高校生のための現代思想エッセンス-ちくま評論選

著作権の問題によって現代文の問題集や過去問集のいくつかが書店から姿を消していく中、新たな潮流とも言うべき動きが出て来ている。

これまでに僕は書き下ろしによる文章集についての提案を行なってきたが、それに近い形で編集された本を見つけたのでここに紹介する。

「ちくま評論選―高校生のための現代思想エッセンス」

この本は大学の先生の書き下ろしではなく、既存の本から抜粋する形で編集されているものの、僕の理想と考える、今後の時代に相応しい文章集であると思う。

堀江敏幸、黒崎政男、西垣通、斎藤環、斎藤美奈子、吉見俊哉、多木浩二、内田樹、大橋洋一、川田順三、野矢茂樹、大澤真幸、茂木健一郎、福井憲彦、小浜逸郎、永井均、小池昌代、上野千鶴子、尼ケ崎彬、竹田青嗣、前田愛、若林幹夫、石原吉郎、丸山真男、藤田省三、西谷修、北田暁大、東浩紀、見田宗介、岡真理、市村弘正、大江健三郎

この本に収録された筆者の名をあげてみた。いずれも、入試現代文ではお馴染みの筆者だ。

この本の注目すべき点は、まずは何と言っても「文章のセレクトの良さ」だろう。「現代思想エッセンス」と言うように、入試で取り上げられる現代思想の重要テーマをことごとく網羅している。また、それらは必ずしも過去の入試問題で出題されたものではなく、「これから入試で出てもおかしくない文章」を、選んでいるように思われる。

さらに各文章には設問も施されているのだが、これも変に選択肢でひねったりするタイプのものではなく、指示語の内容を問うたり、文章の論理展開上で核となっている部分を記述説明型の問題で問うものであり、まさに「正統派」のものばかりだ。(東京大学の設問に近い印象を受けた。)


また「筑摩書房」に問い合わせたところ、ここに収録された文章の全ては著作権をクリアしているものであるとのこと。例えば、塾などで、生徒全員が購入してテキストとして使用するという使い方をしても、塾が文章の筆者から訴えられることはないとのことだった。むしろそういった形で使ってもらうために作ったとのことだった。

筑摩書房の方がおっしゃっていたことによると、進学校で東大京大などの国公立難関大を目指す、生徒さんを担当している先生方から「授業で使いたい」との問い合わせも多いとのことだ。(逆に通常レベルのクラスでは少し難度が高いと思われる。)

確かに、高校生が自学自習するには、やや荷が重い感もある。僕もこの本は授業の中でテキストや副読本の形で使うのが一番よい形のものであると思う。

文章の筆者の方、先生、生徒、皆にとってこういう本が増えることは非常に望ましいであろう。また、大学の先生も、こういったもので勉強してきた学生と共に学問をすることができるのは喜ばしいことではないか。

著作権の問題はいろいろな立場の者がぶつかりあう非常に難しい問題だ。だが、この対立を止揚して、皆が幸せになれる道が開けるのであれば、それに越したことはない。筑摩書房の今回の取り組み、そしてこの本を編集された先生方(岩間輝生先生、坂口浩一先生、佐藤和夫先生)の努力を僕は大いに評価している。

「芸術」の利用と「営利」の利用は別物?

以前に、センター評論文第1問を各所から「削除」に至らしめた別役実氏が著作権の保護期間の延長に対して「慎重論」の立場から団体を結成した件を取りあげた。
http://d.hatena.ne.jp/phenotex/20061110

僕は入試での使用について厳しい立場を取っている別役氏の行動と、この保護期間への慎重論という点に違和感を感じ上記の記事とした。(「マスコミ不信日記」さんや、「エンドユーザーの見た著作権」さんでも、とりあげられている。)

この件についての別役氏の見解が「日本ビジュアル著作権協会」のwebに掲載されている。
http://www.jvca.gr.jp/news/news05/jvcanews05_08.html


この記事について僕が気になったのはこの部分だ。

>芸術の分野と営利の分野はまったく別のものだと思います。

と別役氏は述べている。「芸術と営利」という対立軸の設定の仕方がそもそも納得いかないが、今回の入試過去問の著作権問題の文脈の中にそれを受け入れてみるなら、「演劇は芸術だから著作権については自由な方がよい。問題集は営利だからとにかく著作権を守れ!」という理屈になるのか。では別役氏の舞台も含めて演劇活動というのは、全て非営利で行なうものなのだろうか? また逆にセンター試験などの公の機関が行なうものも含めて教育活動は全て営利目的で行なわれるものなのだろうか?

