おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

平気で人を否定する人たち

あまり感心しないことであるが、現実に広く見られる集団ナルシシズムのかたちが、「敵をつくる」こと、すなわち「外集団」にたいして憎しみをいだくことである。これは、初めて集団を組むことを学んだ子どもたちにも自然に発生するものである。その集団に所属しない人間は劣った人間か悪い人間、あるいはその両方であるとして見下される。

M・スコット・ペック『平気でうそをつく人たち』

 

私たちは息を吸っては吐くように他人にネガティブなレッテルを貼り付ける。

 

そこには自分は物事をありのままに正確に捉えているという自惚れが大前提としてある。

 

そして、私たちは他人にネガティブなレッテルを貼り、見下し、否定することによって、おいどんはあいつとは違うどす、あちしはきゃつと違うどす、と自分や自分たちの正しさや優位性や正当性や価値を示そうとしている、感じようとしている。

 

他人を見下すことで優越感を得て、自分や自分たちはこんなにも価値のある存在なんだということをアッピールしようとしている、証明しようとしている。

 

他人を見下して自分は価値のある人間なんだと悦に浸るのは特段の努力を必要とせず、楽であるため、怠惰な私たちはついやってしまうよね。

 

んじゃあ、どうして私たちはこうも正しさや優位性や正当性や価値をアッピールしたのかというと、そうでなければ存在を否定されると思ってしまうからだ。

 

実際に他人から否定されるかどうかはわからないにもかかわらず(現実としては否定してくる人もいるだろうし否定してこない人もいるだろう)、正しくなければ存在を否定される、優位でなければ存在を否定される、正当でなければ存在を否定される、価値がなければ存在を否定される、とどうしても思ってしまう。

 

そのような思い込みの中にいて、否定されるのが怖くなり、その恐怖や不安をかき消すために、常に自分は正しい存在、優位な存在、正当な存在、価値のある存在ということをアッピールし、証明しようとする。正しい自分、価値のある自分は存在を否定されないと思うことができて、安心できるからな。そのための手っ取り早い方法が他人を見下し、否定することなのであーる。

 

んじゃあ、どうして正しくなければ存在を否定される、優位でなければ存在を否定される、正当でなければ存在を否定される、価値がなければ存在を否定されるという思い込みを抱いてしまうのかというと、自分がそのような存在を見下し否定するからだ。

 

自分が他人を下にみて否定するから、自分が下だとみなされると人から否定されると思い込んでしまう。

だから否定されないように、自分は下ではない上なんだということをアッピールし証明しようとし、他人を下に見て否定する。

 

そうして自分が人を下に見て否定するため、自分が下だとみなされると人から否定されると思い込んでしまう。

だから否定されないように、自分は下ではない上なんだということをアッピールし証明しようとし、他人を下に見て否定する。

 

という無限ループにはまり込む。

 

人を否定することが習慣になると、何かにつけて誰かに否定されるような気がして、否定されないような「正しい自分像」なり「強い自分像」なり「優秀な自分像」なりを作り上げようとして人を否定するようになる。他人を否定することによって「私は奴(ら)と違って価値のある人間なんだ」というところに立つことができるからな。

 

そうして否定しては否定されると感じる無限ループ、見下しては見下されていると感じる無限ループの中で一生を送ることになる。

 

ということを理解すると、仮に誰かが自分のことを否定するようなことを言ってきたとしても、その人は否定しては否定されるように感じる無限ループの中にいて、その人にとっては私が何かネガティブなものに見えているに過ぎず、その人は私そのものを正確に捉えているわけでもなく、単に誰かから否定されるのが怖くて自分はこんなに価値のある人間なんだということをアッピールするために私の影像を否定しているに過ぎないということがわかる。

 

そうして否定することによって、その人は否定しては否定されるように感じる無限ループにますますはまり込み苦しみ続けることになるということがわかる。

 

ここで、まじでざまぁと思ってしまうのが私たちなのだけれど、それをやってしまうと、今度は自分自身がその相手に悪者というレッテルを貼り、悪者として見下すことによって、自分の正しさや優位性を感じようとしているということになる。

 

私たちは物事を捉える時に自分の心(主観)を通じて捉えるしかない以上、自分が見ている相手というのは自分自身ということになるのだから、相手を悪とみなしざまぁと冷淡な感情を起こしているということは、自分を悪とみなし自分自身に対しざまぁと冷淡な感情を起こしていることに他ならない。

 

ということは、他人にネガティブなレッテルを貼り、見下し、否定し、自分や自分たちの優位性や正当性や価値を示そうとすることが軸の日常というのは、自分を見下して否定することよって正しい自分像や優位な自分像や価値のある自分像を作り上げることが軸の日常ということで、それは自己否定をするだけの日々ということで、自分を粗末にするだけの日々ということで、そらぁ、当然苦しいじゃろう。

 

ということがわかっていても、これまでの習慣の延長でやってしまうのが実際で、どうしてもやってしまうからといって自分に苦しみをもたらす所業を正当化することもまたできない。

 

いやー、まじでぴえん。

 

声出して切り替えていこうと思う。

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