シロクマの屑籠

p_shirokuma(熊代亨)のブログです。原稿に追われてブログ記事はちょっと少なめです

これがコスパの精神か!──『ふつうの会社員が投資の勉強をしてみたら資産が2億円になった話』

 

 
幻冬舎さんのつてで、『ふつうの会社員が投資の勉強をしてみたら資産が2億円になった話』をご恵贈いただいた時、どうしたものだろうと思った。著者ははてなブログで長く活動しているトピシュさんだから縁はある。でも、お金の本を私に送られても楽しめないんじゃないの? という心配だ。
 
ところがこの本は面白かった。お金についてのハウツー本であるだけでなく、資産形成のために必要な精神が活写されているように読めて、そこが面白かったからだ。
 
結論を書いてしまおう。
資産を形成するための根本的な精神とは、トピシュさんに内面化されているだろう、ホモ・エコノミクスの精神だ。ここでいうホモ・エコノミクスの精神がトピシュさんと同じぐらい「うまく」内面化されていて実行可能なら、きっと資産は膨らむだろう。本書は、資産運用のハウツー本であると同時に、ホモ・エコノミクスの精神とその重要性についても大事なことを教えてくれていると思う。
 
 

1.ハウツーとしての本書

 
資産形成のための本なので、本書には金銭管理、節約や貯蓄の方法、税制の話などが書かれている。基礎控除のように広く知られていそうな知識から、わかりづらいiDeCoの制度的な特徴まで、色々な事柄にも触れている。有資格者でない限り、全部を網羅している人はあまりいないと思うし、私も参考になった。なおかつ、この本は著者一個人の話なので、単なるチェックリストではなく、ひとまとまりのナラティブにもなっている。著者を主人公とした、資産を増やしていく物語としても読める(=だから頭に入ってきやすい)のは、タイトルに偽りなしだと思う。
 
資産にかかわる以上、投資の話や住居の話も登場する。2億円という資産を築くためには投資が必要だし、大きな支出となる住居の問題にも触れないわけにはいかない。ところが、会社員としての給料は足し算的だし、副業で得られるお金も限界がある。タイトルから私は「2億円を達成するには、投資を最大限に活用したんだろうなぁ」と想像していたけれども、実際、投資に大きなウエイトをあてている様子が読み取れた。
 
どこまで・どう投資をするのか?
それは年齢や年収、投資の目的によってさまざまだろう。著者は、手持ち資産のうちある程度高い割合を、長期的投資に割り当てることを第一に勧めている。もちろん短期的な値崩れが起こることはある。それでも長期的にみれば、危なげのなさそうなところに堅実に投資し続けることが肝心で、それこそが投資ならではのメリット──足し算的にではなく、掛け算的にお金を増やせるメリット──を受け取る大前提になる。そして掛け算的にお金を増やせるメリットを体感するためにも、ある程度まとまった額を投資に差し向けたほうがいい。「まずは100万円作って投資する」と紹介されているのはすごくわかる。私も、最初に投資をしたのはそれぐらいの金額だったからだ。
 
 

2.ホモ・エコノミクスとしての著者=トピシュさん も重要

 
ここまでは、「ふつうの会社員」としての著者の話。ここからは、私が「やっぱりトピシュさんはふつうじゃない」と読んで感じたことを書いてみたい。

会社員としてのトピシュさんは年収が極端に高かったわけではなく、不況やブラック労働の時代に翻弄されていたさまも記されている。これらを読む限り、確かにトピシュさんはふつうの会社員でもあり、本書はタイトル詐欺ではない。
 
とはいえ、本書に書いてあることをそのまま実行できる人はそれほど多くない、と思う。少なくとも、さっき書いたような内容だけを参考にしているうちはそうだ。
いくら投資の勉強をして色々な資格を所持したからといって、誰もが自分の人生を投資の筋書きどおりにデザインし実践できるわけではない。オンラインゲームをとおして成長効率性について深い理解と洞察を得たはずの人でも、その理解と洞察を自分自身の人生に適用できるとは限らないのと同じことだ。でも、たぶんトピシュさんにはそれができている。
 
本のなかでトピシュさんは、経済的な自由を獲得する一環として結婚した、といったことを書いている。これは、2020年代の日本においてプラグマティックな結婚観だと思うし、今こそ考えておくべき勘所だと思う。結婚というと、今でも不自由なイメージを持つ人も多かろうし、それはある部分ではそのとおりだ。でも、トピシュさんにとって結婚は自由を獲得する手段、そしてその自由は資産によって担保されるべきものだったのだろう。とはいえ、エクセル上で計算すればそうだとしても、そのとおりに結婚する人・できる人はそうざらにいるものではない。
 
この結婚をはじめ、トピシュさんの物語は全体的に経済合理性にかなっている=コスパにもかなっている。投資活動や資格の勉強をしたからトピシュさんが経済合理性を獲得したのか、それともトピシュさんが経済合理性の塊のような人だから投資活動ができて、資格も次々に獲得できたのか? どちらなんだろう? ともあれ本書をとおして私が印象付けられたのは、「ホモ・エコノミクスとは、コスパとは、こういう風にやるものなんだよ!」といった話だ。
 
ホモ・エコノミクスとは、人は人でも、経済合理性にかなった行動をする人のことを指し、経済学の黎明期から想定されてきたものだ。経済合理性に妥当する行動をとる人、つまりコスパ的に最適な行動をとる人は、2020年代においてそう珍しくなく、むしろ現代人の条件とさえ考えられる。でも、人間が昔からそうだったわけじゃないし、今でもそれが苦手な人はごまんといる。
 

