Q’s diary

生焼けの随想

優しさと愛

やさしさとはなんだろうと、このごろ考えている。

考えているだけでは仕方がないので、本を読むことにした。『やさしさの精神病理』という1995年に出版された精神科医による著作だ。近年の若者の間で「やさしさ」が変容しつつあるという。従来のいわば「ホットなやさしさ」が敬遠され、「ウォームなやさしさ」にとって変わられつつあるとの話だ。

もう少し具体的にいうなら、従来の「ホットなやさしさ」は相手の気持ちを聞いて理解し、その上で寄り添おうとするやさしさだった。相手に積極的にコミュニケーションを取ろうとし、その「絆」を重視し、裏返しとしての「束縛」も受け入れるというやさしさだ。そこでは相手の気持ちに踏み込むことこそがやさしさだし、相手に気持ちを伝えることも大切だ。しかしそれは相手を傷つけ、自分が傷ついてしまう危険性も伴うものだ。主観世界のできごとが、他者にも同じ意味を持つと信じ、自己の判断で他者の世界に踏み込むずうずうしさが求められる。勇気を出すというよりは、それが当たり前だという信じ込みを前提とする。自他の合一。根本的なところでの価値観は一致しているという無邪気でリスキーな固定観念。それが世俗的な「ホットなやさしさ」の源だ。最近流行りの「自他境界」とやらがしっかりしていたら、決して発揮できないたぐいの「やさしさ」だ。助けを求めてるのに声を出せないでいる人に手を差し伸べるやさしさは、必然的に押し付けがましいものになる。

だから、あの親戚の押し付けがましさは、優しさや共感性の欠如ではない。むしろ「人の気持ちがわかり他人の身になって考えられる」”優しい”人間だからこそ「あなたのために」干渉的な優しさを発揮する。うっとうしい、それはそうだ。しかしそのような思考回路を持たないで生きることのはらむ危険も認識しなくてはならない。陳腐な言い方をするなら「嫌われる勇気」こそが「ホットなやさしさ」だ。そしてそんな嫌われる可能性のない振る舞いでは、深く好かれることもない。そもそも、自分は他者を嫌いになることもあるのに、自分は嫌われたくないなんて卑怯で臆病な態度でまともに他者と関われるわけがないではないか。

一方で「ウォームなやさしさ」はその正反対と言ってもいいようなやさしさだ。相手の気持ちに立ち入ってはいけない。聞いてはいけない。涙は見たくないし、だから涙を見せるのもいけない。親に重たい相談をするのもだめで、学費に困っているということも言い出せずに一人で悩む。友達にだってそういう「うっとうしい」相談をするのはいけない。社交が必要なときも表面的な付き合いに留める。象徴的な例として、一回も鳴らしたことのないポケベルで安心感を得ながら偽りの親密さを続けるカップルや、人間やペットよりもぬいぐるみのほうが「理想的なやさしさ」を持つがゆえに好ましいとする青年の話が登場する。

この本を読んでいると、『のび太の結婚前夜』の有名なセリフを思い出した。

あの青年は人の幸せを願い、人の不幸を悲しむことができる人だ。それが一番人間にとって大事なことなんだからね。彼なら、まちがいなく君を幸せにしてくれるとぼくは信じているよ

うがった見方かもしれないが、これは踏み込まない「ウォームなやさしさ」を1980年台に先取りした表現だと思う。のび太はあなたにとっての幸せ像を押し付けない、勝手な行動に移さない。あなたの気持ちに土足で踏み込むことはしない。あくまで「願う」だけ。

