「ベレーザの選手、私にパスくれへん」と泣いた選手がいた……なでしこJAPANの成功を呼び寄せた佐々木則夫のチーム作り

有名サッカー関係者にさまざまなエピソードを伺うこのインタビューシリーズ。今回はなでしこJAPAN監督として日本女子代表をW杯優勝へ導いた佐々木則夫さんにご登場いただきました。2011年の女子W杯での劇的な優勝、ロンドン五輪、2015年W杯での準優勝はサッカーファン以外の日本国民にも大きな印象を残しました。この記事ではなでしこJAPAN監督時代にチームでどのようなことが起こっていたのか、監督として選手をどのようにコントロールしたのかをじっくり語っていただきました。 (大宮のグルメ・和食)

「ベレーザの選手、私にパスくれへん」と泣いた選手がいた……なでしこJAPANの成功を呼び寄せた佐々木則夫のチーム作り

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日本を初めて世界一に導いた男

いつも紳士的で物腰も丁寧な指揮官

そう見えながらも佐々木則夫は

多くの厳しい判断を続けていた

 

なぜなでしこジャパンを引き受けようと思ったか

最初に何に手をつけなければいけなかったか

どんなことがチーム内で起きたのか

佐々木は隠すことなく語る

 

選手に対しても自分に対しても

常に正面から向かい合ったことが

きっと成功を呼び寄せたのだろう

大宮のお勧め店もピンポイントで教えてくれた

 

なでしこジャパンはNTT関東に似ていた

私は電電公社に入社して、そこからずっとNTT関東、大宮アルディージャというNTT関連の世界にいたんです。そうすると、いつまで経っても先輩は先輩で、後輩は後輩っていうことになっちゃうんですよね。

 

プロ化しても、どうしてもその世界を引きずっている部分が昔はありました。私にはどうしてもその器の中でしか見られてないんじゃないかという思いと、今後の実績のためには外に出て勉強しなければいけないんじゃないかという思いがありました。

 

実はね、同リーグのクラブからも、ちょっとお誘いがあったんですよ。ただ、同じリーグのチームで大宮と戦うわけにはいかないなっていうのもあったんです。大宮にはS級コーチライセンスも取らせていただいて、そういう意味ではやっぱり世話になってるし、20数年ずっと在籍したわけですから。だから同じJリーグのチームはちょっとできないと思っていたので。

 

そうしたら日本サッカー協会の大橋浩司なでしこジャパン監督から誘ってもらったんです。S級コーチライセンスを取るときの同期だったので、気も質も分かった上でオファーをいただいたんですよ。でもそれが春で、私は大宮ユースの監督をやっていて、夏と秋の大会で選手に何とか結果を出させたいという使命の中でトレーニングを積み上げてたんです。

 

それで「今はちょっとできないけど、もし秋になったときにまだ要望があるんだったら話を受けます」と答えてたんです。そしたら秋の大会に終わったとき、「やってもらえないかな?」ってまた誘ってもらえたんです。

 

だから妻に「こんな話あるんだよね」って。「この前からいろんなチームから誘いがあったけど、でもな、同じリーグでやるわけにもいかないんだよ。なでしこジャパンだったらそういうこともないから、どうかな?」って説明したんです。

 

そうしたら妻は「あなた、やりたいんでしょう?」って背中を押してくれたんですよ。それで2006年から日本サッカー協会で1年ちょっとコーチをやって、2007年に大橋さんが退任されて次の監督が私になったんです。

 

私がなぜ、なでしこジャパンを引き受けようと強く思ったかというと、NTT関東というチームがなでしこに似てたからなんですよ。というのは、当時NTT関東が所属していた日本フットボールリーグ(JFL)にはプロ化するチームがいくつかあって、それぞれプロの選手がいたんですけど、うちにはほとんどいなかったんですよ。

 

しかもNTT関東は真面目な選手ばかりで、特筆するべき選手がいるわけじゃないんですけど、組織的に構築しようとするとすごくキチンとできる選手ばかりがプレーしてたんです。最後まで諦めずにがんばるというチームを作ってたんですね。

 

春にオファーをいただいたあとに、なでしこジャパンのキャンプを見に行ったり試合を見たりしたら、すごく真面目なんですよね。それで「うちの選手に似てるなぁ」って。NTT関東の選手がやっているように組織的にプレーしたり、チームオーガナイズを整えれば、非常にまとまって、個人が生きてくるんじゃないかと思ったんですよ。だったら自分は、なでしこジャパンの力になれるかもしれないって。

 

澤穂希のポジションを変えた理由

監督になって澤穂希のポジションを変えたんです。それまでの澤はずっと前線に近い位置でしたけど、ボランチにしたんですよ。

 

