正月早々演じられたウェブ上の小規模な諍い、および「表現の自由キリッ」の意味するところについて

正月早々演じられたウェブ上の小規模な諍い

正月早々、ワールドワイドウェブの片隅で、小規模な諍いを演じてしまった。
今年最初のエントリーがこんなのか!と悲しくもなるが、これまで私がこのブログで書いてきたことと全く無関係ではないし、今回はこの諍いについて書くことにする。
 
相手は(またも)id:tari-G氏である。
http://b.hatena.ne.jp/quagma/20110102#bookmark-27870473 (ブコメ1)
http://b.hatena.ne.jp/tari-G/20110102#bookmark-27870473 (ブコメ2)
http://b.hatena.ne.jp/tari-G/20110102#bookmark-27869783 (ブコメ3)
http://b.hatena.ne.jp/quagma/20110102#bookmark-27869783 (ブコメ4)
 
発端は、Apeman(apesnotmonkeys)氏のブログエントリーのコメント欄で、「アメリカ≒在特会?」という捨てハンを用いた人物によりなされたコメントにあった。

「相手を不快にする権利」、一応の結論 - 小熊座
http://d.hatena.ne.jp/quagma/20101225/p1

米国連邦最高裁の判例では「ヘイトスピーチも言論の自由により保護される」らしいですが…
連邦最高裁も「表現の自由キリッ」ってことですか?

ここに私の書いたエントリーが挙げられているのを見て、思わず

quagma あちゃー…やっぱりこういうふうに私のブログ記事を利用しようとする奴が出てきたか…正直勘弁してほしい。

ブコメ1

とブコメしてしまった。
 
なぜこんなふうに嘆いているのか。こんなわけがある。
ここで挙げられているエントリーにおいて、私はBrandenburg判決ã‚„RAV判決などを挙げて

合衆国の判例においては、「ヘイトスピーチも言論の自由に含まれる」らしいのである。

「相手を不快にする権利」、一応の結論 - 小熊座

と簡単に説明している。
まあ間違ってはいないにしても、雑な書き方である。後に続く判例との関係など、このあたりの解釈は複雑なものを含んでいるので、本当はそう簡単にひとことで言ってよいものではないのだ。また、学説による批判はもちろん、連邦最高裁の内部ですら有力な反対意見があったりすることにも言及していない*1。こうした不備のために、私の書いた当該エントリーは、「ヘイトスピーチも言論の自由に含まれる」という一面的な認識「のみ」が印象付けられやすい構成になってしまっている。特にいわゆる「ネトウヨ」的心性の持ち主に、不正確な事実認識に基づいた自己正当化の論拠を与えてしまう怖れがある。当該エントリーについたブコメの反応などを見るほどに、こうした危惧を覚えずに入られなかった*2。
そこへもって、Apeman(apesnotmonkeys)氏のブログにおけるこのコメントである。これを見て、私は「恐れが現実化した」、すなわち私の書いたものにより不正確な事実認識を得た者がさっそくそれを振り回している、と思った。そこで私は思わず上記ブコメ1のようなことを述べたのである。
  
そこに、同じブックマークページ上でtari-G氏がブコメ2を重ねてきた。

tari-G ↓人権は法の下の平等により、立場と全く無関係に共通して備わる属性ですから、援用する相手を選べませんよ?

ブコメ2

これは私からすれば、全く不可解なコメントである(だいたい、人権という概念は定義上「人が人であるというだけで無条件に認められるもの」という意味があるから「法の下の平等により」なんて言葉は必要ないのでは)。
たしかに、このブコメ1を客観的に(私の上のような主観を抜きにして)見れば、「自分の考えに反する意見をもつ人間に自分のエントリーを援用されて困惑している」と理解すること「も」可能ではある。しかしそれは勝手読みの決め付け以上のものではない。ブコメ1そのものには「私が具体的に何について困惑しているのか」についての情報は含まれていないのだから。
 
というか、仮に私が「嫌な相手に援用された」ことによって困惑しているとしても(まあ正直に言って私の困惑にそういう面もあることは否定できない)、そこにこのようなコメントをつけることに、はたして意味があるのだろうか。
そもそも困惑する、嫌だと思うこと自体は人権概念の理解の有無とは無関係である。「ネトウヨ」も含むすべての人に人権が保障されていることと、「ネトウヨ」っぽい人物に自分が人権について書いたことを援用されて不快に思うこととは、全く別の話なのだ。すなわち、ここでのtari-G氏の指摘は、私を不快にさせるのが目的なのでなければ、これっぽっちも意味がない。

