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『セクシー田中さん』の原作改変問題の検討と改善案

 こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。遅ればせながら、日テレと小学館から公表された『セクシー田中さん』ドラマ化の経緯についての報告書を読みました。
 全体的な印象をいいますと、日テレのほうが詳細ですし(総文字数だと小学館版は日テレ版の3分の2くらい)、自分たちにとって有利なことも不利なことも併記しようとする姿勢が見られます。日テレ版を読んだあとに小学館版を読むと、小学館のほうは原作者と担当社員に不利なことをなるべく書かないよう配慮してるような印象を受けます。
 ネット上では日テレのほうを強く批判する声が多いようですが、批判されることを覚悟の上で自分たちに不利になる証言も載せたのだから、当然の反応でしょう。報告書とは本来、事実関係をあきらかにするために作られるものだから、それでいいんです。保身のために、何も批判できないようなあいまいな文言の報告書でお茶を濁すようなマネをしなかっただけでも評価すべきです。
 2通の報告書ですべてがあきらかになったわけではありませんが、ずっと謎だった点がいくつかあきらかになりましたし、自分の思いこみがただされた点もありました。

●作者の死の責任を追及するのはやめるべきである

 最初に苦言を呈しておきます。ネットの反応を見ていると、『セクシー田中さん』のドラマを観てもいないのに、改変がどうだとか日テレの対応がどうだとか勝手な決めつけをしてる人が多すぎる気がしました。
 私はドラマを全話観ましたし、原作マンガの単行本も全部読みました。原作改変問題について本気で考察・議論をしたいなら、当然のことです。そうでなければどこがどう改変されたのかわかるわけがありません。
 少なくともドラマだけでも観てないと、報告書の記述内容を理解できないはずです。ドラマもマンガも見ずに意見を述べてる人は伝聞と想像による偏見を語ってるだけにすぎません。私はそういう知的に不誠実、怠慢な行為を許せません。
 漫画家のなかにも、ドラマを観てもいないのに、被害者が自分と同じ漫画家というだけで芦原さんを感情的に擁護してる人がけっこういたようですが、そういう安易な態度は偏見や冤罪につながるので危険です。

 もっとも的外れな意見を批判しておきます。報告書が原作者を追悼していない、死の原因を調査していない、当事者意識に欠けるなどと責める人がいましたが、問題の本質からかけ離れたお気持ち論では問題をごまかすだけにしかならず、何も解決しません。
 そもそも両社の報告書は作者の芦原さんの死の原因を探ることを目的にしていません。ドラマ関係者の中に、芦原さんを自殺に追い込もうとしてた人など誰もいないはずですから、テレビ局やドラマスタッフ、出版社に死の直接的な責任を問うのは筋違いもはなはだしい。
 放送終了から約1か月後の1月下旬、芦原さんはドラマ化の経緯をブログで説明しました。その文章からは、ネットなどにはびこる誤解や憶測を憂えて、事実をあきらかにしたいという前向きな熱意が感じられました。不満や怒りはあるものの、恨みごとにならぬよう抑制されていて、自分の至らなさも反省する文章からは、死を予感させる要素などまったく読み取れませんでした。少なくともブログを書いた時点までは、自殺など考えてなかったと見るのが自然です。
 だからその数日後、突如として訃報がもたらされたときは、私も驚きましたし、もちろん関係者のみなさんは全員、心底驚愕したことでしょう。自殺を防ぐことは誰にも不可能だったとしかいいようがありません。
 強いていうなら、最終的に芦原さんを追い込んだのは、芦原さんのブログ公表後に、脚本家の相沢さんをネットで罵倒した人たちです。あとでまた触れますが、原作改変は脚本家個人によるものではなく、スタッフの合議によるものでした。それなのに彼らの批判が相沢さん個人に集中してることを知った芦原さんが責任を感じてしまい、攻撃したかったわけじゃないとツイートしたあとに、突発的に死を選んだのです。
 とはいえ、脚本家を罵倒してた人たちも、芦原さんの死など願ってなかったはずです。彼らの法的責任を問うのも無理でしょう。
 いずれにせよ死の責任を追及する行為は、誰かをスケープゴートに仕立て上げるだけのおぞましい結果しか生まないので、絶対にやめるべきです。

