記憶:ミスタードーナツ

私はミスタードーナツが好きだ。小学生のときから今まで。

いま思うと、比較的幸せな家庭だったのかもしれない。不穏なこと、凄惨なこともあったけど。

親が毎週のようにミスドに連れていってくれた。飲茶とドーナツを家族でたくさん食べた。なぜなら景品の食器がもらえるからだ。

当時はスクラッチを削ることで、ランダムな点数を稼ぐことができた。最終日に点数が余れば、その辺のおばちゃんに「これ余りなんですけど……」とスクラッチカードを母がおすそ分けすることもあった。

食器はとても素敵だった。普段遣いしやすい、さりげないデザインが特徴的だ。

今も私はミスドのコップとお皿を持っている。ささやかな宝物だ。

f:id:sky-y:20210902012905j:plain

スケッチ:風

f:id:sky-y:20210818211300j:plain

食事時、コンビニでおしぼりをもらい忘れても死なない。

あたりまえのことを再び理解するのに時間がかかった。

失敗を恐れていた。小さな失敗をする度に大きな後悔をした。風が当たるだけで身体はちぢこまる。そんな数年を過ごしてきた。

口癖というが、身体に刻まれた口(そして喉や腹)の一連の動き、その癖はなかなか取れない。

「死にたい」と口にすることは、本当にそう思った時期を超えてもしばしばあった。思ってもいないのに。それは悪霊が取り憑いたようだった。

風が気持ちいい。そう思えることは幸せだと思う。

藤原 惟

名残のたそがれ、怒りのからあげ

YouTuberに憧れていた。

一年ぐらい前、三脚を買った。最近は映像による日記をvlog(ビデオブログ)と呼ぶらしく、そういうのを撮ってみたくなった。

一度は撮ってみたけど、三脚はそれっきり使わず物入れに寝かせていた。「三脚とスマホがあれば何でも撮れる」とわかっていたのに、vlogをやる度胸がない。今日まで来てしまった。

今日、三脚を売った。100円にもならなかった。

引越のために、かさばるものを片っ端から捨てる必要に迫られている。その一環で、リサイクルショップに物達を差し出した。悲しきこんまりバーサーカー。ちなみにジャケットは値段が付かず返された。

リサイクルショップの前で、しばらく突っ立っていた。たそがれを眺める。いつもより鋭く、温かい。

憧れていた行為の、可能性を捨ててしまった。スマホは残っているし、安い三脚だけでvlogやっている人は何人もいる。でも「それを捨てる」という選択をした。

元々、いらなかったものだ。ある三叉路の先へ進むには、一方の道を選び、もう一方の道を捨てなければならない。それを捨てたことは、道を選んだことだ。

私は何をしたかったのだろうか。表現をすることに怖じ気づいていたのか。それとも、怠惰か。未練があるとすれば、何に由来するものなのか。答えは出ない。

しだいに怒りが湧いてきた。てめえ、よくこんなショボい値を付けやがったな。二度と来ないからな!

業務スーパーに寄った。いちごが200円切っている。明らかに安い。けど、それを手に取る気力はなかった。

からあげだ。業務スーパーに入る前から、決まっていた。小さいおひとりさまパックではない、業務用の500gパックだ。

ついでに、牛丼や割引惣菜もいくつか買った。ひとり暮らしであの山盛りの牛肉を買えないが、牛丼なら手頃で最高だ。しかし、からあげは山盛りでなくてはならない。

店を出る。例のいちごだけを袋なしで持ってるおじいちゃんに、「駐輪禁止」のラベルを付けたまま自転車を停めるお嬢さん。すべてを受け入れてくれる。業務スーパーに来ると、生きる気力が復活する。

宴だ。文句は言わせない。名残は怒りに、たそがれはからあげになった。

f:id:sky-y:20210607202043j:plain

藤原 惟

MJBの缶があるから簡単には死ねない

f:id:sky-y:20210302193233j:plain:h300

パンツマンとよばれる、ふざけた名前の動画投稿者がいる。

「独身中年男性が淡々と料理を作って食べるだけ」という動画を出している。 合計600本以上をアップロードしており、ニコニコ動画の料理タグでは根強い人気がある。

絵面はみすぼらしいが癖になる。それがパンツマンの魅力だ。

高齢化と老朽化が進む団地で、使い古したテーブルや押し入れに囲まれながら、おっさんが料理を作り、ぶつぶつ言いながら飯を食う。 それだけの動画が何万も百何万もの再生数を数える。

