ポストモダン(笑)の祝祭空間(笑)

テクノウチさんのブログの記事から、DENPA!!についていろんな意見が浮き上がってきて、楽しい状況だ。
DENPA!!の客層(の一部)に代表されるような「超ライトオタク」の存在は認識こそされていたけど
「語るに値せず」って感じでこれまで不可視の領域だった。

もっとも、ずっと不可視でいれたらこういう衝突も無くゆるいゾーニングをされていられたのかもしれないけど、
語られることで記録される、観察するから存在する、まあそれもありかなと。

いろいろなものがデジタルのデータとされ、ネットワークで流れることによって時間軸と距離感は分解されランダムに
入り込むようになってなんというか「ノンリニア脳内データベース」というものがデフォルトになった状況では、
文化の時間軸から遊離したものが「ぽこん」って生まれてしまうんだと思う。

DENPA!!もそうだし、自分が今レギュラーで関わってる日本式というJ-popイベントもそういう経緯で存在している。
まあ日本式については別の機会に書くとしよう。

で、そうやって生まれたものだから既存のイベントのお客さんにとっては「別にいまさら行く必要なし」って
放っておかれてたし、これからも放っておいたっていいんだけど、目に付いたものは語るべき、と旧来の
オタク側の人たちは判断したわけだ。アンテナに引っかかったものは分析し、語る。実にオタクとして正しい。

ライトオタクについてのまとまった文章を探してたら岡野勇さんの「今、そこにあるオタクの危機」を見つけた。
あんまり面白いんで読んでたら夜が明けてしまったよw*1

でもこのシリーズ全部読んだけどここで語られてる「ヌルいオタク」や「ライトオタク」にDENPA!!の客層が含まれるのか?
というとちょっとわからなくなる。まあこれが「ライトオタクの定義のすべて」でないということはわかった上でね。

もっと迷惑なタイプの人間を想定しているんじゃないかと思ってる。俺が真っ先に思い出したのは『アキバ四天王のハルヒ』。

「オタクになるか? ならないか?」じゃないんですよ。
 オタクなんてものすごく大雑把に言ってしまえば趣味の総合的な概念です。
 その概念で言えば、「オタクという人」は趣味人です。
 それゆえ、以前ちょこっと言葉だけ書きましたが「実力主義」「情熱主義」。趣味なんてのはそんなもの。この「情熱」には「対象への愛情」も含まれます。

情熱も愛情も、びしびし感じるんだけどな、DENPA!!常連の「DQN団」の連中からは。

第三夜のDENPA!!!で「正直、組曲・ニコニコ動画しか曲がわからない。」と言っていた友人が第八夜では手作りの東方コスプレを着込みつつで「やらないか」を丸暗記して踊っているのです。

テクノウチさんが書いてた上記の「友人」もDQN団の一人。マジで見てて面白かった、レミリアコスで全力でやらないか踊ってるその状態がw

オタク文化というものがなければ存在し得なかったにもかかわらず「収集・分析・解釈・考察・表現」を旨とする「オタク」の枠では
どうにも説明できないなにか。それがDQN団。いい意味でみんなもんのすごく「バカ」だし。(動物的と言い換えてもいい)

バカは強いぜー。怖いものないからな。「あたいってさいきょうね!」ってどっかの?も言ってるだろ?

「超ライトオタク」

かっこいいではないか。「超」のとこは「ハイパー」って読むぞコラ!

もはや青くも若くもない上に、オタクとしても半端な私がなぜか一瞬だけ輝ける場所であるDENPA!!は、もう少しこのままでいて欲しい。

↓一瞬だけ輝かせてもらった時の記録映像www

判断も分析も考察も出来る人に任せよう。まずはこの膨大なエネルギーを電力に変える方法を考えてくれ!


ちょっと頑張ればできそうに見えないか?

タイトルがまるで釣り針のようになってしまった。すまない。ポストモダンも祝祭もあったもんではないな。
ただ、いやおうなく自分の今いる場所がポストモダン的に推移しているのをあずまんの本など読んでると
(錯覚かもしれないが)感じるのだからあながち現状の描写だけでもそれが『ポストモダン(笑)の言説(笑)』として
消費されたっていいと思う。100円ショップから万引きされてきたような言説(笑)を「粗語」と言う。
そんなもので了解していただきたい。

*1:12/24の深夜から書いてたんですよ、この文章。書いては消し書いては消しで当初の文はほとんど残っていない。