僕は別役氏の論から「芸術という言葉をあたかも水戸黄門の印籠のようにかざして特権を訴えている」というような印象を受けた。この別役氏の論の立て方は、「教育という言葉をあたかも水戸黄門の印籠のようにかざして特権を訴えている」などと予備校や教育出版社が非難される際の論と構造上は全く同じではないのか?

別役氏の論から「芸術家であるボクって特別だよね」というおごりのようなものを感じる。じゃあ僕らも言っていい?「教育者であるボクらも特別だよ」って。

かつて様々な入試問題で別役氏の文章を読んで、時にその着眼点や発想の面白さに唸らされることもあっただけに、正直言って別役氏の今回の「自己の矛盾した行動のつじつま合わせをしようとしておごりを露呈したコメント」は期待外れだった。続編を期待します。

“入試問題、作者がらり一変”ってホント!?

「asami.com」に“入試問題、作者がらり一変 小説家に「世代交代」”と題された記事が掲載されている。

http://www.asahi.com/culture/news_culture/TKY200704180129.html


>国語の入学試験によく出る作家といえば、かつての大学入試なら小林秀雄、唐木順三、と言われたもの。だが、今年の出題を眺めてみれば、養老孟司、茂木健一郎、斎藤孝……と、ずいぶん様変わり。小説家の「世代交代」も進んでいる。

予備校講師や、入試問題の研究をキチンとやっている高校の先生方からすれば、「何を今さら」という印象の記事だろう。小林秀雄や唐木順三なんて今年に限らず、もうとっくの昔に出なくなっている。また、早稲田大国際教養学部の入試で、綿矢りさの『蹴(け)りたい背中』が登場した事などを取りあげているが、僕としては、それほど注目するほど大きな動きとも思われない。

記事のタイトルが“作者がらり一変 小説家に「世代交代」”などと題されていることには違和感を感じる。この記事でもふれられているように、

>906学部を対象に代ゼミの集計がまとまっている昨年度の上位7人は、上田紀行(14件)、茂木健一郎(13件)、鷲田清一(11件)、山崎正和(8件)、夏目漱石(8件)、斎藤孝(7件)、正高信男(7件)。特に受験関係者から「困ったときの鷲田清一・山崎正和」と言われるほど、この2人は入試問題での「流行作家」。6件組も、養老孟司、内田樹、山田昌弘らベストセラーリストそのままだ。

現在(ここ10年程の傾向も含め)の大学入試において小説の出題がさほど多いわけではない。最近2、3年は少しずつ小説復活の兆しも見えるにせよ「がらり一変」とか「世代交代」とか、述べるような動きが起こっているとは思われない。

むしろ、僕が着目しているのは、例えばここ数年上智大で夏目漱石の「草枕」「それから」「我が輩は猫である」が出題されるなどしている動きの方だ。上智は今年度は西田幾多郎の文章からの出題なども行なっており、明治から昭和初期の書き手への回帰が見られる。

それから僕がこの記事について気になった点。代々木ゼミナール国語編集部の土生(はぶ)昌彦さんの言葉として述べられているこのコメント↓。


>流行の新しい本を入試に採り入れる理由は、まずは「過去の問題とのだぶりを避けるため」と土生さん。新しい文章を探そうとすると、話題の作品やベストセラーを選びやすいようだ。「それに、新しい本にも関心や問題意識を持って読んでほしいという受験生への願望からでしょう」と見ている。

「新しい文章を探そうとすると、話題の作品やベストセラーを選びやすい」などということが本当であれば、入試出題者は不勉強であり怠惰である。過去に書かれた書籍や、ベストセラーになっていない作品にも新たな出題に値するものは充分あるだろう。

また、大学の先生は本当に受験生に対して「新しい本にも関心や問題意識を持って読んでほしい」などという願望を持っているのだろうか? 「問題意識を持って」という部分は一応納得できるが、「新しい本」ということがそれ程重要なのだろうか。たとえば、「現代の高校生は岩波文庫に収録された古典的名著ばかりを読んでいてケシカラン!」などと大学の先生はお考えなのだろうか。まさか…。