ずれたことを言われて釈然としない私が「これそういう話なんですか?」と追記したのに対し、tari-G氏は「ええ、詰まるところ人権の議論とは実は最も嫌悪する相手の為のものなんです。」と返してきた。私も毎度言葉が足りないが、全く伝わっていない。
 
また、tari-G氏は別のウェブページに私をidコールするブコメ3も残している。

tari-G お、ちょうど、自説を在特会に援用され嘆いているid:quagmaさんむきのものが。

ブコメ3

と、私をidコールしつつ「凶悪な犯罪者には人権なんていらないんじゃないの?」という質問に答える形の人権団体の記事*3をブックマークしている(このコメント内容は、すぐ後に述べる私の指摘を受け、現在書き換えられているが、私の元にはidコールによる記録が残っている)。
この人を馬鹿にした物言いは何なのか。単純に失礼だし余計なお世話だとしかいいようがないが、他にも妙なところがあったので、私は同じブックマークページにこうブコメした。

quagma 適当なこと書かないように。あれは「在特会」じゃないし奴が援用(?)したのは私の「自説」じゃない。朝っぱらから呼びつけてピントずれたことしないでください。

ブコメ4

「アメリカ≒在特会?」という捨てハンを用いた人物を「在特会」とする「取り違え」(?)は理解に苦しむ。
また、捨てハンの人物が私のエントリーを援用したのは「連邦最高裁が『ヘイトスピーチも言論の自由により保護される』と述べている」という一点を利用するためであるのは明らかだが、私の考えは連邦最高裁の立場とは異なる。そしてそのことをtari-G氏が知らないはずはない。なにしろ、tari-G氏みずから当該記事のブコメやそこから発展したhaikuでのやり取りで私の「自説」を批判しているのだから*4。したがって、援用されたのが私の「自説」だとする「取り違え」(?)も、理解に苦しむものだと言わねばならない。
これは私の僻みかもしれないが、実際のところ、こうした「取り違え」は可能なのだろうか。
 
このような私のブコメ4に対し、すぐにtari-G氏はブコメ3の内容を書き換えた。

お、ちょうど、自分が人権について書いた物を嫌いな奴に援用され嘆いているid:quagmaさんむきのものが。

ブコメ3(書き換え)

直したこと自体は良いが、二点も事実と違ういい加減な「ウソ」を書いておいて*5、何の詫びもことわりもなしというところに不快感をつのらせずにいられなかった。そこで私はブコメ4に追記した。

↓書き換えてら…いい加減な奴。

ブコメ4(追記)

ここでも私は言葉が足りなかったかもしれない。「何の詫びもことわりもなしかい!」とでも書いておけばよかったか。
tari-G氏はブクマタグおよびブコメ本文の追記によって、以下のように応答してきた。

「素直に直すとこれか, アイタタタ・・・」
「やれやれ「奴」ときたか。すぐ馬脚を出すもんなぁ。原文はそちらにあるから解る筈ですが趣旨は同じなんですよ?」

ブコメ3(追記)

馬脚を現しているのはいったいどっちなのか。「趣旨は同じ」なんてことは問題じゃない(ブコメでは書かなかったけど)。「人権が誰にでも認められる権利である」ということと、私が変な人に自分の書いたものを変なふうに援用されて困惑することと、いったい何の関係があるというのか。
 
と、ここまで書いてきてちょっと不安になってきたのだが、tari-G氏が純然たる善意でこれらのコメントをし、「奴」呼ばわりされたことに本当に傷つき悲しんでいる、ということはないよね…
もしそうだったら申し訳なく思う。
 
以上が諍いの経緯である。
 

「表現の自由キリッ」の意味するところについて

ところで、ここで話はそもそもの発端であるApeman(apesnotmonkeys)氏のブログエントリーに戻る。
私は、このエントリーおよびコメント欄において言われている「表現の自由キリッ」について、その意味するところがいまいち把握しきれない感があった。しかし、今回のやり取りを通して、私は「ああ、これか」と思ったのである。
 
