アートとイラストの違いがないとしたら、アートをイラストと呼んでいいのだろうか?

それだと怒る人がいるんじゃないかな。主にアート方面に。
逆にイラストをアートと呼んで、「何でもアートです」ということにした方が”丸く”収まるのかもしれない。
でもその”丸さ”って何だろう。


アート、デザイン、イラスト(80年代の話) - Togetter


少し前にブックマークしたTogetter、かなり長いが面白いので、例によって気になったtweetを抜粋しながら、思いつくまま適当な解説と意見を書いてみる。


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淋派も、明治10年代の終わりから20年代にはレッキとした「日本画」「美術」になっていましたね。
ざっとおさらいすると、江戸末期まではさまざまな膠絵の流派が乱立し、それに対抗して南画(文人画とも呼ばれた墨絵、墨彩画)があり、庶民的なところでは浮世絵あり、西洋画(主に風俗画として見世物興行)あり‥‥と雑多でアナーキーな「美術未満」の状態だったのが、明治6年のウィーン万博参加の時に急遽「美術」という言葉をARTの翻訳語として作り(この頃は工芸的なものも「美術」枠に入れている)、以後急速な近代化政策の下に洋画推奨、油絵隆盛となっていったところに、アメリカ人フェノロサが来て初めて見る日本の「美」に感動し日本の絵画の優秀性を説いたので、日本の美術界は一気に「日本画」(それまでの膠絵をまとめて総称)優勢となったと。
この時、中国由来の南画や大衆的な浮世絵などは「美術」-「日本画」より一段下に置かれた。


これ以降、琳派を初めとした「日本画」という名の膠絵、さらにそれ以前の日本の仏教絵画や彫刻は、西洋概念の「美術」の名を借りて、近代以降の日本の美術に接続され、あたかも最初から一貫した「日本美術史」があるかの如く語られるようになっていく。それは、国粋主義の発揚と立憲体制の整備の中心にあった、「万世一系」の皇国史観と一致していた。
東京美術学校も、開校当時は国粋主義一本槍で、絵画は日本画科しかなかった。やがてフランス帰りの黒田清輝が、日本に「日本画」なるものを作り上げたフェノロサと仲良しだった校長、岡倉天心を追い出すかたちになり、日本の画壇は西欧を向いた洋画壇と国内を向いた日本画壇の二重構造となる。
(以上は北沢憲昭の『眼の神殿』(名著)と若林直樹の『退屈な美術史をやめるための長い長い人類の歴史』(それほど話題にならなかったが面白い)をトレースしながら、拙書『アート・ヒステリー』で書いたことの要約)


つまり、西欧の近代美術が貴族社会の遺産を受け継ぎつつ”絵画の冒険”に乗り出した市民階級によって担われたのに対し、日本の近代美術は西洋に追いつき追い越さねばという「国策」を掲げる「官」主導で始まった。「官」の中身は何事も体面を重んじる旧武士階級で、その感覚は一般庶民とは相当遊離していたと思われる。
技法で言うなら膠絵、墨彩画、油絵、木版画がそれぞれ共存していた中、昔から上流階級に顧客の多かった膠絵と西洋伝来の油絵だけが、「官」お墨付きの「美術」に選ばれ、特権的な位置を占めてきたということ。アートとイラストやデザインに「格差」が生じた国内的理由があるとすると、そのあたりかもしれない。
その後、版画はハイアートと大衆芸術の双方にまたがって続いていき、墨彩画は一部がポピュラー化し、武者小路実篤が好んで描いたような色紙絵や、今で言えば「絵手紙」に代表される片岡鶴太郎的なイラストとして定着しているように思う。


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日比野克彦は芸大の大学院時代、パルコ主催の『日本グラフィック展』から出てきた。このあたりは前書いたので引用。