 ホモ・エコノミクスとは、言い方を変えると、行動のいちいちに経済的な無駄を省き、できるだけ儲かるように合理的計算に基づいて意思決定する主体である。これは自己利益の主体とも呼ばれるが、ここで金儲けは肯定的に捉えられている。肯定的というか、人間が生きていく上で当然の行為様式とされているということだ。そしてそれに成功した人は尊敬に値する。ホモ・エコノミクスの社会では皆が金持ちを目指し、その企てが成功すると多くの人に評価され羨ましがられるのだ。
『ホモ・エコノミクス』から

重田園江『ホモ・エコノミクス』を読むと、現代人にとって自明に思えるホモ・エコノミクスの精神、くだけた言い換えをするならコスパを気にする精神が比較的最近の思想に根差しているさまがよくわかる。だがルーツがどうであれ、今日の人間にとってホモ・エコノミクス的であることは社会適応に不可欠だし、そうでなければ資産を形成するどころか、家計を成立させることさえ難しくなる。
 
問題は、ホモ・エコノミクスのディシプリンを知ることが難しい以上に、ホモ・エコノミクスのディシプリンをうまく内面化し、こなれたかたちで実践するのが難しいことだ。さきほど、オンラインゲームをとおして成長効率性について洞察を得た人でも、自分自身がそうであることは難しいと書いたが、ホモ・エコノミクスも変わらない。コスパやタイパをきちんとやったほうがいいのはわかっている、でも、わかっちゃいるけどそれができないんだ、という人は少なくないだろう。
 
19世紀の人々に比べて、21世紀の人々はおそらく全体的にはホモ・エコノミクスとしてのディシプリンを内面化しているし、だからこそコスパやタイパといった言葉が人口に膾炙したのだろう。しかし、それができる度合いには程度の差があって、本書から浮かび上がってくるトピシュさんの姿は、ホモ・エコノミクスとして非凡であり、ふつうとは言えないところがある。
 
だから、本書は「ふつうの会社員」の話であると同時に「非凡なホモ・エコノミクス」の話でもある。ホモ・エコノミクスとして非凡だからこそ、トピシュさんは生活のあらゆることを経済合理性に照らして設計・運用できる。結婚や家族といった親密圏の設計も例外ではない。そう、ホモ・エコノミクスの精神に沿って本気で人生を考えるなら、親密圏の設計にも経済合理性にかなった計画や意図が反映されていてしかるべきなのだ。それが、トピシュさんではできている。本書をひとつの成功譚として読み取る際に、この、トピシュさんのホモ・エコノミクスとしての卓越は絶対に頭に入れておくべきだと思うし、本書をとおして学び取るべきは、税制や投資の知識だけでなく、トピシュさんの生きざま、ホモ・エコノミクスとしてのディシプリンなのである! と私は読者として勧めてみたい。
 
 

3.ホモ・エコノミクス=守銭奴ではない

 
ホモ・エコノミクスやコスパやタイパといった言葉から、守銭奴とか、お金のための人生とか、そういったことを連想する人もいるかもしれない。いやいや。確かにホモ・エコノミクスは経済合理性にかなったライフスタイルをとるし、トピシュさんにおいては、それが極まっていると思う。しかしホモ・エコノミクスであることと、守銭奴であることはイコールではない。ましてや、お金をため込むこと自体が目的であるわけでもない。
 
本書には、自由という言葉がたびたび登場する。トピシュさんが自由という言葉を挙げるたび、私は『銀河英雄伝説』の登場人物が語った「金銭があれば嫌な奴に頭を下げずに済むし、生活のために節を曲げることもない」という言葉を思い出す。
 


 
この、自由という要件に加えて、トピシュさんはテーマパークに出かけることや家族と過ごす時間を大切にすることにも言及している。ホモ・エコノミクスだからといって、トピシュさんがお金にとらわれているかといったら、そういうわけでもないのだ。おいしいものが食べたかったり、親しい人と過ごしたかったり、株価の動向に動揺したりする、そういう人間でありながらホモ・エコノミクスをやっていく、コスパやタイパを踏まえて生きていくことが追求されているように読めた。
 
それか、こういう言い換えもできるかもしれない。「ホモ・エコノミクスとしてのトピシュさんが意識している変数はたくさんあって、単純じゃない」。
 
世の中では、狭義の経済資本にとどまらない、いろいろなものが資本になぞらえて表現されている。たとえば文化資本、教育資本、社会関係資本といった言葉が有名だ。心身の健康も、労働者や資産家としての私たちにとって不可欠な資本だと言える。
 
トピシュさんの生きざまは、まさに、こうした狭義の資本にとどまらない、だけど生きていくうえで重要な色々にも目配りしたかたちで物語られている。それが一番わかりやすく出ていると感じたのは、以下のくだりだ。
 

 最後のとっておきの方法が、テレビやインターネットを一旦遮断して近所のケーキ屋さんに走り、美味しいケーキを買ってきて、お気に入りの銘柄の紅茶と一緒にティータイムを楽しむことです。
(中略)
「お金がリアルに減っている時にのんきな!」と思うかもしれませんが、これが本当に効くんです。ケーキの糖分は疲れた脳を癒してくれますし、紅茶の香りはリラックスさせてくれます。
『ふつうの会社員が投資の勉強をしてみたら資産が2億円になった話』から

これは、ブラックマンデーのような暴落にもめげずに投資を続けることの重要性を説くパートからの引用だが、ここでトピシュさんがやっていることは、「正気度の回復」だと思う。長期投資を続ける際の大敵は暴落による動揺と、動揺に基づいた不用意な売りだ。トピシュさんは「時間をかけて資産形成をする上での敵は、自分自身の心です。これは精神論ではなく本当の話です」とも書いている。良い投資を続けるためには正気であることが大切で、正気を保つためにトピシュさんはケーキや紅茶を買うことを惜しまない。
 
ここでケーキや紅茶が登場するのは、トピシュさんがホモ・エコノミクスではないことの証拠ではなく、その逆、ホモ・エコノミクスをきわめし者であることの証拠だと思う。投資にかかわる重要な変数のひとつとしての正気度に、ちゃんと手当をしているわけだ。
 