彼は砂糖をMJBの缶に入れている。コーヒー粉が入っていたその缶は、おそらく10年や15年近くは活躍している。 黄色い蓋は汚れ、ボディはさびている。

そのMJBの缶が、かっこよく見える。黄色とグリーン、力強い「MJB」という文字。 ただの缶なのに、安心感がある。

最近まで、コーヒー用にきっちり閉まる密閉容器がほしかった。ニトリに行けばよかったが、タイミングが合わない。

ある日、成城石井でそのMJBを見つけた。340gで300円ちょい。安い。

サイズがちょうどいい。「かわいいなあ」と両手で抱え、気持ち悪い客となっていた。 密閉性能はたぶん良くない。それでもいい。

MJB、中身の粉は、ふつう。ふつうがほしい。安定の味。

ひととおり缶を空にし、別のコーヒー粉を詰め替える。400gの粉だと、60g分が入らない。 そういうはみ出しをどうにかしていくのも楽しい。

最近は、気分が落ち着かなかったり、不安になることも多い。ときどき、生きる意味も失いかける。

MJBの缶は心強い。パンツマンはあれに砂糖を入れ続けたのだから、きっと長く使える。MJBのおかげで、根拠のない自信が出る。

根拠のない自信というのは、無から湧き出るものではない。

愛着のもてるものを、身にまとったり、身近に置いたり、買ったり、飼ったりする。 そうしていくうちに、自分自身の中に愛着のあるものを見つけられたら、あとは自走できる。

パンツマンは最近、結婚した。今では夫婦でご飯を食べている。 そういう緑茶をじっくり味わうような幸せが、私を今日も生かしている。

藤原 惟


www.youtube.com

汗だくセレクトショップ

I See You!

行く宛てもなく散歩にでかけた。

近所にパン屋がある。普通の2〜3倍ぐらいするけど、丁寧に作られた上質なパンが買える。そこでミルクフランスをお持ち帰りして公園で食べようと思っていた。

ふと思い出したかのように看板を見る。2階の奥に服のセレクトショップがあるらしい。1階のパン屋と違い、わざわざ階段を上がらないと行けないハードルがある。なぜか、そこに行きたい衝動が生まれた。

私はファッションに無頓着だ。ユニクロでまとめ買いして「痛い出費だなあ」と思うし、靴は気に入ってるけどボロボロになっている。

それでも気になる。昔は古着屋さんで似合う服を選んで買ってた時期もあり、服を眺めたい欲はある。買うお金がない。

最近、何かと「勇気を出す」機会がなくなってしまった。幸い、今までの人生と比べると「現状維持できる」ことの価値とありがたみを感じられるようになった。

しかし、このままでいいんだろうかと自問自答する。もしかしたら、このセレクトショップに飛び込んでみたら、新しい刺激が得られるかもしれない。理由はわからないけど、行かなかったら後悔しそうだ。

そんな焦燥感から、セレクトショップのドアを開けた。

整然と並んだ服達、そして小物達。こじんまりとした綺麗な世界。

店主は静かに、気さくに声をかけてくれた。適度な距離感で少し安心した。

話によると、遠くから来るお客さんが多いとのこと。自分みたいな近所の通りすがりは珍しい。

モード系寄りの服が多く、よく見ると個性的なデザインやサイズ感の服が多いらしい(半分ぐらいわからんけど)。

……そのうち、服や額に汗をかいてきた。やばい。

まず、それなりに散歩した後だった。ただでさえ汗をかく。服装の調節も苦手で、今日は暖かいのに4枚ぐらい重ね着していた。

そしてとても緊張していた。慣れないセレクトショップに立ち入り、無頓着な服装で、おまけに汗をかいている。

とても恥ずかしい。「ああ、このお客さんは冷やかしだな」と思われるのもつらい(実際そうだ)。臆病な自尊心の塊は、ついにごまかしきれないほどの汗を放出した。

うつむいたら汗が床に垂れる。商品に汗を垂らしたらウン万円の買い取りコースになるだろう。

とりあえず服の陰に隠れ、袖で汗を拭く。そして「袖で汗を拭くなんて、ファッション舐めてるだろ」と思われてるに違いないと、さらに汗が止まらなくなる。

なんとか「ありがとうございました」と言って店を出られた。店主の視界から消えたところで堂々と汗を拭う。「思い残すことはない」という謎の達成感と、「二度と顔を見せられない」という恥ずかしさが同居する。