[…]『美術手帖』八二年の六月号は「現代のドローイング・アーティスト」という特集を組んでいる(ドローイングとは素描という意味)。サブタイトルは「イラストレーションの最前線」。そこでは、純然たるイラストレーターと現代美術系の画家が「ドローイング・アーティスト」という枠で一緒に紹介されていた。
 「イラストは芸術ではない。イラストレーターとアーティストを一緒くたにするな!」と怒った人もいたかもしれないが、「最前線」のイラストレーターなら、アーティストと呼んでもまあいいじゃないか、という雰囲気がどこかにあったから、この特集タイトルは成立したのである。


 そういう雰囲気を象徴的に示していたのが、パルコが八〇年から開催した『日本グラフィック展』(略して「日グラ」)という公募展である。
「イラストレーション&フォトグラフィー」と銘打たれ、浅葉克己、永井一正など有名フォトグラファーやデザイナーが審査員に名を連ねていた、その「日グラ」の第三回(八二年)で、東京芸大デザイン科大学院生の日比野克彦がダンボールの作品で大賞を取った。私はその年に同大彫刻科を卒業したのだが、『ぴあ』に就職した同級生が、「日比野克彦は有名アーティストになるかも」と電話してきたことを覚えている。「あのセンスのいい小学生の工作みたいなものが?」と思っていたら、本当にそうなってしまった。
 日比野以降「日グラ」では、「アート系」の作品が一気に増えた。絵画ともイラストとも工作ともつかない、「アート系」と言うしかないような、カジュアルでポップで感覚的な作品群。応募総数は第五回目にして初回の五倍以上、五千点を越えた。「これがアートなのかイラストなのかよくわかんないけど、とにかく作品を作ってしまった」とか「日比野に続け」と思う若者達が、日本全国(といっても首都圏中心)にそれだけ生息していたわけである。
 絵画という形式にこだわりのある美術作家の多くは、「日グラ」に対して距離を置いていた。あんなのアートじゃない、イラストの見本市だ、軽佻浮薄である、と。イラストレーター崩れと一緒に応募なんかできるか、という画家としてのプライドもあったかもしれない。しかしデザインのみならず洋画や彫刻の美大生、若い美大OB達の多くは、「日グラ」に興味津々。実際応募者には、学生がかなり多かった。
 普通、美大出の若者が作家活動を始めるとすると、まずレンタルのギャラリーを借りて個展かグループ展を開くことが多い。それを続けながらあちこちのギャラリーにプレゼンして、やっとどこかで企画展の話が持ち上がるというコース。持ち出しが多いので、貧乏な若者には結構大変だ。しかし注目されている公募展で高名な評論家や作家に見出されて入賞すれば、”話”は向うからやってくるかもしれない。一発逆転ホームランのチャンスである。
 そういう"引き"があったとともに、「アート系」な雰囲気がやはり魅力だったのだと思う。デザイン畑の人からすると"自由"なアートの香りが漂い、美術畑の人からすると小難しい現代美術臭さがない「アート系」。「これなら私でもイケそう!」みたいな感じである。八〇年代前半の日本の美術業界を席巻していたニューペインティングも、この「日グラ」の傾向とどこかでシンクロしていた。


(『アーティスト症候群』p.26〜27)


84年に始まった同じくパルコ主催の『日本オブジェ展』では、更にアート濃度が高まり、これら二つの公募展の受賞者から、アーティストを名乗り、美術方面で活動する若い人々がぼつぼつと登場する。この頃の美大の卒業制作展には、必ず「パルコ日グラ系・オブジェ系」作品が見られたほど影響力は甚大だった。絵画で言えば、イメージ重視、筆致は奔放といった表現主義的傾向は、当時欧米から入ってきたニュー・ペインティング(新表現主義)の影響とも連動していた。
92年に二つの公募展は『アーバナート』(〜99年)という公募展に統合される。URBAN(都市の)+ART(芸術)。既に現代アートの公募展と言ってよかった。浅田彰や椹木野衣も審査員に名を連ねている。
この三つの公募展を回顧した『アーバナートメモリアル』(監修・榎本了壱/パルコ出版/2000)は、作品写真とともに多くの「証言」が掲載されており、80年代以降の日本のアートシーンに大きな影響を及ぼしたイラスト的な傾向を考える上で、非常に重要な資料となっている。帯の惹句は、「先端アート20年史 新鋭作家44人のアーティスト・ファイル」。


