本格推理小説に携わる人々は今一度「ゼロの使い魔」を読むといい

http://d.hatena.ne.jp/aureliano/20090517/1242546021

ふとした縁があって、「十角館の殺人」という小説を読んだ。

「十角館の殺人」は本格推理小説だ。ぼくは本格推理小説のことについてそれほど詳しくないのだが、この「十角館の殺人」はすごく正統的な本格推理小説だと思った。非常にオーセンティックな、本格推理小説の鑑のような作品だと思った。

その通り、この作品はとても人気があるようで、物語は「館もの」としてシリーズ化され、1987年の第1作刊行以来、すでに8作が出されている。また、コミックやゲームになるなど、他メディアへも大きな広がりを見せている。

ぼくが読んだのは、「新本格」ムーブメントの端緒となった、1987年に刊行された第1作「十角館の殺人」だ。これを読んで、ぼくは色々な感想を抱いた。また、この作品を通して、「本格推理小説」というジャンルそのものにも、ある感慨を抱いた。

そこでここでは、そんな「十角館の殺人」を読んで思ったことや、それを通して抱いた本格推理小説というジャンルについての感慨を書いていきたい。

「十角館の殺人」とは

まず「十角館の殺人」のあらすじを紹介する、のは面倒だから、このあたりを見ればいいと思うよ。ネタバレには注意ね!
十角館の殺人 - Wikipedia

「十角館の殺人」の感想

以上が、「十角館の殺人」のだいたいのあらすじである。そしてぼくは、これを読んで率直に面白いと思った。特に、その「世界観」が面白いと思った。

「十角館の殺人」には、孤島である角島や、中村青司の設計した館、あるいは隠し通路や、猟奇的な殺人事件、トリックを解決した先の末路などが描かれている。そうした世界を、ぼくは好ましく思った。それと同時に、興味を引かれた。だからぼくは、この世界のことをもっと知りたいと思った。この世界をもっと歩いてみたいと思った。そのために、この続きをもっと読んでみたいと思った。「水車館の殺人」以降も読んで、この世界のことをもっと詳しく知りたいと思った。


しかし同時に、物足りないと思ったところもなくはない。それはいくつかあるのだが、一番は主人公である島田潔のキャラクター造形だ。

潔は、特にこれといった特徴のないキャラクターである。これは比喩でも嫌みでもなく、本当にそうなのだ。この作品では、わざと特徴のない人物に主人公を作り上げているのだ。

なぜそうしているかといえば、それは読者に「自分のこと」として読んでもらうためだ。主人公のキャラクターをあえて特徴のない人物にすることによって、読者に自分自身で推理してもらおうとしているのである。

それは、恋愛シミュレーションゲームの手法とよく似ている。恋愛シミュレーションゲームも、主人公の顔をあえて描かなかったり、性格付けされてなかったりする。それは、プレイヤーに自分自身のこととして楽しんでもらうためだ。そしてそのためには、顔や性格付けは余計なのである。顔や性格付けをしてしまうと、そこでプレイヤーに「これは自分と違う」と思われる可能性が高くなり、そうなると、もう「自分のこと」としては楽しんでもらえなくなるからだ。

ではなぜ「自分のこと」として楽しんでもらおうとしているかといえば、それはその方が「読者への挑戦」に入り込ませやすいからである。感情移入させやすいのだ。読者にその物語の主人公になったような気持ちになってもらえれば、何時間も推理してもらえるからである。

つまり、「入りやすさ」や「推理しやすさ」をとことんまで追求した結果、主人公の性格付けを極限まで排除するようになったのだ。


しかしこれが、ぼくには物足りなかった。食い足りなかったし、もったいないと思った。

それはまるでミルクと砂糖のたっぷり入ったコーヒーのようなものだと思った。確かに飲みやすくはなっているが、コーヒー本来の苦みやフレーバーは失われてしまった。そうして、非常に飽きが来やすい。ちょっと飲んだだけで、もういいよと思ってしまう。それ以上続けて味わうことをためらってしまう。「もうコーヒーはしばらくいいかな」と思ってしまう。そんなところが、この作品――引いては本格推理小説にはあると思った。主人公や登場人物の性格が描かれていないために、それ以降の物語への興味が失われてしまうのだ。