家に帰るまで、ひたすら羞恥心に襲われた。人のいないところで奇声を発しながら、しかし向かいから人が来るので一般散歩市民を装いながら帰路をやり過ごした。


何かを成すために勇気を出すことには、恥ずかしさを伴う。勇気を出すまでの恥ずかしさと、勇気を出して失敗したときの恥ずかしさがある。

「何事もチャレンジだ」といった使い古されたフレーズがあったりするが、つまらない日常を変えるようなチャレンジの機会は、案外近くにあるのかもしれない。近所のイオンやイトーヨーカドーにも、そういう機会はあると思う。

そのとき「恥ずかしいっ!」という気持ちをよく観察しておくのがよい。アレルギーのような過剰な羞恥心が生まれるのは、何かしらの原因があるのだと思う。その原因をほじくらなくても、「昔なにかあったんだろうな」ぐらいは思ってもいいだろう。

家に帰った私は、上着以外のすべての服を脱衣カゴに投げ込んだ。汗でびっしょりになった服達を見て、「やっぱりユニクロでいいや」とセリフを投げ捨てた。

藤原 惟

Product Redのおじさん

コロナ禍においても、所用というのは存在する。私の場合は都会に通院するため、どうしても都会に出かけなければならない事情がある。(電車に乗るという描写のために、こんな前置きが必要な時代になってしまった)

結局間に合う時間ギリギリになってしまった。慌てて服を着替えて出たが、冬場に手袋を忘れてしまう。いつもは飲みきるカフェオレも残して家を出た。「まあなんとかなるやろ」と自分を甘やかして家を出る。

本当に最低限のことさえ気をつけていたら、あとはなんとかなる。それを学んだのはつい最近だった。財布を無くしても、身ひとつあれば生きられる(できれば無くしたくはないけど)。


しぶしぶ電車に乗る。向かいにおじさんがいる。江頭2:50のような細い背格好と広い額のおじさん。

彼が手にしているのは、iPod nanoだ。2021年に、iPhoneではなく、iPod nano。しかも赤くて特別な「Product Red」。

足元を見ると妙にスリムに見える。黒いタイツ……ではなく黒いデニムを履いている。サイズ感は完璧。靴はnew balance。履き古しているが、決して汚くはない。

まもなく本を取り出した。カバーを外した無地の本。何かしらの付箋が貼ってあり、読み込んでいるようだ。

額が広くなった中年男性が、こんなにスマートに佇んでいる。本物の江頭2:50も実際はスマートだが(YouTubeのエガちゃんねるは大好きだ)、その路線とは違う小綺麗さがある。


そして今日ほど、iPod nanoがほしくなった日はない。私は17歳以降の青春をiPod miniと過ごしてきた。だから「ちいさいiPod」に特別な思い入れがある。

iPodの場合は、Mac(もしくはPC)のiTunesにCDを取り込んで、iPodをMacにつないで同期させて……みたいな手間がかかる。それでも当時は革新的だった。

いま手にしているiPhoneには、その当時にインポートした楽曲も入っている。TSUTAYAから10枚単位で借りまくったCDに、中古で漁ったCD。そしていまでは見つからない民族系楽曲のMP3(Muzieという配布サイトがあった)。

いまの私はもっぱら、Spotifyで最新のストリーミング楽曲を垂れ流している。引っ越して以来、いつのまにか部屋にCDがなくなった自分を恥じる。

おそらくおじさんは令和のいまにおいても、家にはたくさんのCDがあり、わざわざCDを取り込んでいるのだろう。それが格好良く、オンリーワンに見える。


あのおじさんは「持つべきもの」「持たないもの」の区別がついているように見える。センスがある。

いまの私は30代にして老けることを恐れている。自分もこのおじさんみたいになれる可能性があると思えば、その恐れはやわらぐ。

本当に最低限のことさえ気をつけていたら、あとはなんとかなる。帰って寝て起きて、まだ残っているカフェオレの残りを一気に喉へ注いだ。

藤原 惟

参加していないClubhouseについて堂々と語る方法

ついに招待枠を手に入れた。どこに入ろうか。

「ほぼ日手帳」「暮らしを楽しむ」いいねえ。

「新型コロナウィルスについて考える」これはマストだ。

知り合いのショップもやってるらしい。とりあえず入ってみよう。

「愚痴り隊。」「寂しがりやの一人好き」「音楽が無いと生きていけない」おお、琴線にふれる感じ。これよ、これ。

……えっ、Clubhouseってなんですか? mixiのコミュニティを漁ってただけなんですけど。


茶番でした。実際、初期mixiって招待制だったんですよ。(mixiって何?って話をするとめんどくさいオッサンになるのでググってくれ)