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ここでの「作品」とは「アート作品」のことだろう。その上で考えると、優れたアート作品の条件とは、「コンセプト」(思想)と「デザイン」(設計)が一致し過不足がないこと、と言えるだろう(ここで「コンセプト」自体の面白さ加減は一旦措く)。
「デザイン」が「コンセプト」に対して「過」でも「不足」でもいけない。「過」だと「余計なものが多くて焦点のボケた駄作」となり、「不足」では「テーマばかり先行し表現力が足りない」となる。
つまりアート作品の「デザイン」とは、「巧い/しょっぱい」で測られるものではなく、「コンセプト」との関係が適切か否かで測られる。というより、優れたアート作品において「コンセプト」と「デザイン」は、入り組みながら単純に切り分けできない構造を持つ(もっともこれは優れたデザイン制作物についても言える)。


‥‥と思うのだが、パルコキノシタ氏の言っていることも何となくわかる。最初に眼に飛び込んでくるのは「デザイン」だから。その”掴み”で失敗すると、「コンセプト」なんか誰も読んでくれなかったりすることは往々にしてある。
むしろ、アートの「コンセプト」などほとんど出尽くして、もはや「デザイン」勝負(「コンセプト」は後付けでいい。あるいは頭のいい人が勝手に読み込んでくれるのでそっちにお任せ)となっている面があるのかもしれない。「世の中に流通する」ことを主眼にするならそういう傾向にならざるをえない。
だとすれば、アートは、それなりの「コンセプト」をまとった優れたデザイン作品と、どういう質的な違いを主張したらいいのか? もはや流通経路が違うだけでは?という話にもなる。


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イラストは常にお客さん(他者)を意識しなければならず、アート(絵画)は「必ずしもそうではない」。何らかの必然性があって作られたものが、結果として商業ベースに乗ることはあっても。
平たく言ってしまうと、デザイン内イラストというカテゴリーで作る限り「自分の好き勝手」は許されないが、アートは許されるということになろうか(むしろ「自分の好き勝手」をとことん追求せず、中途半端にウケ狙いを考えていると失敗する)。
この違い(を「認識」すること)は、作り手にとっては大きな意味をもつと思う。


もちろんこのようなアート/デザインの腑分けは、近代以降のものだ。一方、「好き勝手」と言っても、ひたすら自己の内面を掘り下げたい「好き勝手」だったり、既成の絵画を打ち壊したいという「好き勝手」だったり、他のジャンルでされていることを美術でもやってみたい「好き勝手」だったり、技法的な「好き勝手」だったりいろいろだ。
そこに、新しい何ものかを出現させたいという「戦略」や「野心」が少しでもあれば(ある人を「アーティスト」と呼んだと思うが)、その作品は単に「内向的な内省性の表象」とは言えない、となるのだろう。
その結果生まれたアートの見かけとしての「デザイン」は、やがて意匠としてファッションやグラフィックデザインやテキスタイルなど広くデザイン分野に吸収され、応用され、噛み砕かれて広まっていくのが常だったりもした。


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たしかに趣味としてのイラストがある以上、「商業/非商業(でもあり)」でイラスト/アートの線引きはできない。では、何が決定的に違うのかと言えば、「自らの依って立つ基盤、形式への意識があるか否か」ではないかと思う。
「アートとは何か」(「絵画とは何か」でも「彫刻とは何か」でも「表現するとは何なのか」でも)というジャンル、カテゴリーへの意識。近代以前のアートから商業デザイン的な要素が分離して以降に、そうした形式への自覚=アートの自意識は生まれた。これは「自分は何者か」という近代的自我と相似形である。
「コンセプト」と「デザイン」だけでデザインは成り立つけれども、アートはそれだけでは成り立たない。誰かに特に必要とされず頼まれもしないのに、何かを描いたり作ったりする時、いったいコレは何か、何になるのか、アート(絵画、彫刻etc)とはいったい何か?‥‥と、その表現の基盤と根拠をアーティストは問わざるをえないはずだから。
そのような問いを通して作品が作られ、あるいは問いそのものが作品になってきた。