こうした傾向は、主人公の性格付けのみならず、物語の展開の中にも散見できた。とにかく、入り込みやすく、推理したくなりやすくなっているのだ。砂糖とミルクが、たっぷりとまぶしてあるのである。

例えば、物語の冒頭で、推理小説研究会のメンバーはいきなりニックネームという匿名で会話をする。何の意味もなしに、全くの突然に。そこには、「研究会の伝統」という一応の名目があるのだけれど、読者からしてみれば、何の苦労もなしにいきなり謎にありつける。それは非常にありがたい、また都合の良い話だ。そして確かに入り込みやすく、推理しやすい。しかしそれだけに、物足りなさもまた残る。

あるいは、物語の中で主人公は、「今日の一本」とつぶやいて煙草を吸うといきなり推理が進むのだが、これも理由がない。とにかく煙草を吸ったとたん、潔の推理は進んでいるのだ。

これは、努力することが嫌いな怠惰な読者にとっては、理想的な展開だろう。ここで例えば「潔は努力の果てに到達した推理の天才だった」などという設定が入り込もうものなら、推理をしたこともないような読者は、それだけでもう「潔は自分とは違う」と思い、そこで感情移入することをやめてしまって、それ以上推理することの興味も失う。だから本格推理小説は、なるべくそういう取りこぼしをしないために、多くの読者が何の疎外感もなしに、なんの障壁もなしに推理してもらえるよう最大限の注意を払っているのだ。

「十角館の殺人」を通して感じた、本格推理小説というジャンルそのものの問題点

しかしそのことが、実は本格推理小説という存在そのものの構造的な欠陥を招いているように思う。というのは、そういう推理してもらいやすさの追求というのは、結局はまやかしの面白さしか生み出さないからだ。それは麻薬のようなものだ。一時は快楽を味わえるが、その代わりに重大な副作用がある。あるいはジャンクフードのようなものだと言ってもいい。化学調味料をたっぷりとまぶしてあって、誰が食べても美味しく感じるけれども、しかしそればっかり食べていると、とたんに味覚は鈍感になるし、身体もぶくぶくと太ってしまう。

本格推理小説は、推理しやすさというものを追求しすぎた結果、物語の、あるいは小説にとっての一番面白いところをさえもネグレクトしてしまって、結果的に本当の楽しみを読者に与えることができないでいるのだ。


小説に限らずなんでもそうなのだが、本当の面白さや楽しみというのは、苦みや痛みと不可分なものである。コーヒーの本当のおいしさは苦みの中にこそある。小説の面白さは、感情移入しにくい、むしろ嫌悪感さえ抱かされるような、強烈で個性的なキャラクターの中にこそあるのである。

例えば、「ゼロの使い魔」のルイズ・フランソワーズ・ル・ブラン・ド・ラ・ヴァリエールは、冒頭では、あらゆる読者から眉をひそめられそうな性格をしている。彼女はなにしろ貴族としてのプライドで凝り固まっている上、ちょっとしたことで怒り、気むずかしく、あまつさえ自分の都合で呼び出した才人を平民とバカにし、悪口を言い、蔑んでいるのだ。

だから、たいていの読者は最初ルイズを嫌い、僕はああルイズ様ッ!もっと!もっと罵ってくださいッ!、私めはバカ犬でございますッ!、どうぞ叩いてくださいッ!!足蹴にしてくださいッ!と喜ぶ。しかし、そうした嫌悪感を乗り越え、嫌々ながらもルイズとともに物語の中を歩み、彼女の体験する艱難辛苦を共有することによって、次第にルイズが別れがたい、魅力的な存在となっていくのである。そうして現在16巻からなる大部の物語を読み終えた頃には、ルイズは一生忘れ得ない親友となる。竹馬の友となる。あるいは心の支えとなる。よりどころにさえなる。ルイズを知ったおかげで、生きていくことの勇気が出たという男性が、これまでどれほど多くいたことだろうか。