総体としてホモ・エコノミクスをやっていくとは、お金にも、精神にも、健康や文化や親密圏といったそのほか色々なことにも目配りがいく状態をやっていくってことだろうし、それらが総体として経済合理性にかなっていて、全体としてコスパやタイパに優れていることだと私は思う。総体としてホモ・エコノミクスをやっていくためには、お金のことしか見えない守銭奴になるのでなく、コスパやタイパにもとづいて他の色々なことにも目配りし、なおかつ、それらとお金の関係、それら同士の関係を取り持てることではないだろうか。
 
 

4.単純になり過ぎてはいけない

 
私が本書から受け取った一番重要そうに見えたエッセンスはこのあたりだった。ふつうの会社員が投資をとおしてひとまとまりの資産をつくるためには、狭義の経済資本だけにとどまらず、もっと視野の広いホモ・エコノミクスとしての精神、その実践が必要になるのだと思った。コスパやタイパを考える際には単純になりすぎるのでなく、色々な変数や関数にも思いを馳せる必要があるし、人生を総合的にやっていきなさいってことでもあろう。参考にしたい。
 
 

初心者でもAIはすごく面白い(だけど疲れてしまう)

 

  
今年の課題のひとつに「AIとの付き合い方を、私なりに探してみる」というのがあったんだけど、AIに課金して以来、あまりに面白い&便利&将来性を感じてしまって夢中になっていた。使い始めて間もないAIを、私は「かなり疲れるツール」だと感じている。AIがなんでも手伝ってくれるのはありがたい。だけど、そのお手伝いに私自身がついていけていない。
 
AI無しでは30分かかっていたことが、5分ほどで終わってしまうスピード感。AI無しではできなかったことができた時の驚き。そしてAIをとおして深まっていくテーマや問い。そういうことと2時間ほど付き合うと、もうへとへとになってしまう。この疲労は、AIに慣れるほど軽くなるのだろうか? それともAIに慣れて一層効率性が高くなると一層重くなるのだろうか?
 
どちらにしても、開けてはいけない扉を開けてしまった、と私は感じた。2025年を境に、私はAIに支援された生活を始める。そしてAI抜きの生活には戻れないだろう。
 
この喜びと驚きと疲労について、いま感じていることを書き留めておきたい。
 
 

無料AIをぽちぽち触っていた頃

 
前日譚として、AIに課金する以前について少し書いておく。
私はAIの使用について懐疑的だった。「AIは無能に違いない」「AIは使えない」と考えていたわけではなく、「AIは高度だから、私には使いこなせない」と思っていた。
 
1~2年ほど前から、SNS等には華麗にAIを使いこなしている人々の、華麗に使いこなしているさまが流れていた。でも、私には到底使いこなせそうになく、なんだか専門性の高いことをやってらっしゃるように見受けられた。AIに指示を出す・プロンプトを駆使する、等々を眺める時、どうせロートルの私が使っても大したことはできまい……などとハードルの高さを想像した。
 
実際問題、Geminiなどの無料版を試用してみた時、私が知りたいことはわからないままで、やりたいことはできないままだった。なんだ、AIと言ってもこんなものか。というより、私にはAIが使いこなせないから何もできないんだな、と諦めの気持ちを深めていた。AIは、プログラミングなどをゴリゴリやっているエンジニアの独壇場か、それに近いスキルを持った専門家のもので、私みたいなのが触ってもダメなんだろうなーと思っていた。
 
 

きっかけをくれたのはブロガー飲み会

 
ところが2月初旬のオフ会で、いぬじんさんがAIにドはまりしていることが判明した。いぬじんさんのAI話は、SNS上でAIを華麗に使いこなしている人々の華麗な話に比べて、ずっと具体的で、ずっと面白そうで、こう言ってはなんだけど、いい加減なお付き合いの仕方でも面白いことの起こりそうな雰囲気を湛えていた。
 
これは、いぬじんさんのお人柄を反映してのことかもしれないけれど、いぬじんさんのAI体験談はお高く留まっておらず、「AIを華麗に使いこなしている」様子を誇る風でもなかった。AIと付き合いはじめて面白かった・びっくりした・便利だったさまが、ありのままに語られていると感じた。
 
なにより、AIの使い方でそこまで無理をしている風でもなさそうだった。
 
「いぬじんさんが、こんなに伸び伸びと使っているなら、私だって伸び伸びと使えるかもしれない」
 
初めてそう思った。そしていぬじんさんは有料AIの世界の住人だった。私も、そこに飛び込んでみるしかない、と思った。
 
 

課金開始:あまりの便利さ、可能性に度肝を抜かれた 

 
 
で、課金した。
世界が変わった。
無料AIではなかなか手が届かなかったところにスッスッと手が届くと感じた。
 
まずテンプレ的文章づくりを試した。
形式のしっかりした文章なら、AIに書いてもらって遜色ないことが判明した。音声入力との相性も良い。私の文章を幾つか読み込んでもらい、それを手本にしてくださいと依頼するといい感じに真似てくれた。
 
なにこれ、本気で省力化できちゃうぞ?!
AIが、いきなり私の秘書的存在&口述筆記の召使になった。指が痛い時、PCの前まで移動したくない時、就寝前に思いついたアイデアを簡単にまとめてもらいたい時、AIは痒いところに手が届く仕事をしてくれる。現時点ではAIに文章づくりを完璧に任せきれないし、そこまでAIを使いこなせる目途も立たない。それでも、込み入った文章を書いた後に助言をもらうにせよ、下書きしてもらって私が仕上げるにせよ、AIがあるのとないのでは雲泥の差だ。「支援してもらう」ことに徹するぶんには、私にとってのAIは既に強力なツールだと思う。これだけで月額課金の元を取った気持ちだ。
 