それまでなでしこジャパンの中盤はダイヤモンドが多かったんですね。大橋監督のときも、その前もでした。そして菱形の前に澤を置くんです。そうすると守備になったとき、澤を除いた3人で守らなきゃいけないので、日本人のフィジカルじゃ厳しいと思ってました。日本は守備のときに最低でも中盤の4人がボールに関われるようにしないと、スライドしながらマークを受け渡していってもダメだと考えていたんです。

 

それから澤はどちらかというと、前でパスを受けるときに相手に背を向けているとあまりいいプレーができなかったんです。ボールが動いている間に相手を見て、パスを受けたときパッとハーフターンして前に行くというのは少なかったんですよ。

 

だから、高い位置で相手選手を背後に抱えてボールを受けると、すぐ後ろの味方選手にパスを出しちゃうんですよね。それをどうにかしたいという考えが、まずひとつありました。

 

次に守りを考えたときに、澤は守備がすごく得意なんですよ。ボールを奪取するときの動きがいい、チャージも深い、すごく勝ち気。こういう澤のいい部分がトップ下にいると生きないんです。守備になったとき、すぐにボールに関われないんですよ。何回かは関われるんだけど、関われない数が7割がぐらいあった。これはもったいないと。

 

その2つを合わせて、澤に「君はボランチが最適だよ」って言って、澤を4人が横並びになる中盤の真ん中に置いたんです。前を向いてボールに関わったとき、彼女はもっと生きると思いました。守備でももちろん、攻撃への嗅覚もありますから。「ここだ!」と思ったらトップスピードでグッと前に行きますからね。

 

私は中盤の底に置けば、守備でも評価されるようになって、澤は大成すると思ってました。でも最初はポジション変更を受けたがらなかったんですね。それで「まずとにかくやってみろ」っていう感じだったんです。そうしてやってみたら、彼女は納得してくれて、私がやろうとしていることを他の選手にどんどん伝えてくれたんです。澤はそういう選手でしたよ。

 

そこで我々は、サイドハーフがボランチ2枚のところに相手選手を誘導して、中央でボールを取るという戦術をとりました。中から外に押し出すのじゃなくて、外から中に追い込んで、我々が密集しているところでどんどんボールを奪取するんです。中から外に追い込むと、外で詰まった相手選手はクロスを蹴るんですよ。我々は体が小さいので、ボールを蹴られると、それだけでもピンチになるんです。

 

それから外でボールを奪っても、相手がプレッシャーをかけに来るから結局タッチに出すことになる。すると相手はスローインで大型選手に合わせてくるんです。背の高い選手が我々の陣地でプレーすると何が起きるかわからないじゃないですか。クロスを入れられるだけでも怖いのに。

 

だったら外側では縦方向をに蹴らせない。それで中に追い込むと、相手は自分たちのボランチにパスをする。そこにバーンとプレッシャーをかけて奪いに行く。奪えなかったら次にスライディングする。

 

スライディングしてボールを取れなくても、相手のコントロールをぶれさせるだけでいい。そこを次の選手、できれば澤がボールを奪取する。澤が前を向いているといい展開をしますからね。つまり、澤のポジションを下げたことで、澤のチームを作るということだったんですよ。

 

「ベレーザの選手、私にパスくれへん」と泣いた選手がいた

澤の隣には阪口夢穂(TASAKIペルーレ、FCインディアナ、アルビレックス新潟レディースを経て2012年に日テレ・ベレーザへ移籍)というパワーのある選手を置きました。阪口は日本人の中で展開力も高くてヘディングが強い。澤もヘディングは弱くないんですよ。だからダブルボランチにこの2人を並べておけば、多少ロングボールを蹴られたとしても、センターバックの代わりになってヘディングで弾き返せると思ったんです。そうしたらすごく名コンビになったんですね。

 

澤は献身的にスライディングするんですよ。意識的に反応するんですよ。でも阪口はそんなプレーが「私はいややねん」って、あまりハードワークしたり一生懸命プレーするのが好きじゃないんですね。

 

アイツはすごいシャイで、ムキになってやるとか、それがダメなんですよね。そこを直せばすごくいいプレーヤーなのに。ボールのフィード、ヘディング、ロングフィードと、すべてのプレーの質は及第点なんですけど、ハートが(笑)。

 

誰かのためにやってやろうとか言えない。一生懸命な姿を見られるのがイヤだというタイプで、言葉で何か伝えるのは「わかれへん」とか、そんなことを言ってたんです。でも隣で澤のプレーを見て、私が何か言うことなくして、だんだん成長していったんです。

 

澤が献身的に何も言わずにやると、あいつも私もやらなきゃいけないと、スライディングしてました。アイツには毎日スライディング練習させてましたけど、自然にがんばれる選手になったんです。

 