小説の本当の面白さ、楽しみというのは、そういうところにある。それはけっして入りやすさや推理しやすさの先にはない。むしろそれと相反するところにあると言っても過言ではない。

本格推理小説の抱える構造的な問題は、ここにある。入りやすさ、推理しやすさを追求するばかりに、小説本来の面白さ、楽しさまでが薄まって、消えてしまっているのだ。


これでは、早晩飽きられる。早晩見切りをつけられる。早晩「なんだ、小説ってこんなものか」と見限られ、以降、その読者からは本格推理小説はおろか、小説そのものを読んでもらえなくなる。

本格推理小説で飽き足らなくなった読者が、もっと面白い小説を探し求めて、「ゼロの使い魔」にたどり着く……というロードマップが敷かれているのなら、まだ良い。しかし今は、小説以外にもたくさんのエンターテインメントコンテンツというのがある。若い読者が初めて出会う小説であるところの「本格推理小説」が、小説本来の面白さや楽しさをネグレクトしたものだったならば、「なんだ小説ってこんなものか」と見限られてしまって、それ以降二度と小説を読んでもらえなくなるという可能性も、今の時代は多いのではないだろうか。

これは、文化という側面で考えた時にはもちろん、ビジネスという側面から考えた時でも、けっして得策ではない。今の本格推理小説は、読者に対してマーケティングしているようで、実はしっかりできていない。映像化不可能とか何事か。目先の売上ばかりに目がいき、彼らの本当の満足を引き出せていない。

そして全くイノベーションができていない。今の本格推理小説は、過去に編み出された読者を引き込む、読ませる手練れにばかり拘泥して、本当に楽しませようという本来の目的を見失っている。

これでは、本格推理小説というジャンルは早晩滅んでしまうだろう。これでは早晩廃れてしまう。

ではどうすればいいのか?

ぼくが思うのは、本格推理小説に携わる多くの人々にとって今本当に必要なのは、長期的視野に立った、そして本当の意味で読者の立場に立ったマーケティングと、それに伴うイノベーションである。本格推理小説に携わる人々には、初めて小説というものに出会う読者たちに、小説というものの本当の面白さ、楽しさを伝えるための重大な責務がある。それが、長きに渡って小説を愛してくれる優良な顧客を生むかどうかの分かれ目になる。そこで優良な読者、あるいはマーケットを育んでいくことが、長期的な視野に立てば、本格推理小説のみならず、小説というジャンルそのものを生きながらえさせる唯一無二の方法でもある。その意味で、本格推理小説に携わる人々の責任というのは、本当はとても重いたいし大きいのだ。


全ての本格推理小説関係者は、今一度「ゼロの使い魔」を読んでみてはどうだろうか。そして小説の本当の面白さ、楽しさというのを再確認した上で、「では主人公はどのようにしたらいいのか?」「人をどうやって描いたらいいのか?」というのを、あらためて考えてみることをお勧めする。

入りやすさや推理しやすさを追求することは、それはそれでだいじだし、必要なことだとも思う。しかしながら、それによって小説本来の楽しみや面白さを損なってしまうことは絶対に避けなければならない。それでは本末転倒である。そこだけは必ず残さなければならない。


だから、本格推理小説に携わる人たちに今求められているのは、入りやすさや推理しやすさは残したまま、小説本来の面白さや楽しさを味わってもらえるような小説を作ることだと思う。そういうイノベーションを起こすことだと思う。

そして、それには「ゼロの使い魔」を読むといいのではないだろうか。この小説は、それがけっして不可能ではないことを証明しているし、そういうイノベーションを果たすためのヒントが、いくつもちりばめられているように思うからだ。

追記

テンプレとしてあまりに優れているのでつい出来心でやってしまいました。申し訳ありません。