●原作に忠実であることだけを求める原作原理主義の異常さ

 この件でつねに議論・考察の中心に置かねばならないのは、原作と実写ドラマの表現の違い(改変)がどの程度まで許されるのか。それと、今回、原作者とドラマスタッフのあいだで、なぜ最後までその点の齟齬を解消できなかったのか。この2点です。

 今回の件ではいろんなことに驚かされましたが、そのひとつが、実写はつねに原作に忠実であるべきで、原作者にはそれを強制する権利がある、と信じて疑わない人たちが、想像以上に多かったことです。
 そもそも「原作に忠実に実写化をしろ」といってる人たちの考えはあいまいすぎます。何をもって忠実と判定するつもりでしょうか。忠実とはいったいどういう状態を指すのですか? それをあなたがたは調べましたか。考えましたか。
 調べも考えもせずに脊髄反射の感情論でものごとの是非を判断しても問題解決にはつながらず、的外れな議論に終始するだけです。

 ミもフタもないことをいってしまえば、マンガのキャラと同じ顔の俳優は存在しないのだから、その点だけでも忠実な実写化は不可能です。
 もう少しミのある指摘をすると、コマという静止画の連続で動きや時間の流れを表現するマンガと、つねに時間が流れている実写作品とでは表現技法がまったく異なるのだから、忠実な移し替えは不可能です。実写はコマとコマの間も描かなければなりません。
 マンガとドラマとでは1話の分量が違いすぎます。マンガを1時間枠の連ドラにするには、エピソードの区切りや順序を変えたり、要素を足したり引いたりする作業が不可欠です。

 仮に原作者が「実写化ではどんな改変をしてもいいですよ」と許可した上で、大幅に原作を改変した実写作品が出来上がった場合、原作者はそれを認めてるのに、原作のファンが文句をいう事態も起こりえます。その場合、尊重されるべきは原作者の意向ですか、それともファンの意向? 原作ファンの間でも改変の賛否が分かれたらどうします? そうなったらいったい、誰がどうやって「忠実」であるかどうかを決めるのですか?

 「忠実」の定義や基準は百人百様です。だからといって、原作の改変はここまでなら許される、みたいな統一基準を作ることには、私は反対です。基準を設けてしまったら、それに縛られることで逆に、原作者が改変を許すことができなくなったり、実写制作者の表現の自由が奪われたりしかねません。
 近年、「原作レイプ」という言葉に象徴される、原作の改変を許さない傾向が高まってきたことを、私は非常に危惧してます。それは原作を聖典にまつりあげ、一部の信者による解釈のみを正解とし、その他の解釈をすべて異端とする原理主義につながるからです。
 宗教原理主義者とは、彼らが信仰する宗教の聖典に書かれたことをすべて正しいものとして、それに従って生きることを是とする人たちのことです。でも現実の彼らは、自分たちの勝手な解釈を正当化するために聖典と宗教と神を利用しています。
 彼らは聖典の内容の正しさについて徹底的に考えた末に原理主義を選んだのではありません。何も考えず正しいと信じてるだけ。だから彼らの主張は矛盾だらけで、じつは聖典に反する行動を平気でしてたりするのですが、彼らはその矛盾を、聖典のべつの部分を切り取って当てはめ、自分を正当化するズルを繰り返します。しまいには自分たちの無謬性を信じるあまりに、自分らを否定・批判する者への暴力・殺人、戦争すら正当化するようになります。
 マンガの原作ファンはそこまで過激じゃない? そうかな? 『セクシー田中さん』を改変したとされる脚本家を執拗に攻撃しまくって炎上させた人たちは、それが事実かどうかを調べもせず、考えもせず、そんな行為に走り、自分らの正しさに自信を持っていたのではありませんか。彼らはすでに、原作原理主義と呼んで差しつかえない危険なレベルにまで足を踏み入れてます。

