岩崎夏海氏はぼくに感謝するとともに、とらやの羊羹を差し出すべきである

ある日の同僚との会話。

同僚「岩崎夏海ってのは一体何なんですかッ!?あれほど不愉快になったことは、ここ最近ありせんでしたッ!」
ぼく「(やっぱり…。)まあ、確かにね。そう思うんじゃないかな、怒るんじゃないかな、とは思っていたよ」
同僚「ちょっと本が売れたからって調子に乗りすぎじゃないですかッ!。上から目線で説教されて、不愉快でしたッ!」
ぼく「ああ、それは本が売れる前からだね。なぜか上から目線で偉そうなんだよ。ホント昔っから。人を不愉快にする達人というか」
同僚「しかも、その説教も的はずれで…何も分かってないくせに、自分の言ってることの正しさはこれっぽっちも疑わない感じがありありと伝わってきて…最悪ですッ!本当に最悪ですッ!あんなのと同じ空気を吸っていたことが最悪ですッ!!」
ぼく「ご愁傷様」


以上のことから明白な通り、岩崎夏海氏はぼくと同僚に感謝するとともに、その感謝の意志を形として表すため、とらやの羊羹を差し出すべきである。

上記エントリに寄せて

 例えば、ぼくと同僚が、岩崎夏海氏をさんざん罵倒しながら感謝と「とらやの羊羹」を要求する、このエントリにおいては最も重要ともいえるシーンがあるのだが、そこで両者をつなげる(岩崎夏海氏に羊羹を要求する)意味について、ぼくはその同僚の人物から背景、怒りつつ感謝と羊羹を要求する理由までこと細かに把握していたにもかかわらず、エントリの中では一切描かず、単にその事実のみを記すにとどめた。それは、もちろんデータ容量の関係もあるのだが、それ以上に、そうした方がエントリとして面白くなるということが分かっていたからなのである。

 その通り、大胆に説明を省いたこのシークエンスは、そのエントリを象徴する何とも味わい深いシーンとなったのだけれど、ところがエントリの発表後、そこで予想外のことが起こった。なんと、そのシーンを、面白い面白くない以前に、上手に理解できない人が、少数ではあるが現れたのである。そのシーンを、何度読んでも「ぼくらがなぜとらやの羊羹を要求したのか」を想像できない人が、少なくはあるが一定数いるという事実が、読者からの反響を得る中で判明したのだ。

 これに、ぼくは驚かされた。彼らがそれを理解できなかったり、想像できなかったりする理由は、単に彼らのブログの読み方の浅さ、拙さに起因するものなのだが、そういう人が少数ながらもいるということを、僕は初めて知ったのである。

 そうしてぼくは、これを由々しき問題であると受け取った。ブログを読むのが下手というのは、何よりその人たちにとって不利益である。非常にもったいない。あとちょっと上手くなれば、あるいは想像を働かすコツを覚えれば、彼らももっと面白くこのシーンを読むことができたはずなのに、それができないというのは、端的にいって可哀想である。

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本日のエントリは、2011-08-08から着想を得たものです。ありがとうございます。なお、同僚との会話は、言葉尻などに違いはありますが、実際に話した内容を元に構成しています。

(2011.8.13追記)http://d.hatena.ne.jp/Ri-fie/20110808/1312843982へ続いておりまする。