小川榮太郞「おーい、文壇人諸君!」の歴史的仮名遣をチェックしてみた

 最近は、文芸評論家の小川榮太郞に関する話題がネットで盛んです。小川氏が新潮45に書いた内容はLGBT問題について誤解を広めかねない内容なので、私は小川氏の書く内容については擁護するつもりがない事を、あらかじめお断りしておきます。

 歴史的仮名遣で文芸活動を実践する私として気になった事が一つあります。小川氏がフェイスブックに書いた投稿「おーい、文壇人諸君!」の「歴史的仮名遣に誤りがある」「中途半端だ」とする意見をネットで見掛けました。果たしてそれは本当なのか。

小川 榮太郎 - 【おーい、文壇人諸君!】... | Facebook

 そこで、この文章の仮名遣を私が勝手に校正してみました。
 青色:歴史的仮名遣として正しい箇所
 黄色:歴史的仮名遣としても現代仮名遣いとしても正しい箇所
 赤色:歴史的仮名遣として誤った箇所

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 再び繰り返しますが、私はこの文章の内容については必ずしも擁護しません。しかし結果は「完璧な歴史的仮名遣」でした。一箇所か二箇所は赤色のマーカーで塗りつぶして「歴史的仮名遣の決まりに従って書くなら、これが正しい仮名遣です」と注釈を入れる事になるかと思ったら、そんなのは一箇所もありませんでした。

「『い』を『ひ』で書くのが歴史的仮名遣」ではなかったの?

 学校の古文の授業では「『ゐ』『ゑ』は『い』『え』」「『かう』『さう』等は『こう』『そう』等」「単語の最初の字以外の『はひふへほ』は『わいうえお』」等と、「歴史的仮名遣を現代仮名遣いに直す法則」を学ぶ事があります。
 しかし、「この法則を逆にすれば、現代仮名遣いから歴史的仮名遣に直せる」わけではありません。それが出来れば苦労はありません。
 実は、歴史的仮名遣では、同じ「イ」で発音するかなを、言葉によって『い』『ひ』『ゐ』の三つで書き分けるのです。
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 現代仮名遣いでも

  • 同じ『ワ・エ・オ』で発音する言葉でも、『くっつきの は・へ・を』や『こんにちは』『こんばんは』は『わ・え・お』ではなく『わ・え・を』で書き分ける
  • 同じ『ジ・ズ』で発音する言葉でも、『ちぢむ』『つづく』『はなぢ』『きづく』等は『じ・ず』ではなく『ぢ・づ』で書く
  • 同じ『エー・オー』で発音する言葉でも、『せんせい』『ねえさん』『おうさま』『おおかみ』と書き分ける

規則がありますが、歴史的仮名遣にはこの種の法則がもっとたくさんある、と思っていただければ話は早いです。
 少し脱線しますが、上に挙げた三つは正確には「歴史的仮名遣にたくさんあった、発音に対するかなの書き分けの法則のうち、『歴史的仮名遣に基づく書き分けの決まりを残さないと、歴史的仮名遣に慣れた世代にとって違和感があまりにも大きく、現代かなづかいへの移行を猛反対されて国語改革が失敗しかねないので、譲歩してそのまま、またはアレンジして残した」部分です。当時は、現代かなづかいを作った国語審議会のメンバーも「新しい仮名遣で学ぶ子供達はそれらの言葉も『わ・え・お』等と書くのが自然なはずで、旧来の『は・へ・を』はそのうち淘汰される」と思ったらしいですが、不思議な事に、現代仮名遣いで教育を受けた私達の世代も『は・へ・を』の方がやはり自然なものです。