次に、イラストの作成。
イラストは、はじめに想像していたよりもずっと上手く作成してくれている。細かいことを言えばきりがないし、たぶん、その細かなことに注文をつける使い方こそが肝心なのだろう。けれど、まったくの初心者でもある程度は使いこなせることがわかった。幾つかのAIを比較検討してみたい分野でもある。
 
図像の作成も悪くない。イラストもそうだが、AIは人間とは異なる目を持っているらしく、AIが出力するものと人間が満足するものの間にはしばしばギャップがある。そのギャップを埋めるには、AIに事前にあれこれ条件を付け加えるだけでなく、生成された図像について、追加の指示を出さなければならない。現在の私では、完成までフルにAIにお任せしようとすると時間効率はそこまで良いとは言えない。でも、中途までAIにお任せして、残りを自分で完成させるような「支援してもらう」使い方なら、もう十分に使えるレベルになっている。
 

 
それから調べごと。
楽しい! 家庭のこと、調べたい資料のこと、天候のこと、専門領域のこと、どれもgoogle検索よりも簡便に、柔軟に色々なことを教えてくれる。google検索やPubmed検索で私自身がうまく拾えなかったURLや資料を、AIは見事にひっかけてくれた。ときどき空想上の資料を提言してしまうことがあるが、それはご愛敬。そういう時のAIはなんとなく雰囲気がわかるし、そのとき参照した資料やデータベースの提出をお願いすれば見当がつく。
 
その際、質問に次ぐ質問をとおして疑問をもっと深めたり、関連する課題を芋づる式に発見するのに向いている。
AIは、google検索やwikipediaの豪華版みたいな使い方に加えて、「やりとりをとおして最初の質問の周辺について見当をつける」使い方もできる。この過程が楽しく、とても参考になる。夢中になりすぎると時間と体力を消耗してしまうのがぜいたくな悩みだ。
 
 

PCやネットが初めて「使える」と思った日を思い出す

 
こんな具合に、課金AIは初日から威力をみせてくれた。ファイルの変換、紙媒体の変換、斜め読みしたい資料の翻訳や要約もいけている感じだ。完璧ではないかもしれないけれども、完璧ではないと割り切り、支援ツールとして手伝ってもらうぶんには十分すぎるほど実用的だ。
 
そして面白く、刺激的だと感じる。
この面白さ、この刺激的な感触は、遠い昔にPCやインターネットを初めて「使える」と感じた日に似ている。それか、初めてgoogle検索を使った日や、初めてwikipediaを熟読した日の感触にも似ている。AIは私にとって新しい玉手箱で、過去に新しい玉手箱として体験された諸々にどこか似ている。そして、それら同様、今後の私自身の習熟とAIの成長を期待せずにいられない。
 
それから、AIとの付き合いは私のものの考え方やものの作り方を徐々に変えていくと思われる。ただちに影響はないとしても、このようなツールと長く向き合うことの影響を私が免れるとは思えない。後日、そのあたりについては別稿に書くつもりだけど、私がAIとの間柄をとおしてどうなっていくのかも、よく観察しておきたい。きっとAIは、インターネットが来た後やSNSが来た後に私が変わっていったのと同じように、私自身を変えていくだろう。おそらく他のユーザーもだ。
 
そうした諸点について懸念するよりもまず、希望をもってAIとお付き合いを続けていきたい。
 
 

だけど、こうも考える

 
他方、私の年齢や経験のためか、古き良き時代にPCやインターネットに抱いたような夢をみるには至らなかった。
 
第一に、私がAIに耐えられていないという課題。
AIは面白いのだけど、面白いがために、私はすぐに飽和状態になってしまう。私は、面白過ぎる文献や小説を読んでしまった時に頭と心がいっぱいになって何もできなくなってしまうが、それに似たことがAIでも起こり得る。そのことを抜きにしても、AIは疲労を呼びやすい。AIを使っていて疲労するのは、画像生成などで根気よく指示を繰り返す時だけではない。AIが好ましい出力を連発してくれても、だんだん疲労が蓄積する。これは、AIに対して判断力というリソースを投下しているせいだろうか?
 
それからAIが出力してくれた情報は、単体で値打ちがあるというより、もう少しAIに追加で質問を重ねるか、AI以外の手段で裏取りしたほうが値打ちのあるものが多い。AIの出力がAIの出力だけで完結することはあまりなく、また、完結させるべきとも思えないから、どれほどAIが素早く素晴らしい出力をくれたとしても、人間がその後始末や裏取りをするにはそれなりの手間暇がかかる。少なくとも現在の私の使い方では、そういう手間暇を惜しまないほうが良い気がする。それもまた疲れる。
 
こんな風に疲れるものだから、私はAIを長時間使えないし、へたに使ってしまうと体力が危なっかしいと感じる。もし、私がもっと若い頃にAIに出会っていたらもっと長時間向き合えたかもしれないし、逆に夜遅くまで使ってしまったりして心身を壊してしまったかもしれない。AIは人間離れしているが、ユーザーである私は今でも脆弱な人間のままだ。
 
第二に、「結局これもユーザーの使い方次第なんだろうな」的な予測。
ちょうど、google検索がユーザーの検索ワード次第なのと同様に、AIも、ユーザーの入力の巧拙によって出来ることが大きく違ってきそうな予感がプンプンする。実際問題、華麗にAIを使いこなしている人の、華麗に使いこなしているさまに私自身が追いつけるとは、現時点でもなかなか信じられない。AIが革新的なツールであることはわかった、けれどもそのツールでできることの質や量は不可避的にユーザーの力量に左右される。「服屋で服を買うための服がない」ならぬ「AIで知識を仕入れるための知識がない」的な状況も起こりそうで、上を見ても下を見てもきりがない。
 
