おすかわ平凡日常記

整え続ける日々

人から大事にしてもらえるかどうかという不安

寵愛をうけるか屈辱をうけるか、人びとはそれにびくびくして不安でいる。それは、名誉とか財産とかいった大きな心配ごとをたいせつなものとして、わが身と同じように考えているからだ。

 寵愛と屈辱とにびくびくと不安でいるというのは、どういうことか。寵愛をよいこととし、屈辱を悪いこととして、うまくいくかとびくびくし、だめになるかと不安でいる。それが、寵愛と屈辱とにびくびくと不安でいるということだ。

金谷治『老子』

 

私たちは人から大事にされたくて日々世間的価値をかき集めることに必死だ。

 

世間的価値を手に入れることができたら、自分は価値のある人間になれると思い、そうして価値のある人間になったら人から大事にしてもらえると思っている。

 

逆に、世間的価値を手に入れることができなければ、自分は価値のない人間となり、そうして価値のない人間は人から粗末にされると思っている。

 

よって、私たちは血眼で世間的価値をかき集めるのに必死だし、それを一度手に入れたら、失うわないように必死で握りしめようとする。

 

(来る大晦日や新年で神社仏閣に祈ることは、世間的価値を誰よりも手に入れ、人に勝てますように、人を見下せるようになれますように、人から大事にしてもらえるようになりますように、人から馬鹿にされないようになりますように、物事が自分にとって都合よく運びますように、みたいな感じのニュアンス的な雰囲気のことをどうしても祈らずにはいられないのが私たちの現実なのではないかしらん。)

 

世間的価値をかき集めることと握り締めることに人生のほとんどに時間を費やし、世間的価値を手に入れられるかどうか不安でびっくんびっくんしている、人から大事にしてもらえるか不安でびっくんびっくんしている。人から粗末にされないかどうか、びっくんびっくんしている。

 

この不安は、世間的価値で自分の価値が決まるという思考パッターンから生じている。

そして、人生はいかに人から価値のある人間として認知してもらい、いかに人から大事にしてもらえるかが大事という思考パッターンから生じている。

 

どれだけ多くの世間的価値を手に入れられるか、それがそのまま自分の存在価値となる、自分がこの世界に存在してもいい根拠になる、人から大事にされる根拠になる、という思考パッターン。

 

この思考パッターンの絶対的な欠点は、この世の真理である諸行無常の理を完全に無視していることにある。

そして、全くもって関係のないもの同士を関連付けようとしていることにある。

そして、いかに人から大事にしてもらえるかを重要視していることにある。

 

諸行無常の理によって、この現実世界のものは絶対に一定ではない。

必ず変化し増えたり減ったりあったりなかったり性質や意味が変化したりする。

 

そして、私たちが日々必死にかき集めようとしているものは、すべて諸行無常の理の支配下にあり、必ず変化し増えたり減ったりあったりなかったり性質や意味が変化したりする。

 

そのような本質的に絶対的に不安定なもので自分の価値が決まると思っているため、当然、心から安心することはできない。

 

だからこそ、延々に解消されない不安を解消しようと際限なく世間的価値をかき集め、ゴリラ並みの握力で握りしめようとするだけの人生になってしまう。そして最終的には諸行無常の理によってその全てを絶対に失う。

 

さらにそもそも世間的価値と自分の存在価値はまったくもって別物であり、別次元のものなのだけれど、私たちにはそれがどうしてもわからず、その両者を結びつけ連動させてしまう。

 

自分の存在価値(自分がこの世界に存在してもいい度合、根拠)は世間的価値とは関係なく絶対にある。

 

世間的価値は諸行無常の理によっていかようにでも変化するのだけれど、自分の存在価値、自分にとって自分の大事さというのは絶対に変わらない。自分にとって自分は絶対に大事。それだけだ。

 

(自分にとっての自分の大事さは絶対だからといって、自分は絶対に正しい人間ということには決してならない。正しさというのは変化するし、これが正しいと判断する自分の認知力、理解力、視野というものも変化する。正しかろうが間違っていようが、そのようなものとは関係なく自分の存在価値というものはある。「正しさ」と「大事さ」というのは全くの別物ということを理解する必要がある)

 

世間的価値と自分の存在価値というのは全く別次元のものであるため、世間的価値があろうとなかろうと自分にとっての自分の大事さは変わらない。

 

そもそも両者には関係がないからこそ、どれだけ世間的価値をかき集めても自分にとっての自分の大事さは変わらず、そもそも関係がないものを関係があると思い込んでいるために、一時的に安心感を得られることはあっても、やっぱり両者は関係がないため、しばらくすると満足できなくなり、不安になってきて、延々と世間的価値をかき集めては握り締め最終的には全てを失うということを繰り返すことになる。

 

そして他人は絶対にコントロールできない。

他人には他人の自由意志があり、その人なりの物事の捉え方や世界がある。

 

どれだけ世間的価値を手に入れても、自分のことを悪く見てくる人は必ずいる。

 

