こんにちは、パオロ・マッツァリーノです。池袋暴走事件の裁判がはじまり、被告が無罪を主張したことで、感情的に批判してるひとが多いようです。聞くところによると、テレビのワイドショーではコメンテーターがこぞってタコ殴り状態だそうです。
でも、ちょっと待ってほしい。みなさんの正義も暴走してます。
ホンネをいえば、私もあの被告に情状酌量の余地はないと思ってます。実刑判決でも全然かまわない。高齢だから事実上の終身刑になったとしても、同情はしません。
ただ、被告が裁判で無罪を主張することは、それとはまったく別問題です。法の正義、法手続き上の正義というものがあるのです。
日本人は、裁判で無罪を主張すると「ふてぇ野郎だ!」「反省の色がない!」と感情的に批判しがちですが、被告が無罪を主張するところからはじめるのは、裁判の形式として妥当なやりかたです。まず、無罪であるという被告の主張から出発し、検察側が被告の主張の矛盾をひとつひとつ崩していって、無罪とはいえないところまで切り崩せれば有罪にできるし、それに失敗すれば無罪になる。これが公平な裁判の流れです。最初から有罪ありきで裁判を進めるべきではありません。
この夏、WOWOWで映画『東京裁判』が放送されました。東京裁判の膨大な記録フィルムを編集したドキュメンタリー映画で、4時間半くらいある大長編です。私は今回初めて観たのですが、そこでも法の正義が重要なテーマのひとつになってました。
東京裁判では、被告全員が無罪を主張しました。当時それが報じられると、ふざけるなと激怒した日本人がたくさんいたそうですが、映画はその裏側もきちんと説明しています。
被告のなかには、最初から有罪でいい、と罪を認めるひとが何人もいたそうです。日本人なら、それこそが武士道精神にかなった態度だとほめるかもしれません。
でも、アメリカ人弁護士たちが、それはダメだ、裁判は被告が無罪を主張するところからはじめるのが形式なのだ、と説得して、しぶしぶ全員無罪を主張したのだそうです。
東京裁判に関しては批判も多いようですが、この映画を観るかぎりでは、日本の戦争犯罪を断罪してやろうと怒りに燃える裁判官たちに対し、外国人弁護士たちは法の正義を貫こうとしていたことがわかります。そもそも戦争を裁判で裁けるのかというところから弁護士たちは戦ってたんです。
これをカン違いした日本の右派が、外国人だって日本を擁護してくれてるじゃないかと喜んでたようですが、そうじゃないです。裁判官も弁護士も、全員日本の戦争犯罪を憎む気持ちは一緒です。日本の戦争を擁護したひとなんていません。でも、感情論で裁いてはいけない、あくまで法の正義は貫かれねばならないと考えるひとたちがいたということです。
池袋暴走事故も同じです。被告を憎むこころだけで断罪したらリンチです。法の正義にもとづいた裁判をやって有罪に持ち込まなければ、真の正義にはならないのです。
[ 2020/10/11 08:01 ]
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