昔の私だったら、こういう素晴らしい玉手箱を見かけた時に「人類の進歩!」などと叫びたくなっただろうけれども、今は醒めてしまってそういう気持ちにはなれない。どうせAIも、多く持つ者をより豊かにし、そうでない者との格差を広げるのだろうな、と思う。もちろんそれはAIが悪いというより、社会が悪いとか、娑婆が悪いというべき何かだろう。AIに限らず、革新的なテクノロジーは誰かを押し上げると同時に誰かを没落させるのが常だ。AIによって社会はきっと変わるが、その果実の分配が平等になることはない。
 
最後に愚痴っぽいことを書いたが、それでも私自身の出来事としてはAIとの出会いはエキサイティングだった。もっと習熟し、もっと使い方を広げて、これからの生活や文章づくりを支える相棒にしたいと思う。AIは、華麗に使いこなせていなくても十分面白いツールだったんだね。でも、今はもっとうまくなりたい。
 
 

私も100日修行をやって、違った心境になってみたい

 
元来、ブログは日記や随筆めいたものをズラズラ書ける場所だったはず。そしてここは私のブログなので今日は日記です。でも、日記って常連さん向けなんじゃない? とも思うので有料エリアに隔離することにしました。
 
日記を書きたくなった発端はこれ↓。
 
blog.tinect.jp
 
先日、いぬじんさんが100日修行の話をbooks&appsに寄稿してらっしゃったけど、それを読み、私も修行したい気持ちになった。いぬじんさんは「十牛図」をテーマとし、問いを立てながら生活されていた*1という。実際、最近はいぬじんさんのお姿をXなどで見かけなかったし、2月のはじめにリアルでお会いした時も、いぬじんさんは「自分が修行中だからSNSは控えている」、とおっしゃっていた。修行してみるのもSNSを絶つのも良さそうだな、と私は思った。どちらも普段とは異なった状況をつくりだし、それが普段とは異なる心境を、ひいては思念やアウトプットを生み出すようにも思われるからだ。
 
だから私も倣いたい、と思う。普段とは異なった状況を自分の意志で招き寄せて、ちょっと違った思念やアウトプットを招き寄せてみたい。
 

*1:2025年3月11日現在、まだ進行形

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創作のための健康管理法&ドーパミン維持について──私の場合

 
[]創作のための健康管理法&ドーパミン維持について──私の場合
 
p-shirokuma.hatenadiary.com
blog.tinect.jp
 
頑丈な人間とそうでもない人間が存在する話と、ドーパミンを味方につけつつドーパミンに頼り過ぎない活動の話を、続けてアップロードした。
 
これらは創作活動にも、受験勉強や資格取得にも、ゲームやり込みにも役立つ話だと思う。自分の健康をうまく管理し、命を削りすぎない範囲で自分自身を使い込めればインプットもアウトプットも増える。と同時に、ドーパミンをなるべく味方につけ、それでいて頼り過ぎないやり方を確立すれば安定した成長が見込めるだろう。
 
で、これらの記事を書いた私は実際に何をやっているのか? を書いてみたい。
 
ある程度確実性がありそうで、月並みな部分については無料記事エリアにまとめる。それとは別に、確実性が怪しく、個人差の大きそうなドーパミンとの付き合いについては有料記事エリアにまとめた。このブログの常連さんと、どうしても関心のある人だけ立ち寄ってもらいたい。
  
 

自分の身体の声に、ちゃんと耳を傾けてますか?

 
まず、健康管理と効率性の領域について。
 
道具としての身体は、壊れやすく傷みやすい。メンタルや精神だって身体に根ざしている。休息や回復、メンテナンスをしなければ壊れてしまうし、だから大事に扱わなければならない。
 
でも身体はよくできているので、壊れそうになったらアラートが鳴るようにできている。
 
そのアラートの最たるものが「痛み」だ。
全身の痛覚神経は、人間にとって重要なセンサーだ。痛みを伝えてくれない内臓もあるので絶対の指標にはならないが、それでも腰や膝が痛ければそれらへの負担を考えるべきだし、指や手首が痛んできたらキーボードの打ち過ぎを控えるべきだろう。痛みを避けていれば、壊れかけの関節や筋肉や骨への負担を減らせる。
 
ところが意外に多くの人が、痛みのアラートを無視している。
なかには信じられないほど軽視する人がいて、軽視していることを強いことだと思っている人さえいる。痛みがあるってことは、原則、その臓器や器官は休ませるべき*1なのだが、それに逆らってしまう。「痛い!」というアラートにはもっと素直になっていただきたい。
 
で、日本は医療が充実しているので、痛みがとれなければ医療機関にかかろう。胸痛、頭痛、腹痛のなかには稀に命取りの疾患も混じっている。いきなり強烈な痛みに襲われた時は病院に急いだほうがいい。胃潰瘍や憩室炎や胆嚢炎といった、ちゃんとやれば悪くないけど放置すれば怖くなる病気もある。整形外科的な痛みもそうだ──我慢したり湿布で誤魔化したりしているうちに、足腰が限界をこえてしまうかもしれない。痺れを伴うようになったら大変だ。早めに診察を受け、助言を受け、治療を受けるべきだ。
 
それからもうひとつ。慢性的な痛みは、しばしば足腰や内臓への慢性的な負荷に根ざしている。たとえば体重が重すぎれば膝や腰には負担がかかる。心臓にも負担がかかっているに違いない。姿勢が悪かったり座りすぎているのも負担になっているかもしれない。痛みというアラートに本気で耳を傾けるとは、慢性的な負荷を和らげられるよう、ライフスタイルを再構築することだ。それが簡単じゃないんだ、というのはそのとおり。それでも、何が負担になっているのかは知っておくべきだし、そのうえで出来る範囲のことはしたほうが良い。
 

 
慢性的な負荷が、道具を使って和らげられることもある。たとえばトレッキングポールは足への負担を減らしてくれるし、体重減らしに役立つ食品を選ぶっ方法もある*2。食べるものを変えているうちに食習慣まで変わってしまえば大成功だが、そこまででなくても効果は得られる。
 