イラストに「イラストとは何か」というような自意識は必要ない。そういう人がいたら面白いかもしれないが、商業であれ趣味で描くイラストであれ、自分の考えるイメージ世界をどのように作り上げるかという「内容」が重要であって、それを支える「形式」への問いは意識に上らないのが普通だろう。
これは「アートとイラストとどちらが上か」という問題ではなく、モダンアートが誕生した時点で、アートは言わば”自意識過剰”にならなければ生き延びてこれなかったということだ。
70年代の日本のアートも、そういう問題意識をクソ真面目且つ重苦しく抱え込んでいたと思う。だから”地味”だったし、一般には「シロートにはさっぱりわからん難解なもの」として受取られがちだった。
一方、60年代から70年代のグラフィックデザインは、経済成長を反映して活気に満ちていた。横尾忠則というスターもいたし、美術大学のデザイン科の倍率も上がり続けた。


デザイン科出身の日比野克彦がアーティストとして認知される前後、「現代美術」が「現代アート」とよく言われるようになった80年代の中頃から、地盤の地滑り的変化が起こっていった感じがある。
アートとイラストの境目は、「コンセプト」においても「デザイン」においても見えにくくなったと同時に、「自己の依って立つ基盤への問い」(コンセプチュアルアートで追求された)、「形式への自覚」(フォーマリスムで追求された)は、モダニズムの成れの果ての旧い問題系‥‥といった認識がなんとなく広がっていった。
そして、それまで抽象ばかりだった絵画に具象的な‥‥ある意味イラスト的な‥‥傾向が現れ、若い作家が続々とデビューして『美術手帖』誌面を飾った。*1


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イラストが何らかの「機能」を持つものなら、芸術表現は「機能」を滞らせる働きを持つ(持ってしまう)ものではないかと思う。それは常に”異物”としてしか感知されないものとして登場する。芸術分野に限らず、そういう不穏にしてプリミティブな表出を「アート」と呼びたいという気持ちは個人的にはある。


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wikipediaで「イラストレーション」を見ると、「子ども向けの本のイラストレーションで名声を得」たハワード・パイルという人が、「1902年にイラストレーターの職業団体であるソサエティ・オブ・イラストレーターズを設立し、イラストレーターの地位を向上させた」とある。この頃がアメリカのイラストレーションの「黄金時代」であったようだ。まだアートではヨーロッパの後塵を拝していた時代。
二つの大戦の間にヨーロッパから戦火を避けたアーティストたちが渡ってきて、次第に「アート>イラスト」的な空気が醸成されていったという面もあるのかもしれない。
また、ポロックを見出した批評家グリーンバーグが論文「アヴァンギャルドとキッチュ」(1939)で、大衆文化をキッチュ(俗悪)とし、それに対して前衛芸術及びモダニズムを擁護したことも、イラストが一段下というイメージを後押ししたのではないかと。


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批評の「世界基準」となったグリーンバーグの影響力は良くも悪くも大きかった。
ただ残念ながら日本の美術大学を出た学生の半分以上がグリーンバーグもフォーマリスムも知らないだろうし、「近代絵画のイデオロギー」なんて言葉も通じない(通じる人は少数派)ので、一回くらいそのイデオロギーを強制インストールして、それを自力で解除するくらいの荒治療を学部時代にやっておいてもいいような気がする。学校とはそういう場所なのだから。


