メロンダウト

メロンについて考えるよ

高速化するコミュニケーション、ファストジャーナリズム、キャンセルカルチャー

以前、「コミュニケーションが高速化している」という記事を書いた。ずいぶん前に書いた記事で、思ったことをそのまま書いただけの雑文ではあるのだが、最近のインターネットを見ていると案外的を外していなかったように思える。

高速道路化するコミュニケーション - メロンダウト

SNSに関しては特に顕著だ。「ある話題」に関して即応的に書くことで耳目を集める「ファストジャーナリズム」とでも呼ぶべき態度が瞬時に社会を塗り替えていく。
小山田圭吾氏が辞任したかと思えば次の日にはのぶみ氏が辞任し、オリンピックが始まれば開催前の騒ぎが嘘であるかのように盛り上がっている。すべてが高速で流れていく。そういった即時反射的な態度を批判したのが小山田氏のことをフラットに捉えようとした以下記事であったが、なにもかもがあとの祭りとなっている。

いじめ紀行を再読して考えたこと 02-90年代には許されていた? | 百万年書房LIVE!

 

すべてが高速で流れていく世論にたいしては謝罪も解任も高速化していかざるを得ない。民主主義の落とし穴とでも呼ぶべきだろうか。一気に着火して炎上させればファクトチェック・事実関係・物事の背景・時代性等をすりぬけて当該個人を解任できる。炎上という方法は世論が高速化すればするほど威力を発揮するのだ。高速でコミュニケーションをとり、高速でそれに適応していくことはつまり「熟議そのもの」を吹き飛ばすことになる。今回の件で明らかになったことはそれだけであろう。小山田氏が悪人であるかどうかなど原理的にわからない。僕達は炎上という「方法論」の威力がいかなるものか、それを再確認しただけである。それにしてもこの「高速コミュニケーション」はどこまで加速するのであろうか。最近はそんな懸念を強く抱くようになっている。

もちろん、このブログもファストジャーナリズムを助長している点が少なからずあるわけであるが、そうした世論の高速性についてせめて自覚しようと思ってはいる。僕があまり具体的なことに関して言及しないのは即時反射的に具体的なことを書くと思わぬ落とし穴が待ち受けていることがあるからでもある。(単に抽象的に書くのが好きだという理由もある)

抽象的に書けばそこまで的を外すこともない。抽象的に書くことは逃げ道を用意した文章である点で卑怯ではあるのだが、早とちりしてデマを書くよりかはずいぶんマシではあると思っている。厳密に言えばインターネットで検索したぐらいで「特定個人の人格をとらえきること」など到底できないのだから、抽象的に書くしかあるまい。インターネット、いや情報それ自体が厳密には不完全なのだ。あるいは対面してすらその人のことなどわからないというのに。


高速化していくものは世論だけではない。一般的なコミュニケーションにおいても例外ではない。上記記事で書いたLINEの件がそうであるように、現実におけるコミュニケーションの速度もあがっていっている。ハンコを廃止したりオンラインで会議を行ったりと、すべて効率的に動くようになってきている。そうした社会のありかたを受けて労働形態すらも流動性をあげ、高速化していっている。派遣やギグワークと呼ばれるものからノマド、フリーランスなど労働市場の高速化にあわせて人々も加速度的に再配置されていくことになった。あるいは流行の音楽や漫画なども例外ではない。鬼滅の刃が流行ったかと思えば呪術回線、東京リベンジャーズなどが流行り始める。音楽についても同様だ。YOASOBIやAdoが爆発的にヒットしてチャートにはいっていったのも社会の高速性ゆえだろう。爆発的にヒットし、高速でシェアされる。そのような高速性がポジティブに機能したのがYOASOBIや鬼滅の刃などの文化産業であるが、ネガティブに働いたのが小山田圭吾氏の解任だった。すべてが高速で流れていくことは文化的な意味では商品の流動性を上げ、新陳代謝を繰り返していく点でポジティブなことである。しかしながらそのような社会のありかたは政治などの別領域においては大きな影を落とすことになる。このような意味で文化、そして政治は表裏一体のものであり切り離せるものではない。高速性という意味において同質なのだ。文化を発展させようと消費速度を加速させていけばコミュニケーションそのものも加速するようになり、結果として政治的な熟議をも吹っ飛ばすことになる。それが今の社会の実像なのであろう。社会のダイナミズムをあげ、コミュニケーションを加速させることは流動性をあげる点において資本主義にとっては都合が良い。しかしながら時にそれはトレードオフなものとして私達の現実にたちあらわれることになる。