歴史的仮名遣でも音便は発音通り書く

 「現代仮名遣いで『わいうえお』と書くかなを、歴史的仮名遣で『はひふへほ』と書く事がある」のは事実です。その一つが、ハ行で五段・四段活用する動詞です(ただし「~おう」は「~ほう」ではなく「~はう」になります)。
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 その他にも「しあはせ(しあわせ)」「かほ(かお)」等の言葉をハ行で書きます。
 一方、「ない」は元々「ない」と書きますし、「短い」などの形容詞や、「~について」等は「短き」「つきて」の音便で、ハ行とは特に関係ありません。それで「い」のまま書きます。
 言葉によっては「ゐ」の字で書く事もあります。
居る:ゐる
要る、入る、煎る、射る:いる
と書き分けます。その他、「ゐのしし」「ゐなか」、漢字だと「居」「井」で書く「イ」(ゐざかや、ゐど等)、動詞では「用ゐる」「率ゐる」も(居るに由来する複合語らしいので)「ゐ」で書きます。

コンピュータで歴史的仮名遣入力

 時々、「わざわざ仮名遣の異なる部分を消して書き直してるの?」「わざわざ辞書登録してるの?」「旧漢字の場合はは外字を作ってるの?」と聞かれる事があります。しかし今はその必要がありません。Windows/Mac版のATOKでは標準機能として、歴史的仮名遣で書く機能が既にあります。その他のかな漢字変換システムでも、歴史的仮名遣による変換辞書をインストール出来る場合があります。
 詳しくは拙著「コンピュータによる旧字旧かな文書作成入門」をご覧下さい。冊子版は「とらのあな」通販でもご購入いただけます。

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歴史的仮名遣は文化

 インターネットは、どんな言語・どんな表記も拒みません。
 世界中の人々が英語や日本語だけでなくあらゆる言語でウェブサイトを制作したりツイッターに投稿したりします。管理者の決めた決まりが特にない限りは、英語であればイギリス英語でもアメリカ英語でも大丈夫。中国語であれば繁体字で書く人も居れば簡体字で書く人も居ます。「人工言語」を作ってそれで書く人も居ます。古くからあるエスペラント語に限らず、数多くある様です。
 日本語についても、管理者の決めた決まりが特にない限りは、現代仮名遣いでも歴史的仮名遣でも書く事が出来ます。

 かつては、旧漢字や歴史的仮名遣による表現活動が今ほど自由に出来ない時代がありました。旧漢字や歴史的仮名遣での出版に理解のある出版社を見付ける事からして一苦労。「それは出来ない」「新漢字や現代かなづかいに直さないと出せない」が当たり前の返事。それもそのはずです。印刷所の活字は1949年に「当用漢字字体表」が出来て、1950年代には新漢字の活字にどんどん更新されて旧漢字の活字がなくなりつつありましたし、旧漢字や歴史的仮名遣のわかる校正者も少なくなりました。苦労してやっと理解のある出版社を見付けたと思ったら、今度は誤植がひどい、といった具合でした。「新漢字や現代かなづかいに直せばこんな苦労は要らないのに、そこまでして旧漢字や歴史的仮名遣で出す必要があるのか」とあきらめた作家もきっと多かったはずです。ここまでは現在も大体同じです。
 しかし今では、紙のメディアで出せなくても「インターネット」があります。自分でウェブサイトやブログを作ったり、ツイッターやフェイスブックに投稿すればいいのです。紙のメディアにしても、今はコンピュータによるDTPがあります。旧漢字でも歴史的仮名遣でも自由に組版して、印刷所にPDFファイルを入稿すればいいし、印刷料金も昔と比べてかなりお手頃になりました。

 今や絶滅危惧種の歴史的仮名遣ですが、これは文化です。歴史的仮名遣による表現の文化が「剥製の様な死んだ文化」としてではなく「生きた現代の言葉」として残って欲しいと私は願ってますし、無理のない範囲でネットや同人誌による表現活動を実践中です。

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歴史的仮名遣に関する質問箱

 歴史的仮名遣で現代の言葉を書く事について、よく聞かれる質問をまとめてみました。是非ご覧下さい。
正字正かな質問箱