 マンガ原作に忠実でなければならない、改変は絶対許さない、と主張する原作原理主義者は、いますぐフジテレビに抗議してアニメ『サザエさん』の放送中止を要求したらいかがです?
 アニメ版の波平は、「バッカモーン!」とカツオを叱る厳格な父親として知られてます。しかし私が以前、原作マンガの単行本をすべて読んで確認したところ、原作で波平が「バカモン」と声を荒げたことは一度もありませんでした。「ばかもの」が一度だけ。
 原作の波平は、早とちりしてすぐ怒るけど、おっちょこちょいで気のいい父親です。原作を読むとサザエと波平が似たもの親子であることがわかるのですが、アニメの波平は家父長制の権化のようなキャラに人格を改変させられてます。
 それに原作の『サザエさん』は新聞連載だったこともあり、政治風刺、社会風刺ネタが頻繁に登場する、けっこうオトナ向けの辛口マンガなんです。赤塚不二夫は雑誌『教育』1972年5月号で、アニメの『サザエさん』が無害なホームドラマにされていることを、原作者・長谷川町子への侮辱であると批判してます。
 長谷川町子本人はその点をどう思ってたのか、気になりますよね。長谷川町子はアニメ・実写化作品について一切言及しなかったといわれてます。生前のインタビューやエッセイで私も確認してみたのですが、劇作家・飯沢匡との対談(『週刊朝日』1970・12・25)で、自分のアニメーションをほとんど見ないといってるのが、ほぼ唯一の直接的な言及でした。
 自分の作品のみならず、生涯を通じてテレビアニメやドラマに関するコメントをほとんどしてないので、アニメやドラマ全般に関心がなかったのかもしれません。
 実写・アニメ化を許可はするけれど、自分は観ない、コメントもしない、番宣にも協力しないという態度に徹するのも、ひとつの正解ではあります。おそらく長谷川町子は、原作と映像作品(実写・アニメ)は別物であると割り切っていたのでしょう。
 完璧に原作に忠実な映像化などありえないのだから、観れば必ず不満な点が目についてしまいます。それで気分を害するくらいなら、まったく観ないか、実写・アニメ化をすべて断るか、どちらかを選ぶ。それくらい割り切るのが賢明かもしれません。

 で、現代の視聴者、そして漫画家のみなさんは、そんなアニメ『サザエさん』をどう評しているかというと、原作からの改変を批判してる人はほとんどいません。風刺要素を排除して、厳格な父親を中心とした食卓に家族が集い、季節の風物を愛でるといった昭和幻想を描くほのぼのアニメに改変された『サザエさん』はすっかり定着しました。
 これこそがまさに、みなさんが原作マンガと改変されたアニメは別物であると割り切って受け止められることを示す実例なのです。
 だったら、原作マンガと実写作品も別物であると割り切って鑑賞できるはずです。実際、私はそれをずっと前から実践してきました。何十年も映画やドラマを観てきましたし、その原作小説やマンガもずいぶん読みました。その経験から「原作と実写作品は別物である」と考えるようになったのです。
 最初のきっかけは黒澤明の『椿三十郎』でした。20代前半に観ておもしろかったので、原作の小説、山本周五郎の『日々平安』も読んでみたら、あまりに原作と映画が違うことに驚きました。
 この改変の経緯は黒澤映画の解説書などに書かれてます。黒澤は原作に忠実な脚本を書き上げていて、若手監督に撮らせようと思ってたのですが、映画会社から『用心棒』の続編を依頼されたことで、急遽その脚本を大幅に書き直して『椿三十郎』を撮ったのです。
 ここで重要なのは、映画と原作小説のどちらも傑作だったこと。原作が改変されるとつまらなくなるとはかぎらないし、原作に忠実ならおもしろいという保証もありません。
 その後、他の監督の映画でも、原作をかなり改変してるケースがほとんどだと気づきました。むしろ原作に忠実な映画のほうが珍しいくらい。
 考えてみりゃ当たり前の話です。原作小説を2時間くらいの映画として仕上げるには、短編ならオリジナル要素を大幅に足さねばならないし、長編なら大胆にエピソードやキャラを削ぎ落とす必要が生じます。
 実写版映画がどんなに原作を改変していようが、原作が変化したり傷ついたりするわけじゃありません。原作は原作のままです。戦前の日本では、国家権力による検閲で出版物の内容が直接書き換えられたり削除されたりしました。そういう検閲こそが原作レイプと呼ぶにふさわしい蛮行です。

