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カテゴリ:その他
あることばに出会い、そこに立ち止まってしまうことがある。時にはそのことばへの感想すら忘れ、ほとんど虚脱状態でそのことばの前に立ちすくむことがある。宮本常一の『家郷の訓』(岩波文庫)の一節でそういう思いを味わった。
「父は学校で得た学問というのはほんとにわずかであった。その若い日に出稼ぎした社会も文字には縁のないところだったし、結婚してからはずっと田舎で暮らした人であるが、この父が私に出郷に際して実に印象的な言葉をいくつか言いきかせ、これを書きとめさせた。それは、次のようなものであった。 一 自分には金が十分にないから思うように勉強させることができぬ。そこで三十まではおまえの意志通りにさせる。私も勘当した気でいる。しかし三十になったら親のあることを思え。また困った時や病気の時はいつでも親の所へ戻って来い。いつも待っている。 二 酒や煙草は三十まで飲むな。三十過ぎたら好きなようにせよ。 三 金は儲けるのは易い。使うのがむずかしいものだ。 四 身をいたわれ、同時に人もいたわれ。 五 自分の正しいと思うことを行え。 これによって私の新たなる首途(かどで)がなされたのである。これらの言葉の中に含まれているものは新しい意志である。」(宮本常一『家郷の訓』岩波文庫) 実に印象的な文章である。まずは学問のない父親が故郷を後にする息子に残すことばを「書きとめさせた」というのがいい。文字に書きとめるということに、非日常的で、厳粛な、ほとんど象徴的といってもいいほどの意味が宿っていた頃の、これは話なのである。 一。息子にこれからの生き方を説ききかせるに際し、「金が不十分でおまえに思うように勉強させることができなくてすまぬ」という詫びから入るなどということがいったい誰の頭に思い浮かぶだろうか。息子にあるべき生き方を示すに当たり、まずは自らの生のあり方を無意識のうちに示そうとする姿勢がここには表れている。読んでいて胸が熱くなってくる。 この文章はけっして論理的ではないし、整合性もとれていない。むしろ矛盾しているのかもしれない。三十までは好きでやれ。でもそれを過ぎたら親のことを思え。ここまでは首尾一貫しているが、困った時、病気の時にはいつでも親の所に戻ってこい。「いつも待っている」(このフレーズのなんという表現力!) つまり父は「三十までは親を捨てろ、だが、俺たちはおまえをひとときも忘れないぞ」といっているのである。そのような親がいることを知った上で、なおかつその親を捨てた気でおまえは勉強しろといっているのである。おまえは親を捨てろ、しかし俺たちはおまえを捨てないぞといっているのである。これは理屈ではない、息子への教訓ですらない。それは押さえがたい愛情の噴出をじっとこらえる忍耐の表れなのである。この一条だけで、父の教えは十分に伝わっている。短い文言の中に、あふれんばかりの心情が満々とたたえられている。なんということばづかいだろう。 二。接続詞も根拠も必要のない文章である。三十という数字の重みがじわっと伝わってくる。それまでにおまえはひとかどの人物になるのだ、という父親のほとんど祈りにも近い願いがこのことばにはこめられている。 三。一身の成功のみを思うなという教訓とともに、金を儲けることは人生の手段にすぎぬ。肝心なのはその後だということが言われている。子の成功を願いながら、その成功の後にまで、この父の気遣いは及んでいる。 四。ここに見られる「いたわり」ということばのゆたかな意味の広がりはどうだろう。自身の健康への配慮とともに、他人との共生への願いがここには自然な形でこめられている。とりわけ「同時に」ということばには、強く、深い響きが聴き取れる。 五。「自分の正しいと思うことを行え」。ここに至って私は絶句する。子への信頼と愛情と祈願がことばの隅々にまでしみわたっている。これは結論であり、要約であり、考えようによっては一~四の否定にもなりかねない文言である。こんなに美しい「さらば」の文句があるだろうか。父はここで万感の思いをこめて「いっておいで」といっているのである。 お父さん、「絶句したわりにはずいぶんものをいうじゃないか」という顔でこちらを見られてますね。でももう少しだけいわせてください。 わたしたちはこのような「父親」を決定的に失ってしまった。それは時代の流れだ、しかたのないことだ、と人はいうかもしれない。でも、わたしたちの悲劇は、そのような父親像を喪失してしまったということだけにあるのではない。そのような父親像を失ってしまったという意識をもつことすら、われわれは喪失してしまっている、悲劇の本質はそのことの中にある。 前述の宮本氏の文章は以下のようにしめくくられている。 「また(私が)身体をいためて故里にかえらなくてはならなくなったときも、父母で揃って迎えに来てくれた。『お前の気が丈夫であろうと思って……』これが父の言葉であった。 元来短気な人でよく母を叱ったが、私が病気でねているとき、『母を叱ると私が悲しくなるから……』と言ったら、それきり母に叱言は言わなかった。 そして私の病気がよくなったとき、大阪でかかっていた医者のところへわざわざお礼に出て行った。しかも私は元気になって大阪へ出て来てその医師に逢うまでこの事実を知らなかったのである。百里の道も感謝の念を表するには遠くなかったのである。 この病のために父は壮年母と苦労して拓いた桑園を売った。『せっかく汗の結晶の畑を……』と惜しんだら、『わしの考えで買うた山だから、わしの考えで売っても先祖へ申し訳のたたぬことはない。先祖からのものには手をつけぬ。』と言った。 こういう父の考え方や行き方というものが私もやや分かってきたのは父が死んでからである。」(前掲書) お父さん、わたしはほんとになんにもいえなくなってきました。黙ってもう一度お父さんの五箇条を読み直すことにします。でも明日の朝、目が覚めたら、そんなことすっかり忘れちゃってるんでしょうね。そう思ったら悲しくなります。 学問や勉強っていったい何のためにあるんでしょう。お父さんにそう聞いたら、きっと「学問のない父にそれはわからぬ」と言われることでしょう。でも、わたしは思うんですが、お父さんのような人間を見失ってしまった社会でその質問に正面から答えられる人間はほとんどいないのではないでしょうか。でもひとつだけ言えるのは、このお父さんの感動的なことばは立派な学者となった息子さんを通して、何十年という時間のへだてを越えて、私のところへ届けられたということです。ひょっとするとそこにこそ学問のすばらしさはあるのかもしれません。 お父さんの、ことばにかきとめられることのなかった深い人生の意味は、遠く時間の制約を跳び越え、私の心の池の中心に投ぜられました。そして、そこから深く静かな円をゆっくりと周囲に広げ、美しい波紋を描いていきました。 生きるということは、自分の思いを、深く周囲の事物や人にこめていくことなんですね。お父さんの残されたことばをこれからの人生で拳拳服膺していきたいと思います。合掌。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
2006.03.03 21:37:27
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