1997年に倒産し、日本から姿を消した老舗文具ブランド「コーリン鉛筆」。その国産鉛筆が、いまタイで独自の進化を遂げ、国民的ブランドとして親しまれている。年間販売本数は再建当初の6倍、2019年には日本市場への“里帰り”を果たした。再生の立役者は、月給12万円、肩書きもないまま現地工場に踏みとどまった“破天荒な元社員”だった。その執念と再建の歩みに、タイ在住ライターの日向みくさんが迫る――。
井口さん
筆者撮影
タイでコーリン鉛筆を復活させた元社員・井口英明さん

日本から消えた「鉛筆ブランド」がタイで大人気に

「コーリン鉛筆って知ってる?」

筆者の問いに、タイ人の友人は懐かしそうに笑った。

「あぁ、赤い箱のやつ! 小学校でよく使ってたよ」

三角顔のロゴで知られる「コーリン鉛筆」。かつて日本の小学生に親しまれたこのブランドは、1997年に負債70億円を抱えて経営破綻し、日本市場から姿を消した。

ところがその後、海を越えたタイで“定番ブランド”として生き延びていた。図工の時間になると、タイの子供たちは赤や青の鉛筆を握りしめ、夢中で紙いっぱいに色を広げている。

コーリン鉛筆
筆者撮影
鮮やかな発色となめらかな書き味に定評がある

かつて三菱鉛筆、トンボ鉛筆に次ぐ業界第3位のシェアを誇った老舗メーカーは、なぜ異国の地で蘇り、独自の進化を遂げたのか――。その舞台裏には、倒産後も現場に踏みとどまった一人の社員・井口英明の執念と20年にわたる再建のドラマがあった。

破天荒な若手社員だった「復活のキーマン」

井口とコーリン鉛筆の縁は、大学時代にさかのぼる。アジアを旅する途中、バンコクの雑踏に立ち止まった。経済成長の熱気に圧倒され、「タイで働きたい」と直感した。

1989年、バブルに沸く日本。24歳で就職したのは、1916年創業の老舗メーカー「コーリン鉛筆」だった。鉛筆に興味はなかったが、「タイ工場立ち上げ要員募集」の一行が決め手になった。当時のコーリンは従業員200人ほどの中堅ながら、文具業界で先陣を切って海外進出に挑んでいた。

60色の色鉛筆
筆者撮影
 1本で2色使える「バイカラー鉛筆」。全30本・60色セット

井口は英語力を買われ、本社(東京・東新小岩)の貿易課に配属される。だが奔放で、上司の指示もお構いなし。昼休みには7キロのランニングに飛び出し、午後の始業に間に合わないこともしばしば。仕事そっちのけでトレーニングに熱を上げる新人に周囲は手を焼き、わずか3カ月で茨城の水海道工場に異動になった。

ここで、思わぬ適性が芽を出す。工場に足を踏み入れた瞬間、機械の唸りと木を削る香りに包まれ、幼い頃からの機械好きが蘇った。井口はたちまち鉛筆づくりの世界にのめり込み、貪るように技術を学んでいった。

一方で、その働きぶりは破天荒そのものだった。40フィートのコンテナの横で大音量の音楽を流し、短パン姿でビールを片手に資材を運び込む。ひと仕事終えるとホースで水を浴び、工場の屋根で昼寝をする――。その豪快さから、周囲には「荷運びなら井口だ」と一目置かれる存在だった。