そのような絶対にコントロールできない他人から、それでもなお、大事にしてもらえるかどうか、認めてもらえるかどうかで自分の価値を決めようとする。

 

これはこれで当然不安だ。だから力や正しさを手に入れて他人をコントロールしようとする。しかし、それでも他人はコントロールできない。

 

こうしてみると、私たちがいかに無謀な努力、どうしようもなく不安にならざるを得ない努力に勤しんでいるのかがわかる。

 

世間的価値は絶対に不安定。

他人が自分をどう扱ってくるかも絶対に不安定。

世間的価値や他人からの扱われ方と自分の存在価値はそもそも無縁。

 

本質的に不安定なものを安定していると段違いな勘違いをし、本質的に変動するものを固定化できると段違いな勘違いをし、本質的に無関係なものを関係があると段違いな勘違いをし、ネバギバの精神で人生の膨大な時間と労力とお金を費やしている。

 

世間的価値をかき集めて、人に自分が価値のある人間であることを証明し、人から大事にされようとする。

 

これほど不安定で不確実で依存的なものはない。

 

我々の日々の努力が大事にされるための努力なのであれば、世間的価値をかき集めて、人に自分が価値のある人間であることを証明し、人から大事にされようとする、という無謀で回りくどい努力ではなく、自分は自分にとって絶対に大事ということに気づき、それを前提とし、自分が自分を大事にしていく努力をしたほうが安定的で確実で自立的だということがわかる。

 

そしてそもそもどうして私たちは自分に価値がないと人から粗末にされると思ってしまうのかというと、それは人が本当に粗末にしてくるから(そういう人もいるかもしれないが)というわけではなく、自分が人のことを世間的価値の有無でその人の価値を判断し、価値がないとみなした人のことを粗末に扱っているからだ。

 

自分が他人や世界をそう見ているからこそ、自分もそう見られているように感じてしまう。

 

自分が他人を価値がないとして(口や態度に出さなくても心の中で)見下すことが多いため、価値がなければ他人から見下されると思ってしまう。他人が本当に自分のことを見下すかどうかはわからないにも関わらず、どうしようもなく見下されると感じてしまう。

 

自分が他人を価値がないとして(口や態度に出さなくても心の中で)責めることが多いため、価値がなければ他人から責められると思ってしまう。他人が本当に自分のことを責めてるかどうかはわからないにも関わらず、どうしようもなく責められると感じてしまう。

 

自分が他人を価値がないとして(口や態度に出さなくても心の中で)粗末にすることが多いため、価値がなければ他人から粗末にされると思ってしまう。他人が本当に自分のことを粗末にするかどうかはわからないにも関わらず、どうしようもなく粗末にされると感じてしまう。

 

このように、自分に価値がなければ他人から粗末にされる、というのも所詮は自分の思い込みや解釈や推測でしかなく、その思い込みや解釈や推測は、自分の普段の行い、自分が普段からどのような思考パッターンでどのような思いを自分や他人に起こしているのかということから生じている。

 

つまり、苦しみを生み出すような思い込みは全ては自分が作り出していて、そのような思い込みは自分次第でどうにでもなるということになる。

 

世間的価値の有無で人の存在価値を測ろうとすること、規定しようとすることをやめていく、世間的価値の有無に関係なく相手の存在価値はあるという前提で相手を大事に思う、こう心がけることによって、自分に価値がなければ人から粗末にされるという思い込みが薄まってきて、世間的価値の有無と人から大事にされるかどうかとは必ずしも関係ないということがわかってきて、世間的価値をかき集めることへの強迫観念から開放されやすくなる。

 

という意味で、自分を大事にするためには他人を大事にすことが必ず必要になってくる。他人に対して適用している価値基準は必ず自分にも適用され、他人に発している思いは必ず自分自身に返ってくるため、自分を大事にすることと他人を粗末に扱うことは絶対に両立しない。

 

他人に寛容な思いを発することは自分に寛容になることにつながり、他人に冷酷な思いを発することは自分に冷酷になることにつながる。

 

以上を踏まえると、幸福になるためには世間的価値とは関係なく、自分が他人からどのように見られるか、どのように扱われるかとは関係なく、自分は自分にとって絶対に大事ということに気づき、自分が自分を大事にしていく必要がある。また自分を大事にするためには自分だけではなく他人のことも大事に思える必要がある。

 

ということは頭ではわかっているのに、やっぱり世間的価値をかき集めようとしてしまう、世間的価値で自分の価値を規定しようとしてしまう、価値のある自分というイッメージに執着し、価値のある自分というものを感じるために(口や態度に出さなくても心の中で)他人を粗末に扱ってしまう。

 

そういう自分がいる。

 

いやー、まいっちゃうなー。

まじでテヘペロだなー。

 

よーし、こうなったら見たくない自分、どうしようもない自分を見なようにするためにビッグマックセットを8セット食べちゃうぞ。

 

必殺、モバイルオーダー!

 

というのはやめようと思う。

 

声出して切り替えていこうと思う。

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