まあ、僕がこの部分が気になってしまうのは最近の新書ブームにあまりいい印象を持っていないせいもあるかもしれない。

別役実氏「著作権保護期間の延長、議論を尽くせ」

興味深い記事を見つけた。あのセンター評論文第1問を各所から「削除」に至らしめた別役実氏が著作権の保護期間の延長に対して「慎重論」の立場から団体(「著作権保護機関の延長問題を考える国民会議」)を結成したということだ。

itmedia Newsは別役氏の言葉を掲載している。


「著作権保護期間の延長、議論を尽くせ」――クリエイターや弁護士が団体発足」
http://www.itmedia.co.jp/news/articles/0611/08/news103.html

>別役さんは、「銀河鉄道の夜」の戯曲化の経験から、延長に反対する理由をこう語る。
>「銀河鉄道の夜はかなり以前から戯曲化したいと思っていたが、宮沢賢治作品の中でも特にガードが固く、許可がもらえなかった。死後50年経ってやっと使えるようになり、まずアニメのシナリオにし、戯曲にした。このように活用されることで、作品も活性化されたのでは。著作権法保護期間が切れるということは、私財が公共の物になるということ。自分の戯曲も含め、公共物になる時期は早いほうがいいと思う」(別役さん)


「asahi.com」にも同様のニュースが掲載されている。↓

>著作権の保護期間延長に慎重論議を 別役実氏ら申し入れ

 評論家の山形浩生氏や劇作家の別役実氏ら文化人や弁護士64人が8日、小説や音楽などの著作権の保護期間の延長を性急に決めないよう訴える団体を結成した。日本文芸家協会などが死後50年から70年への延長を訴えていることに対抗する動きで、同じ著作権者側がまとまって「慎重論」を表明したのは初めて。同日、代表者らが国民的な議論を尽くすよう文化庁に申し入れた。
 別役氏らは都内で会見を開き、保護期間の延長によって、過去の作品を元に新たな作品が生まれるという文化創造のサイクルが断たれてしまう恐れがあることなどを指摘した。団体には他に作家の佐野眞一氏、批評家の東浩紀氏、劇作家の鴻上尚史氏、映像作家の高城剛氏らが参加している。
http://www.asahi.com/culture/update/1108/018.html

この著作権保護期間の問題については、入試問題での文章使用に対して比較的柔軟な日本文芸家協会が「70年」派、入試問題での文章使用に対して厳しい立場を取っている別役氏の方が「50年」派というわけだ。両者の立場を考えると、

別役氏=生きている作家の文章は入試で使うな! でも死後は自由に使っていいよ。
文芸家協会=生きている作家の文章も亡くなった作家の文章も「金を払って」使ってね。

ということになるのであろうか?今後の動きに着目したい。

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http://d.hatena.ne.jp/phenotex/20060201

著作権問題が市場に及ぼす歪み

著作権問題によって国語の過去問集が入手しづらくなっている。例えば、赤本で有名な教学社からこれまで出版されていた「東大の現代文」「京大の国語」シリーズが絶版となってしまっている。23年分とか25年分に渡って東大や京大の過去問を網羅して収録してくれている国語教師としては非常に有り難い本だったのだが、おそらく著作権の問題で出版できなくなってしまったのだろう。現在、これらの書籍を入手するためには中古を利用するしか手がなく、オークションや古本屋では定価の2倍近くの値段で扱われてしまっている。こんな所にも著作権問題による歪みが現れて始めている。


赤本に続き、センター試験の国語第一問は旺文社の「全国大学入試問題正解」においても「省略」されている。もはや、どの出版社もこの別役実氏の文章を掲載することができなくなってしまったかと思っていたら、なんとZ会の「平成19年用センター試験過去問 英数国 」では、この別役実氏の文章を使用したセンター国語の第一問が完全な形で収録されているのだ! Z会と言えば「著作権を侵害していたとして、作家ら約80人に謝罪を申し入れ、和解金約6000万円を支払った」という記事が記憶に新しいところだ。Z会は6000万円という代償を払って「日本ビジュアル著作権協会」の作家の文章を掲載できるようになったというわけか。


もし僕が受験生であったのならば、「評論の載っていない赤本」よりも、「評論の載っている緑本」を買うだろう。当然、「日本ビジュアル著作権協会」に従わない出版社は市場のおける競争において、決定的に不利な条件を背負うことになってしまう。現在、教育・出版の世界では「日本ビジュアル著作権協会」様に跪き、膨大な金額を上納したものだけが、商売を許される状況が今生まれつつあるのだ。


さて、3大予備校によるセンター過去問集「白本(代ゼミ)・黒本(河合塾)・青本(駿台)」は、センター国語の第一問を収録できるのだろうか? 6月後半現在、青本は他教科は出版されているが、国語だけはいまだに店頭に並んでいない。他の予備校はどう出るのか、今後も注目していきたい。