 原作を実写化した映画は、監督が自分なりの原作の解釈を映像化したものだといえます。監督が自らの才能と感性で原作をどう映像化するか、その独自性が芸術作品として評価されるポイントです。同じ原作でも違う監督が映画化すれば、まったく異なる作品になるでしょう。原作に忠実であるかどうかで実写作品を評価するのは、映像作家の表現の自由や個性を否定するも同然の行為です。
 テレビドラマの場合は、監督(ディレクター)個人の才能で作るものではないようです。プロデューサーや脚本家を交えたチームで決めたプロットやキャラ設定にもとづいて監督は作品を仕上げるので、芸術性へのこだわりは薄いけど、それでも必ず監督や脚本家の個性は作品に反映されます。
 『セクシー田中さん』の件では、著作権とか著作人格権といった法律を根拠に原作者の権利を擁護する意見ばかりが聞こえてきましたが、これはあまりにも一方的で公正さを欠きます。
 映像作品の監督や脚本家にも、彼らなりの芸術表現をする権利があります。マンガを実写化する際には、実写の監督や脚本家は原作を忠実に映像に落とし込むことに徹し、自分の個性を表現するな、おまえらは下請け業者にすぎないのだ、と法律家のみなさんは考えてるのでしょうか。
 そんなはずはありません。あくまで原作者と実写作品の制作者はアーティスト、クリエイターとして対等であって、作品の方向性については両者が納得のいくよう話しあって決めるべきである、とするのが、公正な法律論でしょう。

●なぜ原作者とドラマスタッフの齟齬が解消できなかったのか

 さて、今回、原作者とドラマスタッフのあいだで、なぜ最後まで、原作の解釈・表現をめぐる齟齬が解消できなかったのかについて考えます。
 1月に公表された芦原さんのブログを読んで私がもっとも驚いたのは、実写化に際しての契約条件でした。
 原作マンガが未完なのでドラマの終盤はオリジナルの展開になります。その内容については、原作者があらすじからセリフまで用意するのでそれを原則変更なしでそのまま脚本にすること、場合によっては原作者自身が脚本を書く、という条件でドラマ化をオーケーした、と芦原さんはブログに書いていたのです。
 そんな契約条件は、ありえません。原作者があらすじからセリフまで用意して、それを原則変更なしでそのまま脚本にして映像化せよ、なんてワガママが通るのは、原作者が出資者(スポンサー)である場合のみです。
 今回の場合はそうじゃないので、原作者にそんな極端な権限が与えられるのはおかしいのです。映像作品の出来に最終的な責任と決定権があるのは監督です(ドラマの場合は監督やプロデューサーなどのチームによる作品制作が一般的なので、監督、ディレクターにそこまでの権限はないかもしれません)。
 本来なら、脚本に納得できない原作者が、自分で書いた脚本を使えといってきたとしても、その脚本の出来が放送に使えるレベルでないと判断すれば、監督にはそれをボツにする権限があります。
 でも実際にラスト2話は芦原さんが書いた完全にシロウトレベルの脚本がそのまま映像化され、ぐだぐだな結果に終わったのだから、芦原さんがいう契約条件は本当だったわけです。

 なぜ日テレ側がそんなありえない契約条件を呑んだのか、ずっと不思議でなりませんでした。その謎は、報告書を読むことで解けました。
 小学館の担当者が、原作者が提示した契約条件を、日テレの担当者(おそらくプロデューサーのひとりなので以後、プロデューサーとしておきます)にはっきりと伝えてなかったから。それがすべての誤解の発端でした。
 もしかしたら小学館の担当者は、伝えたつもりだというかもしれませんが、つもりじゃ仕事になりません。結果として伝わってなかったのだから、仕事のやりかたを間違えていたことになります。
 これは推測なのですが、担当者はマンガの編集者としてはベテランだけど、対外交渉のプロではなかったのでは? だとしたら、そういう人にテレビ局との初期交渉を任せた小学館の判断も間違ってます。
 小学館の担当者は、「芦原さんは難しい人」などという婉曲な表現で、原作者が原作に忠実な実写化しか認めないという極端な条件を出していることを伝えようとしました。でも、それで原作者の提示条件が相手に伝わるわけがないのです。
 日テレのプロデューサーは「難しい人」という婉曲表現に対し、意見やアイデアを積極的に出してくれる熱心な人、と肯定的に解釈し、そのほうがありがたいし、意見の相違は話しあいでまとめよう、くらいに考えたのです。
 しかもべつの日テレ担当者が、2012年に芦原さん原作のマンガ『Piece』を日テレでドラマ化したときのスタッフに確認したところ、芦原さんはいい人で問題なかったとの返答を得たので、今回も大丈夫だろうと安心してしまったのです。
 脚本家の相沢さんにも、難しい人という小学館側の言葉がそのまま伝えられます。もし、原作者が用意するセリフやプロットをそのまま使わないのなら、原作者が脚本を書くなんて強硬手段を認める契約条件だと知ったら、相沢さんは最初から脚本執筆を引き受けなかっただろう、とプロデューサーがいってます。

