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『HERO』

izumino2003-08-29

 MOVIX橿原のメンズデーを使って観てきました。
 これは大傑作です。時代劇としても、アクション映画としても。というわけで、以下ベタ誉めモードに入ります。
 多分ここまで誉めようとするのはぼくだけ。

  • 概要

 アン・リーの『グリーン・デスティニー』は「仙人になる話」でしたが、チャン・イーモウの『HERO』は「剣の境地の話」でした。要は中国思想をいかにイメージ化できるか、という映画。
 テーマ的には最高境地だなんだと言いながらも、世俗的感情(恋愛)から離れきっていない所も、まぁそんなものかなと。

  • 白髪三千丈

 まずアクションの演出について。
 映像の大半が口頭で語られる「フィクション」で占められているせいもありますが、これはもう! ってくらいに大陸的な「白髪三千丈」の世界。つまり中国詩にあるような大ウソをそのまま映像化したらこうなりますよ、ってな演出ですね。それも、あくまで「大衆エンターテイメント」であった武侠映画(=武侠小説の感覚)の荒唐無稽さに比べれば、よりプリミティブな中国古典の感覚に近い。
 こういう映像感覚は、(武侠映画はまぁ大前提として)洋画では「マトリックス」、日本のオタクなら「Gロボ」あたりの映像感覚を想起すると思いますが、根本的にはまったく別ルートの感覚だと思いました。中国人は元々からしてこういう感覚を所持していたことが窺えます──もっとも、中国発祥だった映像感覚がオリジナルに還った、と言った方が正しいでしょう。ですから、「ワイヤーアクション」の延長線上で単純に捉えてはいけない、と感じるわけです。それこそ「ワンチャイ」シリーズのアクションの素晴らしさ、と見比べてしまうことになります。

  • メタ構成

 更に面白いのは、映画自体の構成。色の違いがどうこう……というのは表面的な構造なので置いといて。
 劇中で「剣の最高境地」に至るまでの「段階」を説明するくだりがあるのですが、この「段階」がそのまま映画の構成になっていることに途中で気付きました。つまり、観客は映画の構成(=テーマ)に合わせて「観る意識」を変えられるように撮られているわけです。
 最初は「剣の強さ」、即ちアクション性を映画に期待させ、次に「心の中の剣」、即ち教訓的なドラマを強調し、最後には……アクション性が「消える」という段階に至ります。
 大抵の観た人が、「アクション映画として期待せずに観ると面白いと思うよ」とか「面白かったけどアクションは物足りなかったよ」、とつい言ってしまうのは、未完成なアクション映画を観てしまったからではなく、「アクション映画」としての序・中盤と「アクション映画否定」としての終盤を混同してしまったからでしょう。単純に、映画のテーマに反して「アクション性を期待する心」がその人の中から消えなかった、ということだと思います。
 まぁ、「映画」の意図通りの見方をすることが正しい鑑賞法だとは言いませんが。

  • 萌えネタ

 しかしチャン・ツィイー(如月の中の人)はやっぱりかわいいです。現存する東洋人の中で闘えば、いい結果を残すんじゃないでしょうか(なんの結果だ)。でも、いつも男に抱かれる役(ネタバレ反転)なのはなんかの呪いですか? 観たくないんだよそんなの!
 あと飛雪の戦闘シーンですが、「ああ、あの人はリアルみさき先輩だ!(from EFZ)」と後から思って萌え死にそうになった人は何人居るでしょうか。
 多分ぼくだけ。

  • 武術

 最後に、武術映画として観てみると。
 今までイマイチ実感していなかった「器械と拳の関係」が良く解った気がしました。これは、武器メインのカンフー映画が少なかったことと、『グリーン・デスティニー』のチョウ・ユンファの剣術がヘタだったから気付けなかったことですけどね。
 武器術から拳術が生まれたとは良く言われることで、確かに同じ感覚が両方の中を流れているようです。ああ、勿論「白髪三千丈」を除いたシーンを指してのことですが。
 っていうかジェットやドニーはともかく、他の人は役者出身なのに凄いなーと思うです。