序文
先日、1月20日に、はてなブロガーとしても有名な熊代亨(p_shirokuma)先生の新刊『「推し」で心はみたされる? 21世紀の心理的充足のトレンド』が発売になりました。
近年、推し活やオタ活、そしてそういう生活をする人たちに対する本は多数出版されていますが、このように学術的(?)に分析した本はかなり久しぶりではないでしょうか。自分の記憶によると『前田敦子はキリストを超えた: 〈宗教〉としてのAKB48 (ちくま新書)/濱野 智史』*1以来…?くらいの気がします。実際には他にもいくらかそのような本はあったのでしょうが、寡聞にして存じ上げません。ひとえに自分のアンテナの低さもあるでしょうが、それだけではない気もします。
近年のサブカルを取り巻く環境が、『批評』から『翼賛』、その存在の意味について問うよりもいかに『拡散(インフルエンス)』するかが重要視されるようになってきたからなのではないだろうかと思っています。前田敦子がキリストを越えたのが2012年。それから10年のSNSの進化の中で、批評者と表現者の距離が近くなり、また、今までは発言する機会のなかった、発現してもその声が届くことのなかった層の声が広く拡散されるようになるにつれて、ともすれば悪口ともとれる批評(そのコンテンツを好きな人が見ると気分が悪くなるもの)は極力排除されるようになっていきました。
インターネットが言論の場ではなく、『みんなの広場』になったので、そこで誰かを不快な気持ちにさせることは憚れれるようになったのです。(ただ、みんなの広場から不快なものが排除されるようになっていく、という過程は、ネット空間だけでなく、リアル空間でも2000年代あたりから徐々に進んでいきました。ここら辺のことは、(P_shirokuma)先生の著書、『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』*2でも触れられています)
というわけで私は、この『「推し」で心はみたされる? 21世紀の心理的充足のトレンド』を非常に楽しみにしているわけなのですが、実はまだ読んでいません。というのも、これを読むことによって、今、自分の中で定義、分析、解釈されている「推し」「萌え」の概念が左右されることを恐れているからです。自分も20年オタクをやっていて、萌えや推しにそれなりに一家言あります。あるんです。あるんだぞ。
それがライバル(と勝手に思っている)のシロクマ先生の主張に左右されて上書きされてしまうのは、なんというか、悔しい。
というわけで、この著作を読む前に、自分の中にある『萌え』や『推し』の定義、解釈、分析、社会的精神的なメカニズム、そして今後、推しや萌えはどのようになっていくのか、ということをちょっと長文で記事にしていこうと思います。
『推し』『萌え』はいつからあったのか
さて、何かを語る際、一番最初にすることは、その言葉を定義することです。
ただし、セカイ系という言葉や、ライトノベル、という言葉がそうであるように、文化的現象を扱う言葉を定義することはとても難しいです。言葉が示すものの輪郭を追っていくと、玉ねぎをむいていくように最終的には”なにもない”ことになってしまう。それはセカイ系について分析したおそらく地上で唯一の著書『セカイ系とは何か/前島 賢』*3がセカイ系について「セカイ系とは時代の雰囲気でその実体はない」というようなことを書いてることからもわかると思います。形而上学的な『言葉』は厳密さを求めていくと霞のように観測ができないものとなってしまいます。
なので、ここでは、何となくこういう感じに定義できるんじゃないの、みたいな雑な定義をしていきたいと思います。
『萌え』という単語の起源については諸説あります。美少女戦士セーラームーンの土萌蛍が源流という声もあれば、カードキャプターさくらにその起源を求める声もある。ともかく、大体2000年ごろに発生した言葉であるということは間違いないです。また、世間一般で使われるようになったのは2005年頃からです。(ここら辺は記憶による)