それから加藤與恵の存在も大きかったですね。小柄で一生懸命やる選手で、彼女もすごいメンタリティがあった。でも世界で戦うためには阪口を選んだんです。加藤がサブにいるということで、阪口もプレッシャー受けて、よりいいプレーができていました。

 

でもそんな阪口が一回、めげそうになってましたよね。キャンプに行ったとき元気がないんですよ。それで「お前何ベソかいてるんだよ?」って聞いたら、「日テレ・ベレーザの選手、私にパスくれへん」って。

 

あれは、私との個人的な話でしか言えないことだと思います。でもね、そのあと私は選手みんなの前で「あのなぁ、ここのチームでなぁ、日テレの人は私にパス出してくれへんというヤツがいるんだよ」って言ったんですよ。阪口は泣いてしまいましたけど。

 

「お前らね、そんなことはしてないと思うけども、代表の中でそんなことが感じられるような仕草だったり行動だったり、思いだったりしてるなんてね、代表チームなんてなりたたねぇぞ」って。

 

この話をみんなの前で言いましたから、阪口のような若い選手は私にもう何も言えなくなるかもしれないと思いましたけど、この問題はここで解決してなきゃダメだって思って。そうしたら、そのあと、みんなで話し合ってくれて、なんとかいい方向に戻りました。

 

日テレとか、TASAKIペルーレ(現在は休部)とか限られたチームから代表選手が多く選ばれていて、他のチームの選手は過剰に意識するわけですよ。本当に狭い世界なんで。だからさらにそういう思いがちょっとでもあるのかなって。それはぶっ壊さないといけないし、限られた人材しかいないんだから。

 

みんな表面ではうまく付き合ってるんだけど、何かそういうところがあるなってわかりましたね。阪口は若いから逆に、そういう言葉が出てきて、私に伝えてきたんでしょうね。

 

それからも選手が相談に来るんですよ。それは一応受け入れてました。それで「あぁ、そういうことあるよな、オレも昔あった。あったんだけど、いくらがんばってもオレからは満足できる答えは出てこない。オレとお前は世代が違うから。だからその点に対してはコーチの望月がいいよ。望月に言っておくから」と言ってました(笑)。

 

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「やさしい上司」のイメージだが実際はドライ

私には「やさしい上司」というイメージがあったかもしれないですけど、選手を見る目はドライです。女子選手にそれまであった風潮を変えていかないとダメだと考えもありましたね。私が男性だから選手が甘えすぎてる傾向もあったのかもしれないですけどね。女性の監督のほうが意外にドライかもしれないです。

 

私は選手を合宿に25人呼んで、3日間で5人帰して、1週間で3人帰してとか、そういう「切り捨てキャンプ」をやったりしました。なぜかというと、経費がなくて25人ずっと呼べないという事情もあったんですよ。

 

経費が足りないと言われて「わかった。それならオレの手法でやる」って。そうしたら「それは止めろ」「切り捨ては止めろ」って言われたんです。それで説明しました。「これは切り捨てるんじゃないと。1人でも多く、これからやろうとする戦術的なことを理解してもらうためにやるんだ」と。

 

もちろん「生き残り」の競争をさせるという部分もありましたよ。「君たちは代表という場で競争しなければいけない」と。私にはなでしこジャパンがいつも仲好し小好しでやってる感覚がすごくあったので。

 

選手の人間関係は密接で、それが甘えにも感じられたんですよね。合宿で集合したら暗い選手がいたんで、「元気ないね、体調悪いのか?」って聞いたら、「誰々ちゃんを呼んでくれてないから今回私ちょっと元気ないんです」と言う選手がいて、「ふざけんなよ!」って。

 

だから「切り捨て合宿」で選手にはもっと意識を高く持ってほしいと思ってましたが、やり方としては悪い方向といい方向のどちらに行くかという分かれ目でした。

 

あとは2008年北京五輪のときに山郷のぞみをメンバー外にしたときも分かれ目でしたね。山郷は前回大会の守護神で、ベテランでチームの精神的主柱の1人でした。彼女を選ばなかったとき、私の後ろで他の選手たちが泣いてましたね。

 

でも私は「お前たち、代表っていうのはそれだけ厳しいんだよ」って言ったんです。そのあと山郷と話をしたんですけど、山郷はみんなの気持ちをいい方向に向かせてくれました。そして「山郷のためにがんばろう」ということでまとまったんです。選手たちの意識をもっと改革するためには、こういう決断も重要だという賭けではありましたね。

 

もっともメンバーをどうするかという部分はドライですけど、代表チームに来たら自分のテリトリーの中なので、優しかったと思いますよ。説明しながら「わかんないことあるか?」って尋ねると、「ノリさん、それわかんない!」という選手がいたりしたんですよ。

 