以上のような批判は、私がオリジナルに考えたものではなく、長らく保守が言ってきたことでもある。保守が最も重要視する理念に「漸進」というものがある。社会が高速化していく時に棹をさす何か(歴史、伝統、常識、通念、生活等)を探し、社会を「緩やかに」推移させようというものだ。保守とは変化を嫌うという意味で使われることが多いけれど、個人的には漸進こそが保守における最大の理念だと考えている。変化には相応の「速度」が必要だというのが漸進性の理念的な意味であるが、このような保守の理念はインターネットによってすべてが加速していく時代においてこそ重要なものになりつつある。いわゆるネトウヨのような急進的なものを保守と呼ばないのは「漸進性」がないからであり、リベラルのような「棹を指すものがない思想」とも保守は対立する。


五輪前の政治的ゴタゴタ、そして五輪開催後の文化的熱狂。これらは一見すると対立するものに見えるが「高速性」という点においては同一なのだ。五輪が開催された時に即時反射的に熱狂することと即時反射的に小山田氏を解任することは高速性という点においてその源泉が同一であり、それらはまとめて批判されるべき態度だと言える。それが保守主義者のあるべき態度であろう。五輪賛成対五輪反対という対立で見るべきではない。どちらも高速的にコミュニケーションをとっている点で同相であり、批判されてしかるべきなのだ。もちろん五輪への賛成反対は自由に表明すれば良いものの、時流に乗って高速的に消費しにかかる態度だけは批判されるべきであろう。政治も、そして文化すら本来そのような形であるべきものではない。。政治は消費財として扱われるべきではないし、文化も消費財としてのみ扱うのは間違っている。


こうした「表裏一体の高速性」について僕達はあまりにも無自覚だったのではないだろうか。冒頭の記事でコミュニケーションの様相を高速道路に例えたけれど、高速道路は確かに便利なものである一方、高速道路だからこそ起きる事故も当然ある。あるいは高速道路だからこそ整備が行き届いてなければいけない。しかし私達のコミュニケーションのありようはどうであろう。コミュニケーションを高速化させる一方、はたしてどこまで整備されているのであろうか。

そうした中で起きたのが今回の小山田氏の件だった。一番はじめに出てきた小山田氏に関するブログ記事を読んで批判した人が正解なのか間違っていたのかなど言い合っているけれど、そんなことは本来どうでも良いはずだ。最も重要な問題は「僕達がそれに飛びついた」ことだろう。いじめに関する事実がデマではなかったとはいえ、解任されたあとに出てきた記事を読む限り、小山田氏が極悪人であるという評価は完璧に間違っていた。

それにたいして「僕が当たってた」、「僕が間違ってた」、「誰々にブーメランが刺さった」なんていう論争は実にくだらないものである。僕達は彼を極悪人と評して解任した。それが唯一残った事実である。このような事態になったのは高速的にニュースを読んで炎上させた人々すべての責任であるし、仮に読みが当たっていたとしてもそれは偶然に過ぎない。したがって真に批判されるべきは「高速的にニュースを読む態度」、あるいは「高速的コミュニケーションという社会のありかたそのもの」にある。
すべてを瞬間的に峻別し、善いものは善い、悪いものは悪いという論理によって振り分けると新しい変数を代入しただけでプラスとマイナスがひっくりかえったりする。そのような論理に社会を委ねるのはあまりにも危ういものであり、キャンセルカルチャーなど言語道断だと言ってかまわないだろう。小山田氏を「犠牲」にしたことで得る教訓といえば唯一それくらいのものでしかない。