身体の声を真摯に聞くのは簡単なようで難しい。人間はあれこれと頭で考えてしまう生き物なので、しばしば痛みをスルーしたり痛いことを続けてしまったりする。それだけに、痛みも含めた自分の身体の声を上手に聞き、行動やライフスタイルを変えられる性質はアドバンテージたり得る。逆に、これができなければできないほど、自分の身体を活用すると称して結局壊してしまう確率は高くなると思う。
 
 

スケジュール管理/環境管理の達人になるか、それらをアウトソースするか

 
いくら身体が頑丈でも、要領が悪ければこなせるタスクの量が減ってしまう。逆に、身体の脆弱な人でも要領が良ければある程度までは弱点をカバーできる。だから、要領が良いに越したことはないし、スケジュール管理の巧さは創作・仕事・娯楽・家事あらゆることに影響する。
 
人間の「行動ポイント」は増やせる。 | Books&Apps
私が実践している「テトリス的スケジュール管理」の方法。 | Books&Apps
 
このあたりについては、books&appsへの寄稿記事にいろいろ書いている。隙間時間に小さなタスクを嵌め込んで無駄にしない、大きな時間がとれそうならそれを積極的に確保し大事な目的に利用していく、そして休息やレジャーも「必要な時間」として積極的にスケジュールに嵌め込んでいく、といったことを習慣づければ、比較的無理せず一日あたりの総タスク量を増やせる。大事なことなので繰り返すが、休息やレジャーは絶対にスケジュール管理に組み込むこと。それを怠ると健康が蝕まれ、最終的には効率性が低下してしまう。
 
それから環境管理。部屋を片付ける・ごみを捨てる・台所を清潔にする、等々は健康を守るうえでも大切だし、イライラしたりものをなくしたりする確率を下げてくれる。本棚やPCのデスクトップ画面も、整理整頓しておけば「引用したい資料を探し出すのに時間がかかってしまった」といったアクシデントを減らせる。だから環境管理もけっこうバカにできない。
 
ただし、これらの領域には「アウトソース」という方法もある。たとえばハウスキーパーや秘書やマネージャーに委託できれば効率性は大幅に向上する。夫婦それぞれで得意なことを分業しカバーしあうのも良い。どちらの場合も、委託する相手が信頼できること、信頼するからには権限を預けられることが大事だと思う。首尾よく委託できれば、「判断する」という、これまた有限の資源だって節約できる。
 
考えてみれば、これは当たり前のことだ。たとえば個人事業主のような一匹狼をやめて、会社のようなチームでもって挑めば、生産性や効率性はものすごく高まる。もちろん、チームとして生産性や効率性を高めるためには、必要十分な信頼や組織力が条件になろうし、だからこそ経営論や組織論がトピックたりえるわけだが。
 
この手の分業を行う場合には、公私にかかわらず信頼や信用がきわめて重要になり、反目や不信を回避する技術が不可欠になる。そこのところが難しい人は、結局自分一人で全部をやるしかなくなる。だから、信頼できる人と信頼関係を築き、築いた人に業務を委託する(または委託される)のも才能のうちだ。仕事や創作や人生に際して、そういうところでアドバンテージを稼いでいる人はいると思う。
 
それから、一人でやるにせよ誰かとやるにせよ、スケジュール管理ツールはあったほうがいい。職場やリビングにスケジュール共有用のホワイトボードを掲示しておくとか、googleカレンダーのようなアプリを使用するとか、使えそうなものはドシドシ使おう。情報共有にはslackやLINEやtelegramなども役立つ。
 
 

回復にお金を突っ込めば、そのぶん活動できる

 
もともと頑丈な身体でも、回復をおろそかにしては活動の質が次第に低下していく。疲れを感じやすい年齢、めいっぱい活動せざるを得ない境遇になれば尚更だ。自分自身の心身の回復にリソースを投じる選択が、多かれ少なかれ有意味になる。
 
若かった頃、年上の人から「グリーン車は疲れを減らすために有効だ」と言われた時に私はピンと来なかった。でも、今はわかる。移動時にグリーン車を用いれば疲労の度合いは軽くて済むし、なんなら回復することさえある。飛行機のビジネスクラスも同じだろう。「移動直後、疲労のいちばん少ない状態で勝負しなければならない」局面にもグリーン車は有効だ。極短期的な疲労管理の手段として、こういうお金の使い方があることを私は中年になってやっと理解した。
 
ただ、こういうお金の使い方には高度な判断が求められると思う。なぜなら、費用対効果がはっきりしない領域だからだ。
さきほど書いたグリーン車などもそうだ。確かに移動で疲れにくくなる、でも、これから重大な会議があるならともかく、そこまで重要ではない用事のためにグリーン車を使う必要があるのかは定かではない。飛行機のビジネスクラスもそうだ。確かに快適ではある、でもその差額は本当に支払うに値するものだろうか? その差額を支払うよりも、たとえば滞在先のホテルのグレードを上げるとか、現地での移動手段や食事にお金をかけるとか、他に選択肢はないものだろうか?
 
なんだか資本主義的な発想ですね。しかし仕事や創作を高速回転させるとは、究極的にはコスパやタイパを最適化することに他ならない。そこから逃げても良いことはないので、回復だってコスパやタイパの観点で検討しないわけにはいかないし、何が必要で何が不要なのかを仕分けしないわけにはいかない。
 
ちなみにコーヒーやエナジードリンクは「回復」ではなく「元気の前借り」なので勘違いしてはいけない。
 

 
カフェインを摂取すると、とりあえず集中力を取り戻せるが、元気の前借りに過ぎない。甘いエナジードリンクの場合、糖負荷がかかる点にも注意が必要だ。糖負荷の大きなドリンクを頻繁に飲めばかえって健康を害してしまうだろう。睡眠に影を落とす点も含めて、本当は、飲む量・種類・時間をよく考えたほうがいいはずで、無思慮に飲むべきではないと思う。
 
本当に回復について考えるなら、睡眠に結びつくものを買ったほうが良いのでは?
  