また、『推し』という単語の起源も諸説あります。 90年代後半ごろからモーニング娘。のファンの間で使われ、いつの間にかアイドルファンの間で広まった、というように言われてしますが、世間一般で広まってきたのは2018年頃になります。(ニュース等で単語の解説がされ始めるのがこのころ)
『現代用語の基礎知識』などを参照すればもう少し確かなことが言えるでしょうが、この論はそこまで厳密性を必要としていないので、そういう作業は割愛します。
と、推しや萌え、といった単語の発生はこの20年ほどですが、では、それ以前、旧石器時代や青銅器時代、中世や近世には、『推し』や『萌え』に相当する感情はなかったのでしょうか。いや、そんなことはない(反語)。
後でまた厳密に定義しますが、超雑に定義すると萌えや推しというのは、『好きという気持ちをキャラクターで消費する』と定義できると思います。(なぜそのように定義しようと思ったのかは、また、後で説明するので、ちょっと待ってて、今は古代でこのように定義される言葉があったかどうかか、ってことの話をするから)
で、結論から言うと、似た感情は確かに存在しました。
例えば古代ギリシャでは演劇が盛んでしたが、その演劇では機械仕掛けの大道具『デウスエクスマキナ』によって巨大なクレーンに乗って神様に扮した役者がどどーん!と登場します。沸き立つ観客。みんな推しの神様を持っていて、その神様が出てくるとムッチャ上がってたんですね。推しの神様の神殿に聖地巡礼(ほんまの巡礼やね)をしていたりする。
そして、日本の平安時代でも、残された日記の中に、今の感覚でいう「光源氏萌えの夢日記」みたいなのが出てくる。萌え、がある。ところでもし自分の残した日記がこんな風に1000年以上たって晒されてると思うと軽く死ねますね。辛い。
江戸時代の歌舞伎の観客の記録を見てみれば、そこには今の基準でいう役者推しやキャラ萌えとしか言いようのない感情や行動を読み取ることができます。鉄棒ぬらぬら先生は神絵師やしね。
よし、わかった!結論!人間は推しや萌えとともにあった!人間の歴史は萌えと推しの歴史だった!これにて一件落着!
…とはいきません。何故なら、その時代には、『推し』や『萌え』を表す単語がないからです。
肉食を歴史的に殆どしてこなかった日本人にとって『肉』を表す単語は『肉』しかありません。しかし、肉食をよく行う文化のある地域で話されている言語では、肉を表す単語が数十種類あると言います。また、雪の多く振るフィンランドでは、雪を表す単語が58種類もあると言います。言葉というものは、文化に依存します。21世紀以降の日本では特殊な愛情の形態を表すために、フィンランドで雪を呼びあらわすのに多くの言葉が生まれたように、萌えや推しという単語は生まれました。そしてそれは、フィンランドの雪のように発生頻度が高い感情であるということも示しています。(また、ここから2000年以降(またはそのちょっと以前から)日本の文化自身も変質しているということもわかるでしょう。その感情はおそらく2000年以前は言葉を必要とするほど出現頻度が高くなかったはずです)
かつての時代にも『推し』や『萌え』というのに相当する感情はありました。
しかし、推し活などと言われるように、推しや萌えというものは社会的な行動であります。なので、ここでは、推しや萌えは(その環境も含めて)2000年以降に発生した感情であり現象である。と定義したいと思います。
『萌え』と『推し』、安全な片思い
さて、では、『推し』や『萌え』とは何なのか。それは、一言で言ってしまうと、『安全な片思い』となります。
もちろん恋愛感情(や性愛)を伴わない萌えや推しもあります。片思い、と書きましたが、それは、大きな他者に向ける感情を言い表すのに便利であり、また、よく似ているのでその言葉を使用しただけで(わかりやすく説明するためにはそういう端的な言葉が必要な時があります)大事なのは『安全な』部分です。
他者に向ける感情は、常に暴力的なものをはらんでいます。自分が生理的に受け付けないと思っている相手に告白されることはショックですし、そして「ごめんなさい、生理的に受け付けないので無理です」と言われるのはもっとショックです。それ以外にも、歪んだ愛情が他者の健全な成長を阻害することもたくさんあります。愛情は、危険です。