もちろん「リアルタイムに話せる」という点は大きく違うし、その性質がユーザ層に決定的な影響を与える。そういう云々は誰かが書いているだろう今から書くことになる。

ただインターネットを経験してきた30〜40代がTwitterやFacebookにないワクワク感を欲しているのは間違いない。その中で声が優位な人にとっては、Clubhouseがぶっささるんじゃなかろうか。


コミュニケーションにおいて声が優位かどうかと、ある種のクラスタや社会階層に属するかどうかは関連があると思う(要出典)。

声(および表情)は身体的なもので、感覚統合的な運動だ。私みたいに感覚統合がうまくいかなくて小中学校の体育の評価点が1とか2だった人間にとって、自分の声を出すということは案外難しい。合唱みたいに何回も練習したものに関してはある程度高得点を狙えるが、サッカーのパス回しのように次から次へ発声が要求される場面ではおろおろしてしまう一方だった。

どういうわけかわからないが、声と表情が生き生きとしている人は、ある種のソーシャルコミュニティへの切符を手にすることになる。まるでClubhouseの初期に切符を手にした人のように。

幸いにも私のFacebook友達には、今日(2021年1月31日)付でちらほら「招待枠ありますよ!」という投稿も見かけるようになった。昔の自分ならそれでも、(このブログのタイトルが暗示するように)多少は意識高くやってきたので、なんとかして切符をもぎ取ろうとしただろう。

しかし今の自分は、その気力すらなくなった。ルサンチマンをたっぷり抱えた者として、(この文章のように)皮肉という形でしか反応できない。といっても実際に参加してみたら手のひらをくるっと回すだろうけど。

一方で、文章なら饒舌になれる。雑に書いてもあとで修正できる。だからブログならある程度書ける。そして短文で済むなら雑談もしやすい。だからTwitterにハマってつぶやきまくった。少なくとも今ほどキナ臭くなる前は。

実は数年前から、Podcastでラジオみたいなことをやりたいと思っていた。あらかじめ収録しておく形式なら、失敗しても何度でも撮り直せる。そう思ってボイスレコーダーを手に録音の練習をしてみた。しかし初手は悲惨なものだった。どもりまくるし、間が空きすぎる。こんなの人前で見せられないと思って、そのボイスレコーダーは封印したままだ。


時が変わって、YouTuberあるいはVTuber(バーチャルYouTuber)という存在が注目されるようになった。VTuberに関しては2〜3年ほど前に個人勢ブームが興り、一般の人達や無名の人達も含めたたくさんの人がデビューした。

外野から眺めていたROM専(ググってくれ)としては、その残り香をまだ記憶している。「名古屋に行けば、あの伝説の人と会えるらしい」とか「VRの伝道師がうちの近所に来るらしい」みたいな話もちょいちょいあった。

結局、私自身は外野のまま、この界隈は大手事務所によるVTuberブーム(そして中小事務所の撤退・個人勢の引退ラッシュ)に移行した。それはそれで面白いし大好きだけど「めっちゃ面白いテレビ」とか「尊い推しのライブ」の範疇を超えない。それはもはや「無名の人が織りなすセレンディピティ(偶然の出会い)」ではなくなりつつある。

一方で、VTuberとはちょっと違う文脈として、VR版SNSのVRChatというのもある。同じように少しだけかじって離れてしまったが、そこでほぼ1日暮らしている人もいるぐらいにはハマる人はハマるらしい。「ルームを選んでアバター(バーチャルの身体)に近づけば音声で話せる」という最近どこかで聞いたようなシステムである。しかし基本的には任意のID表示制(半匿名)で、実名を表示している人は少数派のように思う。

ちなみにVRChatの一派閥として、バーチャル美少女受肉(略してバ美肉)をする人もいる。典型的には「おじさんが美少女のアバターを着る」ことが多い。任意のトッピングとしてさらに「美少女の声を出す(肉声またはボイチェン)」場合も多いらしい。

こうしてみると、単に「オタクだから声を出すのが苦手」みたいな単純な話ではなさそうだ。文脈が違う、何かしらのソーシャルコミュニティや文化的コードが違う、そういうブルデュー社会学みたいな話になるかもしれない。


なにを話したいのかわからなくなったが、私のSNS遍歴は以上のようなものだった。実際にはmixi以前の黒歴史もあるが、さすがに今は筆を置きたい。

……ところで、Clubhouseってなんですか?

藤原 惟

(追伸:元ネタのピエール・バイヤール『読んでいない本について堂々と語る方法 』も実際には読んでいない)

読んでいない本について堂々と語る方法 (ちくま学芸文庫)