低反発枕か? 高反発枕か? ほどほどか? 枕の選り好みは個人差があるっぽいので、枕が選べるホテルに宿泊した時には試してみるといいかもしれない。冷たい床でじかに眠れる人でも、普段は良い寝具で眠ったほうが回復効率は良くなる。究極的には、寝室環境を最適化するのが好ましい。ほかにも、就寝時間が近づいてきたらスマートフォンなどをいじらないとか、工夫の余地は色々とある。
 
若いうちは、こうした回復効率の重要性はあまり意識しないかもしれないが、実際にはパフォーマンスにも影響しているはずなので留意はしたほうがいいと思う。
 
 

できることは案外あるはず

 
仕事や創作をするマシーンとして自分自身を振り返ると、もっと効率良く、もっとセーフティーに運用する余地はいろいろとある。自分自身だから、使い捨てにするわけにも、おざなりにするわけにもいかない。長期間にわたって・十分なパフォーマンスを発揮したい人は、ここに書いたようなことを意識しながらライフスタイルを構築していくのがいいように思われたので、いくつか書いてみた。
 
 
※ここから先は、私とドーパミンの話です。私の個人性にも根ざしていると思うのでご注意ください。常連の方以外は、課金してまで読まなくてもいいんじゃないでしょうか。
 

*1:「原則」とわざわざ断ったのは、たとえば痛みを感じやすくなってしまう、いわば痛覚センサー過敏みたいな状態や疾病がないわけではないからだ。この場合、痛覚の言いなりになっていいのかの判断が難しい

*2:注意:世間で称賛されがちなダイエットの速度は速すぎると思うし、あんなに無理をやっていればリバウンドは避けられない。体重を減らす際にはゆっくりと・段階的にやっていくのが好ましいと思う

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頑丈な人間・頑丈に見えて命を削っている人間、どちらも恐ろしい

 
 
 
先週読んだ、「眠いと思うから眠いんです。眠いと認めなければ、いくらでも時間がうまれてきます。」という文章がなかなか忘れられず、以下のようにはてなブックマークを書いた後も反芻してしまっていた。
  


 
あんまり反芻してしまうものだから、上のコメントにおさまりきらなかった気持ちまで書いてしまいたい。
 
 

睡眠時間を削ってもてなす人物談に、複数の「恐ろしさ」を感じる

 
くだんの文章には、風邪を風邪とも思わないような商売人や、身体を削って人をもてなし、圧倒的信頼を獲得する士官が登場する。そうした人物が架空とは思えない。私もそういう人々に出会ったことがあるからだ。
 
そうした人々を見た時、私は複数の「恐ろしさ」を感じずにいられない。
 
「恐ろしい」と思うことその1。
まず世の中に、そういう異常に頑丈な人間が存在するということ。
遭遇率は低いが、世の中には、とてつもなくバイタリティがあり免疫力にも優れているらしく、精力的な活動を続けている人物がいる。彼らは絶えず仕事や事業や研究に邁進している様子で、いつ休養を取っているのか傍目にはわからない。が、そうした人々は休養を挟むのが上手いのだろう。そういう人たちの内実は「まったく休んでいない人」ではなく「普通の人があまり休めない時間や場所でも休める素養のある人」だと私は踏んでいる。前にも書いたことがあるが、ロケバスで熟睡できること、研究室の硬い床の上でもしっかり休めることはそうした才能のうちだ。だから、
 


 
三宅香帆さんのこのXの投稿は、短所というより長所だと思う。新書大賞を受賞し、現在、殺人的にお忙しいはずの三宅さんを支えているのは「新幹線や長距離バスで寝てしまえる→多少なりとも回復できる」能力だと思う。うらやましい! もっとも、あれだけ忙しければそれでも不十分かもしれないから、ご自愛下さいと思わずにいられない。
 
「恐ろしい」と思うことその2。
世の中には、とてつもなくバイタリティがあり免疫力にも優れているらしく、精力的な活動を続けている……ようにみえるがそうではない人物もいる。表向きはその1の人と変わらない。昼間は猛烈に活動し、夜も繁華街で飲み歩いたり猛勉強していたりする。
 
ところが、そういう人が突然死んでしまったり病気に倒れたりすることは珍しくない。たとえばメディア業界で大車輪の活躍をみせていた人がついに倒れた。倒れてみると、やれ狭心症だ、やれ脳梗塞だと、身体の内側がボロボロになっていたりする。医療に従事していると、この、「ある時期までは無敵の体力のように見えて、実際には健康が損なわれていた」人に結構出会う。あるいは20~30代の頃のライフスタイルを中年になっても続けようとして続けられず、それが身体だけでなく精神的・アイデンティティ的にも耐えきれなくなってしまう人にも時々出会う。
 
ということはだ、その1の人間とその2の人間を区別するのは本当は簡単じゃないのだ。もちろん後知恵ではなんとでも言える。だが高齢になるまで派手に活躍し続けてきた人のその活動には再現性は乏しく、すべては生存バイアスでしかない……のかもしれない。
 
それでも、本当に異常に頑丈な人間か、見かけ上は頑丈でも命を削っている人間かを区別するヒントは存在する。それは睡眠時間や血圧や食生活などを確認し、健診のたぐいを受けてみることだ。本当に異常に頑丈な人間は、常軌を逸した活動をしているようにみえても高血圧や高血糖といった問題が表面化することがまずない。逆に、見せかけだけ頑丈な人間は健診であちこち引っかかり、医師からライフスタイルや食生活の見直しを迫られていることが多い。というより、見せかけだけ頑丈な人間はしばしば健診をきちんと受けず、自分自身の健康に目をつむっていることがままある。
 