正直なところ、このような「ウォームなやさしさ」がどこまで時代性を伴ったものなのかは定かではない。実際はもっと昔からあったような気もするし、またこの本が出てから30年がすぎているのに依然として全世代に浸透した感もない。とはいえ、「ウォームなやさしさ」の勢力が強まる状況は昨今加速しているように感じられる。というのは、現代は他人の心が見えてしまう時代だからだ。本当は距離があった他人の内心が見えてしまう。そして特に、だれかがやさしさの発露を失敗した結果として生じたすれ違いがよく見えてしまう。LINEのスクリーンショットがキモいと晒されているのはもはやおなじみだろう。「どしたん、話きこか?」はネットミームの地位を確立している。SNS時代、なにかあれば晒されるかもしれない。その確率は低いかもしれないけど、常にそのリスクを踏まえながら行動せざるをえない。そうするとおせっかいな優しさを発揮することはどんどん難しくなっていく。

あなたのいままでの人生で人に嫌われることはどのくらいあっただろうか。さしてなかったなら、おめでとう。そのやさしさは立派な「ウォームなやさしさ」だろう。それを「弱さ」だとか、「自分を守ってるだけ」と評することもできるかもしれないけれど、どうやらそれこそがいまでは「やさしさ」そのものらしいではないか。あなたは苦しんで助けを必要としている人に手を差し伸べてこなかった。だって、もし手を差し伸べることを実際にしていたら、ときには失敗して、傷ついて、傷つけているはずだから。人と人との関係はジグソーパズルみたいなもの。だれかに合う形になるなら、他の人には合わない。みんなに合うピースになろうなんて思い上がりが過ぎる。みんなにはまるピースは、だれにもしっかり引っかからないピースにしかなれない。

過去に、このように私的空間におけるおせっかいでリスキーなやさしさが衰退し、公共的な性質のある消極的なやさしさに取って代わられていくことについては記事を書いたことがある。他人との関わりにおいて、ウォームなやさしさがやさしさたりえないことについて扱った。

qana.hatenablog.com

誰かを愛することは、植物を育てることに似ていると思う。そして愛するなかで、やさしさというのは、植物に提供してあげる光や水のようなものなのだと思う。植物を芽吹かせ育てるためになくてはならないもの。でもそれでいて、タイミングが悪かったり、量を誤ったりしたら、種を押し流してしまったり、葉をひからびさせてしまう。やさしさも、そういうリスクを含んだものであるのは避けられないことだ。植物は意思表示することはできないし、見るからに様子がおかしくなってきてからでは手遅れだったりする。日照りが強すぎることを心配するからといって、ずっと日陰に置いておいたら、きっとその植物は枯れてしまうだろう。動物や人間を愛し関係を育むことも、ときに間違ってしまう可能性を最初から回避するのではなく、受け入れた上で最善を尽くすことなのだろう。

他人との関わり以外に、このようにしてホットなやさしさが失われることの帰結は、自分自身にも優しくすることができなくなっていくことだ。

「ホットなやさしさ」がなければ、自分自身にやさしくはできない。公共的な、距離をとった優しさは、自立した大人に対しての尊重としてはよい。しかし、受け手としての自分自身は、行為者としての自分自身が何かをしてくれるのを待っているだけで、自己完結などしていない。自分自身の面倒を見るためには、子どもやペットのように世話を焼く必要がある。自分自身ではなにもできないから。自立した大人として尊重するのでは不足。だから、おせっかいするのが苦手な人は自分のこともネグレクトしがちだ。自分が助けてと言うのを待っていたら、いつまでも自分を助けることはできない。

自分自身への接し方は行動として可視化されないから、まずは他人への関わり方から変えていく必要がある。「ホットなやさしさ」を取り戻すのだ。おせっかいをするのだ。相手の心に踏み込むようなことを言うのだ。そうやって干渉してみると気づくはずだ、案外人は助けを求めていることに。助けてほしい人ほど何も言えないでいることに。もちろん失敗することもある。それで縁が切れることもある。最悪晒されるかもしれない。それでも、人と関わるにはこのやさしさに戻る必要がある。ぬいぐるみを撫でて優しさを感じている場合ではない。人間と言葉を交わして、傷つけあって、それでも諦めない意思が必要だ。そうしてはじめて、自分にも優しくすることができる。それが、自分への愛なのだと思う。