ウェブ人間論


梅田望夫・平野啓一郎『ウェブ人間論』(新潮新書)読了。『ウェブ進化論』の著者と、『日蝕』で芥川賞受賞の作家の対談は、興味深い。


ウェブ人間論 (新潮新書)

ウェブ人間論 (新潮新書)


小説家としての平野氏は、書物の運命について梅田氏より深い危機感を抱いているようだ。『ウェブ進化論』でもそうであったが、梅田氏はネットの世界を楽観的に見ている。次世代への期待感が強い。



1995年からインタ−ネットは急速に普及してきた。そして現在、パソコンを使用しない仕事は考えられない。実際、一枚の文書や企画書もパソコンなしでは書けないのが現実である。


ウェブの世界では、情報が情報として氾濫している。情報が「思想」化することは困難だろう。梅田氏は、ここでも「思想の構造化」は可能だという。果たしてそうだろうか。ウェブにUPされる情報は断片化されている。たとえば、1頁から順に読むような図書形式は、ウェブの世界には向いていない。梅田氏は、10年〜15年先までは見通すことは可能だが、それより先は不透明という。


日蝕 (新潮文庫)

日蝕 (新潮文庫)


平野氏には、「携帯小説」の行き着く先は、書物をウェブ上からダウンロードして読むというスタイルになるのではないか、という懸念がある。本の形式の問題だ。グーテンベルク以来、本は書物として、大衆化し広く印刷物として普及した。その歴史をも変容させるかも知れないと危懼を抱く。


一月物語 (新潮文庫)

一月物語 (新潮文庫)


ネットワークの進展により、知識を記憶することの意味は薄れた。必要であれば、ウェブ上で検索すれば良い。記憶量による優位性は失われた。知識人に独占されていた「思想」まで、一般大衆にも造型できる環境となった。「ブログ」の出現が、ホームページという形式を凌駕してしまった。ただ、「ブログ」を遡及的に読むことは不便だ。最新情報に偏向するのは否定できない。しかし、ブログの集積が書物化している現象は、知識人や作家という特権階級を超えてしまった。もちろん、一部の大ベストセラー作家などを例外として、誰もが、書き手として市場に出ている。市場価値を超えること、すなわち無償で書くことは、対価を要求しないことだ。ブログの書き手は、ほとんどが無償の行為としてブログを捉えている。


ブログの書き手を、平野氏は5種類にに分類している。

1.リアル社会との間に断絶がなく、ブログも実名で書き、他のブロガーともリアル社会と同じような一定の礼儀が保たれていて、その中で有益な情報交換が行われているというもの。
2.リアル社会の生活の中では十分に発揮できない自分の多様な一面がネット社会で表現されている場合。
3.一種の日記で・・・実際はあまり人に公開する意識も強くない。
4.リアル社会の規則に抑圧されていて・・・内心の声、本音といったものを吐露する場所としてネットの世界を捉えている人たち。ネットの中こそが「本当の自分」だという感覚で、独白的なブログ。
5.一種不の妄想とか空想のはけ口として、・・・ネットの中だけの人格を新たに作ってしまっている人たち。(p.72−73)

このうち、平野氏は3番目と4番目や5番目の人たちを重視し、関心を持っているという。平野啓一郎の著作は『日蝕』と『一月物語』しか読んでいないけれど、いかにも作家らしい視点だ。


一方、梅田氏によれば、「日本で大企業に勤めている人のブログがほぼ全部匿名である理由は、日本の組織や社会の問題が大きい」という。


たとえ匿名であれ、継続することで、ブロガーの世界が見えてくるから、ブログの意義は大きい。


素朴なウェブ進化論は排除されるべきだが、ヒトの思考方法に、ウェブが関係する比率が上昇していることは確かだろう。



形式としての書物は、消滅することはないと思う。問題は、ネット社会の進化(?)がどのように、現代思想を構造化するかにある。そこが、不透明であることは否めない。梅田氏ほど楽観的になれない私は、平野氏のような作家一般を代表する危機意識もない。むしろ、「思想の構造化」が、ウェブでどこまで可能かに関心を持ちたい。



それにしても「はてな」や「グーグル」で働く人々の共通点が、『スターウォーズ』であることは、妙に納得させられた。、『スターウォーズ』的な楽天的シリコンバレーの思想に比べて、『ブレードランナー』や『マトリックス』に共感を持つ場合は、「思想の構造化」のされ方に差異が出るはずだ。もちろん、私は『ブレードランナー』派だ。どうしても楽観的になれない。


ブレードランナー 最終版 [DVD]

ブレードランナー 最終版 [DVD]