月並みな提言で恐縮だが、人並み以上に働いている人や活躍している人こそ、自分自身の健康をよくモニタリングし、心身に無理が生じていないか見張っておくべきなのだと思う。もし、データ的に悪化の兆しがあるなら「自分は異常に頑丈な人間ではなかった」と認めたうえで、命を削っているであろう現在のライフスタイルやワークスタイルを見直したほうがきっといい。
 
 

世の中には、身体を潰してでも勝負してくる人間がいる

 
だが私が一番「恐ろしい」と感じるのは、その1・その2で挙げたような人々が世の中にはウヨウヨしていること、そして競争相手として立ちはだかるかもしれないことだ。
 
今日では厚労省が「働き方改革」を主導している。この制度改革のおかげで、一般的な労働者が過労死してしまうリスクはたぶん減っているだろう。
 
でも、それは一般的な賃金労働者の話、それも、終業後に働いたり勉強したりしない人々の話でしかない。賃金労働だけですべてが完結する人は「働き方改革」で過労死しなくなったかもしれないが、そうでない働き方や生き方をしている人にはあまり関係のない話だ。
 
世の中には、管理職や経営者と定義される立場の人もいる。管理職や経営者は、「働き方改革」におさまらない部分がある。でもって、本当に激しく競争しているのは彼らだ。彼らの労働には際限がなく、彼らはしばしば人に会わなければならない立場にもある。管理職や経営者にとって、異常に頑丈な身体は天性の素養というほかない。頑丈さによってもたらされる豊富な手持ち時間を仕事や会合やアップデートに割り当ててくる人に打ち勝つことは、凡夫に可能だろうか?
 
頑丈さが見せかけだけの、本当は命を削って働いている人々だって十分に恐ろしい。長いスパンでみれば、本当は命を削って働いている人はいずれ健康を損ねて退場するだろう。だけどその時が明日なのか、1年後なのか、10年後なのかは誰にもわからない。命を削っているようにみえて、実は、本当に頑丈な人間なのかもしれないのだ。
 
健診の結果などを知らない部外者からすれば、目の前で異常なほど働いている管理職や経営者がその1に該当するのか、その2に該当するのかは区別がしづらい。よしんば区別がつけられ、「ああ、この人はじきに健康を損ねて退場するな」と推測できたとしても、彼/彼女が実際に退場するまでは手強いライバルのままだ。短期的にみるなら、そのような働き方ができる人を相手取って競争し、打ち勝つのはやっぱり大変だと思う。
 
で、そういうのは管理職や経営者だけじゃない。
動画配信する者、小説を書く者、漫画を描く者、等々の創作活動をする者はみんな、どれだけ創作に打ち込めるのか、どれだけインプットしアウトプットできるのか、どれだけ資料集めや研究に時間と体力を費やせるのかが切実に問われている。もちろん、素養の高低や要領の良しあし、AIやウェブや図書館を活用できる度合いも問われるだろう。だが、第一に問われるのはバイタリティ、そして集中力の保たれた状態で活動できる時間だ。体力は、活動時間だけでなく活動のクオリティにも直結する。創作そのものだけでなく、(たとえば編集者のような)アウトプットに際してコミュニケートしなければならない人とのコミュニケーションの質をも左右するだろう。
 
その1(異常に頑丈な人間)や、その2(本当は命を削って働いている人間)に該当する人は、ライバルたちよりもずっと活動限界が遠く、長く・集中して活動できるのだ! 最強じゃないか! と思わずにいられない。
 
実際の創作者や表現者の寿命をみていると、その1に該当している人はそれほどおらず、実際には心身を削りながら創作に打ち込んでいる人の割合が多いように思う。ぶっちゃけると、その1とその2の境界なんて本当は誰にもわからないし、くっきりと区別できるものでもない。創作する者は皆、多かれ少なかれ心身を削っているだろうし逆にどこか頑丈でもあるのだろう。が、中期的であれ長期的であれ、人並み外れた頑丈さと人並み外れた活動量を発揮できる創作者は、そうでない創作者にはできないことをやってのける。創作活動に人並外れた時間と体力と集中力を投下し続けられる人は、ちょっとぐらいの素養の差ぐらい、インプットやアウトプットの物量で圧倒してしまう。
 
 

そういう人々と互角に戦えるか?

 
だから私にとって、冒頭リンク先の商売人や自衛官の話は「不健康だな」という印象よりも、「でもうらやましいよね」という思いと「こういう人間をライバルとしなければならない戦場は過酷だ」という印象が勝る。
 
昭和時代に比べて、トータルの労働時間が短くなったとされていて、統計的には管理職などでも労働時間は減っているとされている。また退勤後に業務について勉強したらそれは労働時間の一部だ、という声も聞こえる。それらを字句どおりに受け止めるなら、日本社会では労働者同士の過当競争はなくなった……ように聞こえる。
 
しかし現実はそうではないと思う。まったく、そうではない。管理職や経営者のような立場の人もいるし、創作活動については時間制限は無い。体力や精神力に抜きんでた人・自分の命を削っている人はげんに存在する。そうした、異常に働いたり創作したりする人々の寿命があと1年なのか、10年なのか、50年なのかは誰にもわからない。わからないが、とにかくそういう人々が存在し、そういう人々と戦わなければならないフィールドがあるのは事実である。そして、そうした人々の仕事や創作への熱意を「働き方改革」のように画一的に制限することはたぶんできないだろう。
 
異常に頑丈な人間と、実際には命を削って異様に活動している人間は、これからも世にはばかるだろう。というより、世の中のある部分は彼/彼女らの異常な活躍や活動に支えられている。そういう、命の蝋燭の太い人間や命の蝋燭を盛んに燃焼させてくる人々と同じフィールドで戦わなければならないことを思うたびに、私は戦慄する。