そんなに危険なら人を好きにならなければいいのに、という意見が出ると思いますが、そうはいきません。恋愛をするということは気持ちがいいのです。世間で流通するコンテンツの殆どが恋愛ものであるように、恋愛をしている間は(片思いでも)脳からドバドバと脳内物質が出ます。誰かを好きになることは気持ちがいい。一回それを経験してしまうと、その恋愛相手がいない状態が耐えられなくなる人もいます。恋愛中毒です。小学校以降、近しくなった間柄での話題で頻繁に「誰が好き?」という話題が出ますし、「好きな人がいない」という状態がさも異常であるかのように扱われたりします。余計なお世話だね。
そして、ここが重要なのですが、その幸福感を感じる相手は、実はイケメンであったり美少女であったり必要はなく(もっとも、そういう相手が好きになるのにハードルが低いのは事実ですが)「自分が好きになれる」ならだれでもいい、のです。これ、わかる人にはわかるしわかんない人はいまいちわかんないだろうし、ちょっと自分も経験則的なものなのでうまく説明できなんですけど、わかる人はわかってもらえると思う、なので、そういうものだと思ってください。
ですので、とにかく恋愛がしたい。誰かを好きでいたい。でも、実際にリアルでいる隣人に対してそのような感情を持つのは危険極まりないです。自分が否定されるととても辛いし、恋愛状態になっても、どこかで破局して別れるととても辛い。そして、そのような感情を受け止めてくれる『藁人形』が『萌え』や『推し』なんです。
脳内物質をゴリゴリに出しても、その先にはなにもない。傷つくことがなくって、ずっと気持ちいい状態をキープしていられる。対象から否定されて傷つくことがない(実際はそんなことはないんですが)。通常の恋愛は付き合うというゴールがあり、そしてゴールした瞬間からはその状態をどうやってキープしていくのかっていう現実がやってきます。めんどくさい。だんだんと情熱も冷めていく。世の中にある恋愛ストーリーが恋愛成就までで付き合ってからの物語があまりないのはここら辺が理由です。
片思いのドキドキをずっと味わっていたい。そしてそれを味合わせてくれる(その感情を向けても壊れない、否定しない)のがアイドルであったり萌えコンテンツです。そう考えると、萌え、も、推し、も恋愛成就が遠そうなクラスタから発生したというのは少し味わい深いですね。
資本主義(大量生産)と萌え、推し
いつ頃からこのような『萌え、推し感情』が生まれたのか。それは、テレビや雑誌の大量発行されるようになり、また対象のグッズ(ブロマイド写真集)が大量生産されるようになって以降のことだと思います。
心理的安全性(対象と物理的に接触しない)の担保だけでなく、その『萌え、推し対象』を所有できるようになるというのが、萌え、推し活動するうえでは重要です。資本主義と結びつくことによって、供給が生まれ、供給が生まれることによって需要が生まれる。産業として成り立つことによって概念強化され、そして、『萌え、推し』という概念がその概念を表す単語を必要とするようになりました。
『萌え』と『推し』のマトリクス
さて、今、萌えや推しなどと言われる感情をひとまとめにして、ざっくりとどういうものかの説明をしました。今から、萌え、推し、そしてそれを取り巻く社会と消費のされ方と時代の変化をちょっと細かく整理していきます。
まず、萌え、推し、それぞれの言葉の定義です。誰かに対しての一方的な安全なクソデカ感情、という意味では同じですが、ただ、細かく見ていくと、『萌え』と『推し』には違いがあります。『萌え』というのは、あくまで個人的、対象と自分の2者間の関係性で、対して『推し』には他者性、自分と対象以外の関係性についての目線があります。『推し被り敵視』という単語があっても『萌えかぶり敵視』という単語はありません。ないんじゃないかな多分。
萌え、推し、の他にも、【ファンである、とても好きである】ということを表す言葉はいくつもあります。信仰、崇拝、ガチ恋、俺の嫁。それぞれ似ていますが微妙に違う。それを勝手に、性愛(肉体的)⇔信仰(精神的)、個人的⇔集団的、の2軸でマトリクスをとってプロットしてみました。異論はまあ、あるでしょうし…これは個人的な感想なので……。
どうでしょうか?