「表現の自由キリッ」っていうのは、本来「表現の自由」の出番ではない場面で「表現の自由」によって自己の行為を正当化できると考えるズレた振舞いを揶揄した言葉なのではないか。
 
そもそも、「表現の自由」をはじめとした人権という概念は、国家などの公権力による個人*6の権利の侵害という局面において、侵害から個人を保護するためのものとして現れる。これは単純に公権力が圧倒的な力を持っている、という事実にもよるが、それ以上に国家等の公権力が「法」を制定し執行するという特殊な性質を持つものである、という点による。事実上の「権力」と、法という裏づけを持った公権力は、その性質に本質的な違いがあり、厳密に区別されなければならない、というのが法学の考え方である。
そして憲法上定められた人権は、具体的には、違憲立法審査権を持つ裁判所(司法権)が、不当に人権を制限するような法を「違憲」と宣言することによって、その法を無効にする*7、といった形で作用する。
私人どうしで行われる議論の場において、言論によって言論の内容を批判したり、発言の撤回を求めたりすることは、公権力による法に基づいた規制とは全く異なる。したがって、批判等を受けた者が「私の表現の自由が侵害されている」と述べたとしたら、これは人権というものを誤解した振舞いということになる*8。むしろ、こうした場でガンガン批判しあうこと、そしてそのような議論を経て公衆に受け入れられない言論が淘汰されることを、「表現の自由」は予定しているというべきである(思想の自由市場)。これを理解せず、公権力が出張ってきているわけでもない場面で「表現の自由」を振り回して自己正当化を図る、典型的にはこうしたレベルの取り違えを「表現の自由キリッ」と言っているのではないか。こうして見ると、わかりにくい*9一方で煽りが効きすぎの面はあるが、「表現の自由キリッ」というのはなかなか含蓄のある言葉ではあると思う。
だとすると、Apeman(apesnotmonkeys)氏のブログエントリーのコメント欄にて別にびっくりするようなはなしではないが - apesnotmonkeysの日記「連邦最高裁も『表現の自由キリッ』ってことですか?」などと述べる「アメリカ≒在特会?」なるハンドルを名乗る人物は、これを理解していないということになるだろう。連邦最高裁が公権的判断として「ヘイトスピーチも言論の自由により保護される」と述べるのは「表現の自由」の本来の作用そのものであって、「キリッ」も何もない。Apeman(apesnotmonkeys)氏が呆れるのも無理はないだろう。私が「あちゃー」と思ったのには、今思えば、こんなへぼい人物に自分の書いたものを援用されてしまった、という恥ずかしさもあった。
それにしても、「変な奴に自分の書いたエントリーを利用されてしまった」というごく私的な困惑に対し「人権は援用する相手を選べませんよ?」とコメントすることも、またとんちんかんなレベルの取り違えというほかなく、まさに「表現の自由キリッ」な振舞いに当てはまってしまっていると言えないだろうか。
 
[追記1]
本エントリーにtari-G氏がブコメをつけている。

tari-G いつもながら, おもいっきり, 偉そうに言いますが 地下猫にも言っていますがquagmaさんの場合も現状は井の中と思いますから、体系的学習により地平を広げるのが一番の早道と思います。ま、もしも気が向いたらハイクに書きます。

このエントリーで書かれていることには何ら反論せずに出てくる言葉がこれですか…
なんかもうよく分からないなこの人。

*1:いずれ、このあたりの不備を補うエントリーを上げたい。

*2:「危惧を覚え」るだけで何もしなかったことについては、責められても仕方がないと思う。

*3:この記事自体は、非常に良い内容のものであると思う

*4:http://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/quagma/20101225/p1 http://d.hatena.ne.jp/quagma/20101227/p1参照

*5:指摘されなかったらどうしていたのだろうか?

*6:法人も人権享有主体たりえるとされている

*7:そのケースでのみ無効になるのか、それとも以降は法そのものが無効とされるのか、学説は別れる。

*8:ただし、私人どうしとはいえ、一方が使用者、もう一方がこれに雇われた被用者というような権力的な関係下において、使用者が被用者の言論を抑圧するような場合にも同じことが言えるか、というのは問題たりうる。

*9:実際、ブックマークページhttp://b.hatena.ne.jp/entry/d.hatena.ne.jp/apesnotmonkeys/20101228/p1を見ると、分かってないらしい人は結構多い