声がなくても”やかましい”映画『ザ・トライブ』

2014年カンヌで絶賛となったウクライナ映画『ザ・トライブ』。俳優ではなく本物の聾唖者による手話で話題となったようだ。ツイッターでも割と絶賛されていて、さてどうかな?と見てみたもののノレなかったので、その理由ついて少し書いてみることに。

この映画は「手話」に焦点を当てているわけなので、コミュニケーションをテーマに内包している。まず、転校生と学校の生徒達のコミュニケーション。会話はもちろん一切なしで「手話」によって教室に案内される。そこから昭和ヤンキー漫画的な物語となり、ヤンキー入学テスト的な雰囲気で、転校生 VS 3〜4人 の生徒たちの喧嘩。そして、テストが終わったら人を襲って金品を奪ったり、夜の駐車場でトラック運転手を相手に売春行為の補助をするといったように、主人公は次から次へと犯罪に手を染める。彼らのコミュニケーションは勿論「手話」であり、声は存在しない。しかしながら、喜怒哀楽が伝わってくるし「手話」にも感情が乗るんだなと思って見ていた。

そして、この映画が「手話」以外に話題となったことがもう一つある。それが「長回し」による撮影だ。Twitterで流れてきた情報によると、34、35カットだったらしく、普通の映画よりもカット数が圧倒的に少ない。なぜ、そのような構造になったかというと、まず「手話」によるコミュニケーションを選んでいるからだと思う。私たち(見ている側)が、台詞有りの映画とは違い、短いシーンで物事を理解しづらい環境であることが考えられないだろうか。見かける感想で「パスポートを食べた理由がわからない…」というものがあった。僕も手話がわからないので100%理解はしていないが、彼は彼女に恋をしていて(例えば、中絶費用のために盗みをする/怒って売春を止める)彼女を外国(観光なのか永住なのかはわからない)に行かせたくなかったのではないかなと思う。

分かりづらさを理解してもらうために、なるべく考える時間を与えていた。そして、もう一つが長回しによる快感。例えば、少し建物の裏に行くとフェラをしている男女に出くわしたり、ラストシーンのアレだったりと、”ビックリ”させるような演出が多用されていた。ただし、この長回しにエモーショナルさは微塵もない。まあ、何も全ての長回しにエモさが必要か?といえばそうではないだろう。ただ、僕のノレなかった一番の理由が、淡々とした長回しで人の行動を、ただ説明しているだけだったこと。どのシーンも客観的に見えてしまったことにある。

他の人の感想で、一番共感したのが「『FORMA』に似ている」だった。『FORMA』は昨年公開された日本映画で、フィックスと長回しによって究極的な客観性を目指した作品(「隠す」行為と「客観性」 『FORMA』※ネタバレあり - つぶやきの延長線上)。『FORMA』とは違い『ザ・トライブ』は「客観的に撮りましたよ」と言っているわけではないので、二つを同系列上に語るのは安易になってしまうのかもしれないが、僕もこの二つは似ているなと感じた。『ザ・トライブ』でのカメラは、カットを割らず、彼らを追っているだけで、寄ったり離れたりもせず、只々、人の行動を撮る。確かにこの手法は、前段に書いたように何が起こるかわからない快楽や、シーンに緊張感をもたせるにはいいと思う。ただ、この手法にノレなかった僕の感想としては、長回しが滑稽に見えてしまったのだ。

具体的に滑稽に見えたシーンは、下記の3つのシーン。

(1)最初の転校生を3〜4人で殴るシーン
(2)売春を仕切っている生徒が、”聾唖だから”後退するトラックに気づかず轢かれてしまうシーンん
(3)パスポートを噛み破って、集団にリンチされるシーン(特に洗面台に顔を押し付けてビンで殴るシークエンス)

まず、どのシーンにも言えることだが、客観的なカメラワークによって”ただ撮っているだけ”という感覚しか残らない。(1)はまだ始まった頃なので、まだマシだったけど、僕は(2)に関しては本当にノレなかった。物事を淡々と撮っているだけ、見せているだけって演出としてどうなの?と。また、(3)にしても客観的なカメラワークが逆にカメラを意識させてしまって、もともと俳優でない聾唖者が”演技をしている”という違和感と、どうにも全員がフレームの枠内に綺麗におさまり過ぎていて、”見ている”意識が強く残り過ぎてしまった。それによって、恐らくこの映画が目指していた生々しさみたいなものが、全て消し飛んで滑稽に至ってしまったのではないだろうか。

確かに「手話」でコミュニケーションを語ると思いきや、徐々にディスコミュニケーションになっていく方法というのは、面白い手法だと思った。ただ、演出方法は少なくても「サイレント映画」ではないし、決して音が存在しない静かな映画ではなく、「手話」によるコミュニケーションだらけで画面的にはやかましい。また、長回しによる意外性というのは、手法は違えどPOVによるモキュメンタリー作品群とやっていることは本質的に変わらないと感じてしまったし、「手話」はあくまで声に置き換わる方法であり、映画の機能としては生かされていないと感じてしまった。上記(2)のシーンやラストシーンのように音が聞こえない演出は幾つかされていたが、例えばチャイムの代わりに点灯する電気のON/OFFも映画の機能としては扱われなかったし、あくまで聾唖者の世界の日常表現でしかなかった。*1コミュニケーション語りからディスコミュニケーション、構築から破壊へを進むにあたりのドアの使い方。最後に日常から出て行くのであれば、ラストのドアは開きっぱなしにして欲しかったと思う。

あれだけアツい「手話」による喜怒哀楽の表現が、選んだ撮影方法によって、ここまで殺されるのか、演出とは何なんだろうと一から考えることが出来たのは良かった。そりゃまあ、客観的に世界を見れれば、いいのかもしれないけど、客観的であれば映画が面白くなるわけではない。まあ「ノレる/ノレない」は個人差だと思いますのでこの辺で終わっておきます…。

*1:ただ、ON/OFFの規則性や突如光る照明は、「反復(日常)と差異である」という『ザ・トライブ』のテーマの表現方法としては間違っていないと思う。