丸山桂里奈はオフサイドがどういう反則かわかっていなかったという話がありますけど、彼女に細かくオフサイドのことを教えたらもう動けないですよ(笑)。でもね、スピードはあるんですよ。そして丸山の場合、相手守備ラインの後ろに走って出るのは、自分のリズムでいいんです。

 

そういうプレーをして、5本走って4回オフサイドでも、1回チャンスできるわけじゃないですか。それを細かく「ああじゃない、こうじゃない」って言うと、何もできなくなる傾向があるんです。

 

練習のときもみんなが並んでて、トレーニングの内容が変わったりすると、彼女はまったく理解してなかったですよ。だから「ちょっと、後ろに行って見てろ」と。私が言わなくても、他の選手が「桂里奈、ちょっと後ろに行ってて」って。で、丸山はじーっと見てるんですけど、それでも間違えてましたからね。何回かやってるうちに覚えたら練習終わっちゃったって(笑)。

 

今、丸山が出る番組からよく出演依頼が来るんですが、テレビ局の方には、「丸山には『君のことは一生懸命テレビで応援してるからね』と伝えてください」と、お断りしています。

 

どうやら丸山は「2015年カナダワールドカップで、どうして出してくれなかったのか」って聞きたいらしいんですよ。それで「桂里奈にその判断の理由を言うと、あと50人ぐらい説明しなきゃいけないんで、君だけに説明するわけにはいかないから、申し訳ありませんけど、そう伝えてください」って。

 

カナダワールドカップの決勝で岩清水梓を交代させた理由も伝えてないですよ。失点に絡んでしまって、岩清水は途中涙を流してたんですよ。汗かもわからないけど。私には悲痛な顔をしているように見えたんで、今このピッチにいさせる辛さを味あわせるべきだろうかって。

 

最後までやらせるか代えるか悩んだ記憶がありますが、岩清水は次の人生をがんばれるだろうから交代させようと。負けていたので点を取らなきゃいけないということもありましし。

 

いろんなことがありましたけど、なでしこジャパンの監督だったとき、苦労というのは全然感じなかったですね。楽しいですよ。メッチャメチャ楽しい。いろんな壁にぶち当たったんですけど、すごい楽しい。いろんな試合を見ながらヒントないかなって。本を読んだりしてもね。

 

順風満帆でいっているほど、何かちょっとつまらないなって思うんです。あまり自分のイメージどおりになってくると「おかしいぞ」と。なでしこジャパンの監督なんて1人しかいないでしょう? 与えられた仕事としては本当にやり甲斐がありますから。給料のことは関係なく。みんなから「大変でしょう」って言われてたんですけど、何が大変なんですかって、そんなふうに見えますかって思ってました。

 

凍ったグラスで飲むビールが美味しい

私は今、大宮に住んでいるんですけど、ここには「人形町」って言うお好み焼き屋さんがあるんですよ。大宮駅の東口を降りて、徒歩6分くらいのところにあります。

 

私はもんじゃが大好きでよく行ってるんです。どうやらアルディージャの選手も結構来てるらしいです。まだ店で会ったことはないんですけどね。

 

好きなメニューは……「お任せ」って言っておくと、おいしいのをぱっと作ってくれるんですよ。お好み焼きもあるんですけど、私はお好み焼き食べるとそれで終わっちゃうんで。だからもんじゃを、ひたすらいろんなメニューを変えて、食べながら飲んでます。

 

ここはビールがね、いいんですよ。グラスが凍ってるんです。それともんじゃを食べると、めっちゃおいしいです。ただ私の酒は半端ですよ。飲んで眠くなると帰りますから。たとえそのとき話がのってても、「オレ、適量に達しましたので、ちょっと帰るわ」って。今度、アルディージャの試合に来たら、ぜひこの「人形町」で食べてみてくださいね。

 

人形町
〒330-0845 埼玉県さいたま市大宮区仲町3-16

r.gnavi.co.jp

 

佐々木則夫 プロフィール

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帝京高校、明治大学を経て1981年に電電関東(NTT関東→大宮アルディージャ)へ入団。1991年に現役を引退して以降は、大宮で監督やユース監督を歴任。2006年からは日本女子代表コーチ、2008年からは日本女子代表監督としてW杯優勝、ロンドン五輪準優勝など輝かしい成績を残し2016年に退任。現在は日本サッカー協会理事。

1958年生まれ、山形県出身

 

 

 

 

 

取材・文:森雅史(もり・まさふみ)

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佐賀県有田町生まれ、久留米大学附設高校、上智大学出身。多くのサッカー誌編集に関わり、2009年本格的に独立。日本代表の取材で海外に毎年飛んでおり、2011年にはフリーランスのジャーナリストとしては1人だけ朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)の日本戦取材を許された。Jリーグ公認の登録フリーランス記者、日本蹴球合同会社代表。

 

 

 

 

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