 一方で芦原さんは、ドラマ化が事実上スタートしたことで、原作にできるだけ忠実にせよ、でなきゃ自分が脚本を書くという無理筋の要求が通ったものと思いこんでしまったのです。
 しかし日テレ側の認識は異なります。原作を1時間枠10話くらいのドラマにするためには、原作エピソードを足したり引いたり順序を入れ替えたりする改変は当然のことだと考えて、脚本制作を始めます。
 1話から3話の脚本では、そうした改変に芦原さんからいくつか注文がついたものの、何度か修正して折り合いがついたようです。
 ところが4話のプロットが提示された時点で、芦原さんが急に態度を硬化させます。ここまでのエピソードの順番入れ替えでキャラの崩壊が起きていて、ストーリーの整合性がとれなくなっているから原作通りにしてほしいという、かなり強い調子のメールが小学館の担当者を通じて日テレ側に渡され、プロデューサーは困惑したといいます。
 日テレ側としては、必要な変更だと思ってたけど、芦原さんは、できるだけ原作に忠実にという自分の要求が反古にされていると感じて憤慨していたのでしょう。そのため、報告書でラリーと呼ばれるほど何度も何度も修正要求を出しては脚本が修正される作業が繰り返されますが、芦原さんは自分が要求した修正が脚本に反映されないことがたびたびあったと不満を漏らしています。

 問題の本質はあきらかです。契約条件をめぐって両者に大きな認識の違いがあると気づかぬまま、あるいはぼんやりと気づいていてもなんとかなるだろうと無視したまま、プロジェクトがどんどん進んでしまったことが、一番の問題でした。
 芦原さんにも誤解がありました。ドラマでのプロットやエピソードの順序、キャラ設定などの方向性や原作からの変更は、報告書でコアメンバーと呼ばれるスタッフの合議で決めてました。脚本家も意見を出しますが、スタッフが描いた設計図みたいなものをもとに、脚本をカタチにするのであって、勝手に改変することはできません。
 しかし芦原さんは度重なる改変に業を煮やしたあげく、原作改変は脚本家の一存で行われていると思いこんでしまったようなのです。そのためついには脚本家を変えてくれと要求するようになります。
 プロデューサーはその誤解を解くために、改変はコアメンバーが話しあった決めた方針に沿ったものなのだと何度も説明したといいます。
 仮にその時点で脚本家を変えていたとしても、事態は変わらなかったはずです。交代した脚本家も、コアメンバーの方針に沿った脚本を書くだけなので、芦原さんの希望通りにはなりません。
 むしろ芦原さんが、自分の要請が通らないのはヘンだと気づいた序盤で日テレに乗り込んで、どういうことなの、と詰め寄るくらいに気の強い人だったなら、早い段階で契約内容が再検討されていたかもしれません。でも報告書から読み取るかぎりでは、芦原さんは人づきあいの苦手な人だったようです。小学館の担当者から、脚本家と会って話しますかと持ちかけられても、直接会うといいたいこともいえなくなるからと断ってます。日テレスタッフと会ったのは、本物のベリーダンスをみんなで見る機会を設けたときだけで、しかもせっかく会ったのに、その際には仕事の話は全然してないのです。