…いや、どうでしょうかも何もないですけれども。ここから何か言える気がしたけど何もなかったぜ……。ただの個人的な感想とその定義だからな……。自分は好きという感情に対してこういう印象を持っていますよ、という意見表明以上の何物でもないですね。
『萌え』は商品消費、『推し』はイベント(祭り)消費
萌え、と推しの違い、まあ難しいし厳密に切り分けることはできないし、時代によってただ『便所』が『お手洗い』と言い換えられたみたいにただ同じ現象を言葉だけ替えたって見ることができるし、ただ、『便所』と『お手洗い』から受ける印象が違うように、『推し』と『萌え』から受ける印象も違う。
なので、本当にざっくりとした話です。
2005年あたりからの、『安全な感情の消費』の仕方は、グッズ消費でした。対象と同じものを所有したい、対象をかたどった(イコン)を所有したい。そういう、『萌え』対象を自分の手の中に置いておきたいという欲望でした。だが今は違う!(ギュッ!)萌えから推しに環境が変わり感情消費のやり方も変わりました。今、キャラクターグッズで一番人気に商品は何かというとアクリルスタンドです。これは、一見所有に見えますけれども、違います。アクリルスタンドを使って何をするかというと、一緒にどこかに出かけてご飯や風景と一緒に写真に収めるんですね。そしてSNSに上げる。(この萌えから推しへの変化にはSNSも大きな役割を果たしていると思うんですが、そこまでかくととても長くなる)。求められているのは、時間や場所の共有です。
この時間と場所の共有というのは、昔に『コト消費、モノ消費』といってコト消費とされていたものに似ていますが、自分はちょっと違うものだと思っています。かつて言われていたコト消費モノ消費という分類も、結局そこにはナラティブがあり、そのナラティブをどのようにタグ付けするかという話しだったのですが、この『時間と場所の共有』『アクリルスタンドによる時間と空間の切り取り』には物語がない。ただ、そこにいる、という存在しかない。
自分はこれは一種の小さな『祭り』だと思っています。神おろし。日常に非日常を召喚して上書きする、そういう日常の位相変換が、今の(SNSなどで個人的な日常というものが集団的なものに圧迫された現代における)推し活動の意味なのでは?と考えています。(ここで、ライブなどの話をすると話が広がりすぎてしまうのですが、推しが目の前に降臨して、同じ空間を共有するというのは、本当にお祭りですよね。生活における祭りの効用について話すと長くなるのですが、お祭りというのは、とめどなく淡々と延々とだらだらと無目的に変化なくただただ続いていく日常にくさびを打ち込んで、一回殺して、そして生き返らせて、また明日から日常を送る活力を得るためのものだと思っています。
かつての祭りというものは、生産や生活から非常に近しい物でした。今の夏祭りや花火などのお祭りは、楽しいですが、個人の生活からは離れた存在になってしまっています(生活に密着しただんじりなどは、祭りとしてその町の生活の中で機能していると思います)そのような祭り本来の形を取り戻そうという動きが推し活にはあるのかもしれません。地下アイドルの現場では、誕生祭やその他のイベントに向けて、スタッフとアイドルだけでなくファンも様々なグッズを作ったり花を用意したりと色々と準備をします。それは学園の文化祭のようでもあり、また、かつて古く農村で行われていた『祭り』を思い起こさせます)
推し活というのは、日常の中に、非日常を混ぜ込んで、灰色の毎日をできるだけカラフルにしていこうという現代人の知恵なのです。(綺麗なまとめの定型句)
これからの推し、萌え、について。ヴァーチャルな存在と個人的な推しについて
やっと、色々な言葉の定義が終わりました。長かった。ここまでで7000文字くらい使いました。こういう定義で物事を話しますよ、という準備がやっと整いました。詰まんなかったですね。すいません。ここから、仮定に仮定、推論に推論を重ねたフェルミ推定みたいなアクロバティックな未来予測とこれからの萌え、推しの話をしていきます。こういう無茶苦茶な話がインターネットという感じがして好きでしたが、そういうの書く人が最近あんまりいなくて残念です。
それじゃあ、今から、今現在ある推し活の問題点と、これからどうなっていくのかの予想について話します。
まず、今の推し活にいまだに存在する問題点について整理します。
『推し活』が傷つかないといつから錯覚していた?
