねばならない必然性なんて、ないじゃないですか。
まどか☆マギカで議論してもいい。
しなくてもいい。
それだけのことでしょう?

少なくとも民主主義を守るためなどというお題目でまどか☆マギカの議論などしたくありません*1。

もう一つ、あなたが議論にこだわる理由として見えてくるのが、以下のくだりです。

僕はまどマギを批判し、そしてその意見に納得してもらいたいと思っていますが、それはあくまで議論を通じて達成したいことなのです。

説き伏せる気満々じゃないですか。あなたのやりたいことって、議論じゃなくて説得でしょう?

いや、説得は説得で、したけりゃ、すればいいんですけどね、それだけ立派な主張を持っていて、表明しているんですから、直接議論して、説き伏せなくても、いいじゃないですか。

あなたは主張する。
主張に納得する人もいるでしょう。
納得しない人もいるでしょう。
それでいいじゃないですか。

***

極論として、ものすごくいやらしい話をすると、利害関係に大きく関わってくるなら、どれだけ面倒でも、この人って話聞いてくれないだろうなと思っても、あえて議論するかもしれません。

あとは、そのときの気分とか。

でも、今はその気分じゃないんで。

ホントその気分じゃないんで。

以下余談

ところで、ちょっと話を戻すと、ルナ先生の、ばかばかしいまでの思考の暴走っぷりってのは、後半の、あの「何もそこまで体張らなくても…」っていう、ばかばかしいまでにご都合主義的で、ばかばかしいまでにエロティックなお色気肉弾攻撃と釣り合いを取るための、いわば必然なんです。
言い替えると、こんなばかばかしいまでのトンデモ理論を展開した後ってのは、もう、トンデモでしか釣り合いが取れないんですよ。

あなた、次にどんな小見出しをたててますか。

年齢制限・レーティング規制をおくことには反対。

やめてくださいよ。
私も年齢制限とかレーティング規制とか、不要だと思ってるんですけど、こんなところで書かれたら、一気にトンデモ扱いじゃないですか。いや実際、今の社会情勢とか鑑みるとトンデモな主張なのですけど、よりトンデモ度が増したじゃないですか。ホント勘弁してくださいよ。

おわりに

あなたのエントリ、ここだけは大爆笑してGJって感じだったんで、お伝えしておきますね。

もちろん、文化の役割は「民主主義社会を守ること」だけではありません。「人々を楽しませること」だって立派な役割です。ですから、両方やればいいんです。

「×両方やればいいんです ○両方やってもいいし、楽しむだけでもいい」とかいうツッコミはともかく、普通、「Aだけではありません。Bも(Bだって)立派な役割です」といったら、Aがメインで、Bはよくて同格か、もしくはサブの役割だと思うんですよ。文化の第一の役割って、民主主義社会を守ることだったんですね。専制政治はどうやら文化と相容れないみたいです。
こういった思想があることを、初めて知りました。ありがとうございます。

*1:民主主義を守りたくない、といっているのではない