 結局、日テレのスタッフが極端な契約条件を知り、それを芦原さんが本気で履行しようとしてると悟ったのは、ドラマオリジナルの終盤のプロットが作成される段階になってからのことでした。
 そのころにはすでに両者の関係性は修復不可能な段階にまでこじれていて、芦原さんは、自分が用意したセリフを脚本家は一切修正しないでほしいと要求します。
 原作者が用意したセリフをそのまま書き起こすなんてロボットみたいなことを脚本家に指示することはさすがにできないとプロデューサーが難色を示しますが、芦原さん側の回答は、ロボット的な脚本起こしをお願いする。それができなければ脚本家を変えてほしい。脚本家のアレンジが入るようなら、ドラマの放送も配信も許可しないというものでした。
 ここまで来てしまうともう脚本の相沢さんに降板してもらうしか選択肢がありません。相沢さんもプロとしてこんな仕打ちを受けたことはないはずなので、驚いたものの、しかたなく降板に同意します。でも、のちに日テレに対して作品のクレジット表記に関して法的措置を講じるつもりだと通告したくらいなので、怒り心頭だったことは疑う余地もありません。スタッフと協議した方向性で脚本を書いてきたのに、改変を脚本家個人のせいにされて降板を命じられるなんて、理不尽すぎます。怒るのもムリはありません。

 脚本の初稿と決定稿を読み比べないかぎり、芦原さんが難色を示した改変がどの程度のものだったのかはわかりません。
 相沢さんがドラマオリジナルのラストとして提案した、朱里がダンサーの道を目指すというのは芦原さんが却下しましたし、私もその案はないだろと思います。メイクのプロになる方向に話が進んでたのに、ラストで突然方針転換するのは不自然です。
 逆に、ドラマでは理にかなった改変もありました、たとえば、ベリーダンサー・サリの正体が田中さんだと朱里が気づくくだり。原作では、サリは店から派手な舞台メイクのまま徒歩と電車で帰宅しています。サリのあとをつけた朱里が、後ろ姿のシルエットが同僚の田中さんと同じだと見抜き、道端で追及して正体がバレます。
 このあとの電車内での二人のやりとりも含め、いかにもマンガ的に誇張されていて現実味のない設定です。田中さんは自分がサリであることを周囲に隠してるはずなのに、派手な舞台メイクのまま帰宅したら、電車の乗客や近所の人から注目されてしまいます(中盤で、初デートに鬼盛りメイクで臨んで周囲に引かれるくだりは、デート未経験の田中さんがパニクってやったことなので、マンガ的だけど矛盾はしてません)。
 ドラマでは、会社の廊下を歩いている地味な事務員姿の田中さんの後ろ姿を見た朱里が、正体に気づく設定に変更されてます。その直後に田中さんが、他の人にバラさないでと懇願するくだりも含め、こっちのほうが現実的です。

 私は原作も読みまして、とても気に入りました。秀逸な作品ではありますが、客観的な視点からいわせてもらうと、原作マンガは、それほど緻密に論理的に構築された作品ではありません。作者の芦原さんも、報告書で示された修正依頼の文言などからすると、論理思考を得意とするタイプのかたではなかったとお見受けします。
 どちらかというと原作マンガは、芦原さんの繊細な感性と才能によって形作られたものだと思います。なのでプロットにもキャラにも論理的でない個所がありますが、完璧ではないところが魅力なんです。
 田中さんもその他のキャラも完璧な人間ではなく、トラブルに直面して心が折れたり、自分の価値観に迷いが生じて悩んだりする不器用な人たちです。互いを助けようとしても不器用なやりかたしかできず、助けになってるのかわからなかったりするけど、結果的にみんなが前向きになっていくのです。
 芦原さんは、ドラマの脚本がエピソードの順序を入れ替えたことでキャラやストーリーが崩壊していると強く懸念し、原作に忠実にするよう求めましたが、それは杞憂だったような気もするんですね。ある程度改変やゆらぎがあったとしても、それを吸収できる柔軟さを持つ作品なのです。
 完璧を目指せば目指すほど、完璧は遠のいていくものです。修正をすればするほど、些細な違いが気になります。芦原さんはドラマに完璧さを求めすぎたあまりに、自ら完璧主義と原作原理主義の泥沼にハマリ身動きが取れなくなっていたように思えてならないのです。

●どうすれば互いの齟齬を解消できるのか

 ではどうすれば両者の認識の齟齬を解消できたのでしょうか。また、今後同じ失敗を繰り返さぬためにはどうしたらいいのでしょうか。
 クドいようだけど繰り返しておきます、今回の件を特定の個人・団体のせいにするのは間違いです。脚本家のせいでもないし、日テレのプロデューサーのせいでもないし、小学館の担当者のせいでもありません。関係者全員が絡み合った誤解に目を向けぬまま、プロジェクトを進めることだけを考えていた結果、悲劇へとつながったのです。