推し、萌えは安全な片思い、と書きましたが、実はそんなことないです。実は付き合ってる異性がいたりしたら傷つきますし、犯罪を犯すこともあります。契約会社ともめて、名前を奪われてどこかに消えて行ってしまうこともあります。そのため推しに傷ついた人たちは比較的安全だと思われる『ジャニーズ』『吉本』『Vtuber』『宝塚』に流れ着いていきますが、そこすら安全な場所でないのは、もう皆さんお気づきのはずだと思います。
じゃあ、一体、これから、誰を、どんな風に、押したらいいの…?
安全な恋愛対象として相手は誰でもいいっていったな、あれは嘘だ
上の方で、『安全な片思いができる相手が欲しいだけで相手は誰でもいい』と書きました。半分本当で半分嘘です。押すためには性癖に適ってる相手の方がいいし、幻滅するポイントが少ない方がいい。その総合点数で推せるか推せないか決まってきます。見たくないところが見えなくて、見たいところは見せてくれる。そういう都合のいい相手を求めます。
推し感情と性愛
推し感情は、性愛を伴うこともありますが、そうでない場合が多いです。なんせ、片思い、それも初恋の片思いに似ている感情なのですから。こういう話しを聞いたことがありません?クラスの女子全員をオカズにオナニーをしている男子がいたけれども、自分が片思いをしている相手ではオナニーできなかった、という話。
なので、『推される対象』として作られたコンテンツは、極力性的なものを排除しています。本当だよ。それの証拠に近年の『推し』コンテンツをよく見てください。Vtuberなどを見ると、性的なアピールがとても少ないです。萌えの時代のキャラクターに比べて、明らかに性的な要素が減っています。
それとここがややこしいところなのですが、人間は本能的に肉体的な接触を求めます。その対象と手をつなぎたいと思うし、触りたいと思う。物理的に近くに行きたいと願う。これは、人間が、ボルボと同じようなグルーミングによって信愛を示すタイプの霊長類なので本当にどうしようもないことです。好き、信愛、という感情に、肉体的接触をしたいという欲求が載ってくる。これはいくら感情で抑制しようとしても難しいです。
肉体は、汚い。
さて、ここでちょっと別角度からの話をします。
参考文献はこちら、またシロクマ先生の『健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて』からです。澤村伊智先生の短編集『ファミリーランド【電子特典付き】 (角川ホラー文庫)』も思索の参考になります。
ここ20年の話ですが、ますます社会から、不快なにおい、不潔、不衛生、体毛、老い、といったものが排除、不可視化されるようになってきました。でも、それらの不潔は、人間の人間らしいところともいうもので、そして、それらが排除されていくのと同時に、人間同士の物理的接触も忌避されるようになっていってると思います。若者のセックス離れが叫ばれる…ことはないですが、実際数字を追っていくとかなり離れているので、少子化の前にこっちもなんとかせなあかんのとちゃうの?と思ったりしまいますが、そこら辺のことはちょっと社会問題化しずらいですしね…。あと、若い子たちに清潔にいてほしいという願い(と行動、公序良俗の徹底)の結果このようになったので、まあ、なるようにしてなったというか……。
話がそれました。
で、まあ、現実の人間は、汚い。汚いということは、『推し対象(感情の向け先)として選ぶためのハードル』が高くなる。肉体的である、ということは、綺麗で清潔な社会では減点対象になります。鼻毛が出てたり脇から汗のにおいがしたりすると、好きという気持も冷めていく。
実際今の若い子は、男の子も簡単なメイクをしますし、お風呂から上がったら化粧水をしますし、女の子のメイクはどんどん実在感を感じさせない2次元のようなメイクになって言っているのはそういう理由があると思います。みんな人間でいたくない。
それでも、本能は接触を求める。
しかし、それでも、人間は霊長類のため、安心を得るために肉体的な接触、グルーミングを求めます。近くにいたい。匂いを嗅ぎたい。それと、『肉体は汚い』との間の二律背反が、今の複雑な推しシーンを描いています。まるでフラクタル模様のように複雑で、入り組んで、簡単にはほどけない複雑な感情と行動の表出は、その、相反する二つの本能と欲望の間のせめぎあいから発生しています。これが、今の推し活動を伴う状況です。
じゃあ、これからどうなっていくのか。それには拡張現実が一つの解を示してくれます。
まず話の前にとりあえずこれ読んで。
1話から3話までこっちで読めるからまず読んで。
https://comic.pixiv.net/works/7200
この物語『VRおじさんの初恋』が描かれたのは数年前ですが、いまだ色あせない名作です。4月からNHKでドラマもやります。楽しみです。
VRchat上のセックスを知っていますか?