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遠藤周作氏の受験産業屋批判

遠藤周作氏が『狐狸庵閑談』(PHP文庫)という著書の「受験産業屋を批判する」という章で、自分の小説の一部が入試に出題され、自分の解答と模範解答が違っていたとのエピソードを書いている。「文中の主人公の次の行為を、どのような心理で行なったか」という問で、四つの選択肢があり、遠藤周作氏は四つすべてに丸じるしをしたとのこと。深層心理まで含めて複雑に交錯しあった人間心理を「ひとつ」に決めさせる画一的な読み方に対して「抗議したい」と怒っている。

残念ながら何年度のどの大学の設問か不明なので検証できないのが残念だ。僕はこれは設問の作りにどこか問題があったのではないかという気がしている。(情報お持ちでしたら、どなたか教えて下さい。)

この手のエピソードはよく耳にするが、意外と実際の出典はあまり見つからなかったりもするので、この本の記述は貴重だ。僕は「過去問の著作権について様々な視点」というリンク中心のコンテンツに、実際に自分の作品が入試に出題された方々の声を集めている。インターネット、そしてblogが普及することによって、こうやって著者自身の感想を聞くことができるのは面白い。


ところで、この章を読む限りでは遠藤周作氏は「受験産業屋」にかなり憎しみを持っているようだ。特に5歳になる自分の孫が塾通いをさせられ疲れきっている姿を見て、激しく憤っている。


実は、いわゆる「お受験」についての僕の感想は遠藤周作氏とかなり一致している。またこの本を読む限りにおいては、遠藤周作氏のお孫さんの通っていた塾の先生の指導方針にも確かに疑問を感じた。


だが5、6歳の子のお受験のための塾通いと18、19歳の青年の大学受験のための予備校通いとは別問題として扱うべきなのではないか。遠藤周作氏は同書の次の章「日本の学校は間違っている」では塾批判とともに学校批判を行ない、「受験教育」を叩いており、受験ということそれ自体に、かなり批判的だ。


この本は初出「THIS IS 読売1992年5月号〜1994年4月」となっており、まさに大学受験の最も厳しかった時期のものだ。それゆえに時代の空気として「受験批判」が活き活きと書かれているのは理解できる。また今となっては「ステレオタイプ」と言いたくなる記述も多い。


もし遠藤周作氏が現在の日本の「学力低下」「教育格差」などの問題を目の当たりにしたならば、どのようなことを書いたのだろう? あの独特の切り口、視点で我々をうならせてくれたのであろうか? 興味深いところだ。

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所得格差・学力格差・著作権

「評論の載っていない赤本?」という記事の中で僕は、入試過去問集に著作権料が上乗せされれば、受験生の経済的負担が増すことへの不安を記した。また、「やはり評論の載っていない赤本が出た!」という記事の中で、デジタルディバイドの問題についてもふれた。できることならば入試過去問は平等に受験生の手に渡るような環境が望ましい。

*学力二極化、6割感じる 大半が「所得格差が原因」
http://www.excite.co.jp/News/society/20060527171019/Kyodo_20060527a464010s20060527171021.html

「所得格差による学力二極化」という問題は、僕も日々現場で感じている。だが、まだ塾や予備校に通える子はいい方だ。

正直言って、僕ら講師は激しい競争の中で授業技術を磨かざるを得ない世界にいる。実力無き者は生き残れない世界で、「受験指導」という事についてはそこらの学校の教師とは比べ物にならないノウハウを持っている。(学校の先生の中にも受験技術指導に長けている方がいらっしゃると思いますし、また学問的・人間的に優れた方もいらっしゃることかと思いますが…。)

金銭的理由で塾や予備校に通えず、このノウハウに触れることができない子は、正直言ってハンデを課せられていると僕は実感する。僕自身は不幸にして、学校の先生から「学問的」にも「人間的」にも「受験技術」においても、全く感銘を受けることはできなかった。浪人して通った予備校で初めて開眼したのだ。


実は当時の僕は「特待生」という特権を使って、たまたま金銭的負担が限り無くゼロに近い予備校生活を送る事が出来た。もしあの時に「特待生」になれなかったら、今頃は大学にも行けぬまま全く違う人生を送っていたかもしれない。

所得格差は少なからず、学力の格差に結びつくと思う。だからこそ、もうこれ以上受験生の経済的負担を増すことがない方向で「入試過去問と著作権」の問題が解決することを僕は望む。

【このニュースについて論じているblog】

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