 報告書の内容を踏まえた上で、実行可能でもっとも効果があると思われる対策を提案します。ドラマの制作に入る前に、プロデューサーを含めたドラマスタッフ(その時点で決まっていれば脚本家も)と原作者、そして出版社のメディア化権利関係の担当者が同席し、ドラマ化に際しての条件を確認しあう機会を必ず設けること。
 原作者はリモートでの参加でもかまわないと思いますが、出版社側の権利関係の交渉担当者が出席することは必須条件です。今回の件では、小学館が初期対応を権利交渉のプロではない漫画編集者に任せていたことが間違いのもとだったのです。
 そして、ドラマ制作が始まってからも、必要に応じて原作者と脚本家がじかに疑問点などをやりとりできるようにしておくのがいいでしょう。そのやりとりの内容をスタッフ全員で共有するのは、もちろんのこと。
 もうひとつ提案があります。ドラマは放送開始前に全話撮り終えて編集も終えているのが望ましいと思います。日本のテレビドラマは最終回の放送直前まで撮影や編集をやってたりしますけど、そんな余裕のないスケジュールでは、完成版を原作者などの関係者がチェックすることもできないし、働き方改革の流れにも逆行しています。
 大河ドラマや朝ドラのような大長編はムリでも、10話程度の連ドラなら可能なはずです。動画配信のドラマはたぶん、全部その方法でしょう。地上波テレビのドラマだって、放送前に全話撮り終えているものが、近頃はだいぶ増えたように思います。季節感が作品の重要な要素になっていないかぎりは、冬に撮影して出演者がみんな冬服のドラマを春や夏に放送しても苦情は出ないでしょう。

●まとめ

 長くなったので、最後に私からの提案をまとめておきます。

 視聴者とマンガ・小説の読者は、原作原理主義を信奉するのをやめてください。原作と実写(アニメ)化作品は別物と考えて鑑賞・評価すべきです。
 もちろん理解を深めるために原作と実写の違いを研究するのはアリですが、改変はダメと最初から決めてかかるのはよくありません。
 漫画家、小説家、映像作家は、クリエイター、アーティストとして対等です。映像作家は原作を忠実に映像化するだけのロボットや下請け作業員ではなく、自分なりの表現をする権利を持ってます。
 原作改変の是非や度合いは、作品ごとに、原作者と映像作家が納得のいくまで協議して決めるのが正しいやりかたです。ていうか、それ以外の方法がありますか?
 その協議がうまく行かない場合、原作者は映像作品化を断る勇気を持ってください。優れた作品であれば、べつのスタッフによる映像化の申し出は、いずれ必ずまたあります。

 実写作品のスタッフ、原作者、メディア化の条件交渉ができる出版社の担当者が、制作前に集まって条件を確認する機会を設けるのを必須としましょう。作品製作中も原作者と脚本家がじかに話し合えるようにしておけば、なお良し。
 そして可能なかぎり、ドラマは撮影編集をすべて終えてから放送(配信)を開始する方式に変えていくべきです

 以上、私はすべて実行可能で効果が期待できる改善案を提示しました。
 もし不満や異論があるのなら、『セクシー田中さん』の原作マンガとドラマ、そして2社の報告書を読み込んだ上で今回の騒動の問題点について検討し、もっといい具体的かつ実行可能な改善案をブログなどで公表してください。
 私に個人的に案を送りつけられても困ります。多くの人に見てもらい、検討してもらわなければ意味がないので。
 検討する際に忘れてはいけないのは、その改善案がドラマ業界と漫画(小説)業界の双方(原作者も含む)にとってプラスになるかどうかという視点です。失敗を誰かのせいにするだけとか、自分の価値観を正当化するためだけの意見なんてのには価値がありません。
[ 2024/06/30 21:10 ] 未分類 | TB(-) | CM(-)
プロフィール

Author:パオロ・マッツァリーノ
イタリア生まれの日本文化史研究家、戯作者。公式プロフィールにはイタリアン大学日本文化研究科卒とあるが、大学自体の存在が未確認。父は九州男児で国際スパイ(もしくは某ハンバーガーチェーンの店舗清掃員)、母はナポリの花売り娘、弟はフィレンツェ在住の家具職人のはずだが、本人はイタリア語で話しかけられるとなぜか聞こえないふりをするらしい。ジャズと立ち食いそばが好き。

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