「マンガ、神話、宗教−エヴァンゲリオンという物語」

「マンガ、神話、宗教−エヴァンゲリオンという物語」という文章を「宗教と現代がわかる本2015」(平凡社)に書きました。エヴァンゲリオンをひとつの神話として見るという視点を手がかりに、マンガ、アニメ、ゲームと神話、宗教の関係を考察したものです。
 ただ残念なことに紙幅の関係で一節分丸々削らねばならなくなりましたので、参考のためこちらに置いておこうと思います。本来は今発表されている最終節5の前にこの節が入ります。



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 一時ネット上で、エヴァンゲリオンと「バナナ型神話」についての関係が、熱心に議論されたことがある、
 「バナナ型神話」は死の起源を説く有名な神話の一つである。
 いわゆる「南方系」と呼ばれる神話で、バナナがキーワードになることから「金枝論」のフレーザーによって命名された。例えば、インドネシアのポソ族の神話では、人間は神が与えるバナナを食べて生活していたが、ある日、石が与えられたので神に対して文句を言った。これに対して神が「石を受け取っていれば人間の命は石のように長く続くはずだったのに、バナナを望んだために、人間の命は今後バナナのように短く朽ち果てる」と言った。それで死が生じるようになった、というものである。
 実にシンプルで味わい深い神話だが、これだけなら、いったいエヴァンゲリオンと何の関係があるのか、さっぱりわからない。
 ところが、2003年に発表されたシミュレーションゲーム「エヴァンゲリオン2」(バンダイ)の中で、授業中に教師がバナナ型神話について触れたさい、綾波が動揺して倒れるという事件が発生するのである。
 設定によれば、綾波レイにはリリスの魂が宿らされている。倒れたときに綾波は、内界で彼女の魂であるリリスと会話をする。
 前述したように、エヴァンゲリオンの世界では、リリスは人類(リリン)を生み出した母親である。リリスは綾波に、生命の実はアダムによって持ち去られてしまい、残っていたのは知恵の実だけだったのだと述べている。あなたも生命の実を望むのかという綾波の問いに対し、リリスは次のように述べる。
「私が生み出した生命・・・。人類には生命の実が欠けている。不完全な生命体よ。(綾波 「人々を完全なものにする為に、私は必要なの?」)私の子らは、それを望んでいるわ」
 リリスは、自分が完全になるには、知恵の実と生命の実の両方が必要なのだと述べる。
 ここで、バナナ型神話の話を聞いて綾波が動揺した理由がわかってくる。バナナ型神話における不老不死の象徴である「石」と、「生命の実」は同じ役割をしていたのだ。実は、綾波が生きるユダヤ・キリスト教をモデルとした神話は、バナナ型神話と同じ構造を持っていたのである(生命の実/知恵の実≒石/バナナ)。おそらく、生命の樹と知恵の樹という創世記の神話は、バナナ型神話の変形なのであろう。
 バナナ型神話の類例は多く、例えば古事記に見られるニニギノミコトとコノハナサクヤヒメ、そしてイワナガヒメの神話も同じ構造をしている。
 国津神であるオオヤマツミは天孫ニニギに美しいコノハナサクヤヒメと姉のイワナガヒメを嫁がせたが、ニニギはイワナガヒメの醜さを恐れて送り返し、コノハナサクヤヒメとだけ結婚した。恥をかかされたオオヤマツミは、イワナガヒメ(石長姫)は天孫の長寿のために嫁がせたものだったが、送り返されたため天孫の寿命は桜の花のように短くなるであろう、と述べるのである。ここでも、植物(コノハナサクヤヒメ)と岩石(イワナガヒメ)の対立によって死の起源が語られている。
 このようにバナナ型神話の類例を見ていくと、実に興味深いことに気づく。表面的には神から二つのものを差し出され、その両方が受領可能に見えるが、人間は必ず生きて生成するものを選び、その結果死を与えられることになるのである。
 死は、人にとっては不条理なものである。だからリリスのように、命の実と知恵の実を両方得たいと思う。しかし、永遠に生きるとはどういうことなのか。そこでバナナ型神話は、石を差し出すのである。
 石を受け入れ、石のように生きるということは、変化をしたり生成をしたりすることの拒絶である。そこにはバナナのようにおいしいものもないし、コノハナサクヤヒメのように美しく、エロスを発するものもない。変化のない恒常的な世界で、出会いもなければ別れもなく、好きになることや愛しあうこともない反面、憎しみあうことや傷つけあうこともない。しかし、当たり前のことだが、生きるということは、生成して、変化して、やがて朽ちていくということなのだ。
「生きていくことは、変化していくことだ」
 庵野監督はこの言葉を掲げてエヴァンゲリオンを作ったわけだが、彼の作品はまさにこうした神話と深層でつながっていたのである。
 さらに、哲学屋上がりのノンフィクションライターである僕は、バナナ型神話と通底していた庵野秀明のこの姿勢に、「存在と時間」を書いていた頃のハイデガーと同質のものを感じる。
 ハイデガーは当時、近代ヨーロッパの物質的・機械論的自然観と人間中心主義的文化が明らかに行き詰まりにきていると考え、これらの根源はどこにあるかを考えていった。「存在」という概念をたどっていったところ、それが遠くギリシャ古典時代に「存在」を「製作/非製作」というモデルで「被製作物」と考えていたプラトン・アリストテレス以来の問題であることがわかった。
 ニーチェから深い影響を受けていたハイデガーは、ソクラテス以前の思想家たちが「存在(万物)」を「自然」と見なし、「生きて生成するもの」と捉えていたことをよく知っていた。昨年亡くなった、日本のハイデガー研究の第一人者であった木田元は、次のように述べている。

「ハイデガーは人間を本来性に立ちかえらせ、本来的時間性にもとづく新たな存在概念、おそらくは〈存在=生成〉という存在概念を構成し、もう一度自然を生きて生成するものと見るような自然観を復権することによって、明らかにゆきづまりにきている近代ヨーロッパの人間中心主義的文化をくつがえそうと企てていたのである」(「ハイデガーの思想」岩波新書)
 ここでは「物質的・機械論的自然観」が「石」に、「生きて生成する自然観」が「バナナ」に対応している。エヴァンゲリオンの言葉で言えば「人によって仕組まれた」人類補完計画は常に挫折し、人は、自らの内なる自然によって変化し、生成していくことになる。