Q VR上でセックスってできるんですか?肉体もないのに。
A できます。肉体はあります。あなたが肉体だと感じるものが肉体です。
できます。そこには(もともとの)性別も、肉体も、年齢も、関係ありません。ただお互いのアバターと、相手に見せたい自分自身が存在すれば、そこにお互いは存在しますし、お互いの肉体を本物だと認識するのなら、そこにセックスはあります。そもそもあなたが自分の肉体だと思っているのだって本当のあなたの肉体ですか?あなたが感じている肉体というものは、脳の中に再現されたホムンクルスが感じている身体で、実際のあなたの身体とは異なります。みんな『それが普通だから普通』と思っているだけです。身体性というのは錯覚にすぎません。
今の『肉体を忌避するトレンド』は今度ますます強くなっていくでしょう。しかしそれでも、『肉体接触を求める』本能はどうしようもない。
そして、それと別に、安全な、傷つかない片思いに対する需要も高くなる。自分が傷つかないのは当然として、相手も傷つけたくない。
その場合、お互いにアバターを被り、お互いのアバターに恋をするようになればいいのでは?その過程で傷ついたり傷つけたりしても、それは、本当の自分自身ではなくアバターなので、ある程度の傷はそのアバターが引き受けてくれる。一種の身代わり人形として機能してくれる。そんな未来はもう来ていて、一部の人はそんな未来にすでに生きてる。
すでに僕らはアバターを複数活用して生きてる
もうすでに、この社会で生活する人の殆どの人は複数のアバターを活用して生きてる。日常生活を送る生身の肉体のほかに、インターネット上のアカウントや愚痴垢、色々なチャンネルを用意して、そこで完結する関係性を構築したりしている。時と場合によってアバターを使い分けて、その時一番自分にとって必要な場所へ行くことができる。そのアバターはまだ身体性を持たないけれども、そのうち持つようになる。車好きな人が車を自分の身体の一部と思うように、絵描きが自分の描いた絵を自分の一部だと思うように、仮想に展開された身体を自分自身の肉体と認識して、そしてその肉体による接触で、グルーミング欲求を満たす日がいつかやってくる。安全に。
今の、『推し』を取り巻く環境は、美しく魅力があって清潔で安全な推しの供給が難しいので、『推す側』に比べて『推される側』が少ないから起こっている部分が大きい。でも、これから、皆が、それぞれに仮想の美しい肉体をまとい、それを現実だと認識できるようになるなら、その時は、個々人が個々人を推すというような、相互推し環境が構築されていくのではないかな、と思う。または、恋愛のデメリットが解消されて、みんなが、みんな、そのVRの中で、恋愛をして制御可能な傷つきをして、(年齢も関係ないので)みんな若いまま、恋愛を繰り返していくようになるのかもしれない。顔と体が必要のない仮想空間の世界では僕らは永遠に若くて魅力的なままだ。内面の劣化は肉体の劣化に引きずられる。でも、若いVR肉体を本体だと思えるのなら、その劣化もそんなに起こらないだろう。
そういうことを、萌え、推し、について分析して、解釈して、未来予測しています。
じゃあ、今から、答え合わせとして。
こちらの本を読んできますので、後で、対戦よろしくお願いします。