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『アーバナートメモリアル』に会田誠も登場している。本人のコメント。
「「日グラ・ファイナル」の応募があった91年は僕の私生活上最悪の年で、『あぜ道』という小品一作しか描けませんでした。根っからの「油絵科」で日グラとは無縁だった僕は、かなりヤケクソな気分とともに、絵を抱えて渋谷に向かったものでした。」(p.18)


「現在主流の「現代美術」と、日グラ以前の「現代美術」」の差異は、「自らが寄って立つ基盤への意識」、つまりジャンルや形式への意識の有無だと端的に言っていいのではないかと、私は思っている。
そういう意識を保持しつつ「日グラ以前/以後」の/に当たるような試みが、80年代前〜中盤を中心に、若いアーティストたちによって多数行われていた‥‥ということも、Twitterなどではあまり言及されないので書いておきたい。
「ポップ」が日本のアートシーンの前面に出てくる前の、閉塞していったモダニズムの流れをどうやって現在のリアリティに更新していくか、といった動きだった。私が主に見ていたのは東京の芸大美大周辺のそれだが、自主企画展が多かった点も含めて、メディアでも美術館でもマーケットでもなく、アーティストが中心になった最後の東京アヴァンギャルドという感じではあった。
詳しくは「現場」研究会HPの「史資料」(『現代美術の最前線』の写真は正直酷いが、一連の動きが当時の美大・芸大生に与えた影響は大きい。現代思想を背景にした藤井雅実氏のテキストから私は多くの示唆を得た)、レポート「「現場」研究会特別編シンポジウム「80年代におけるアヴァンギャルド系現代美術―画廊パレルゴンの活動を焦点として 」(お客さんによるレポート)を参照のこと。関西でも作品の傾向は若干違うとは言え、同じような動きはあった。


この後に登場した会田誠や村上隆には、ジャンルや形式への意識(それを持たなければアートではないことになっていた時代の意識)はあるけれども、前の世代と一線を画すためあえて表に出さないようにしているのではないかと思う。だがほぼ同じ世代でも日比野克彦、奈良美智にはそれは希薄に思われる。少なくともデザイン科出身の日比野にはないだろう。
つまり会田や村上は作品内でかなり意図的にポストモダンを目指したモダンだが、日比野、奈良は”好きなことをやっているうちに自然とそうなった”ように見える。そして、後者が広範に支持されやすいのもその点にある。
60年前後の生まれのこの世代に自分も含まれるけれども、かなり大きな分裂があると思う。


‥‥‥80年代も30年前になろうとしているので、ずっと後の世代の人が「考古学」的アプローチで見て行くと、新たなものが発見できるかもしれません。


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日グラ経由で、一時期「◯◯アーティスト」を名乗る人は増えた。その多くは、今はアーティストというよりクリエイターと呼ばれているのではないだろうか。
◯◯のつかない純然たるアーティスト、というか画家として横尾忠則が登場してきたのは1981年だから、日グラ第一回より1年遅いだけ。以下再び拙書より。

「イラストレーターからアーティストへ」で思い出すのは、八一年の横尾忠則の画家宣言である。別に宣言文を新聞などに発表したわけではなくて、油絵の個展を開いたということなのだが、イラストレーター、グラフィック・デザイナーとして有名なあの横尾忠則が、いきなり絵描きに転身?!ということで、ちょっとしたニュースになった。
 横尾忠則は、八〇年にニューヨーク近代美術館でピカソの作品を見て感動し、画家になることを決意したという。もっとも絵画を描いたのはそれが初めてではなく、六〇年代後半、個展でアクリル画を発表している。それはグラフィックデザインに近い、いわゆる六〇年代横尾テイストのポップな絵だった。しかし八一年の個展の作品は、明らかにニューペインティングの動向と歩調を合わせたものに見えた。それで美術業界でも話題となったわけである。
 アメリカのマッチョな有名モデル、リサ・ライオンのヌードを描いた八二年の連作など、あざといのか天然なのか判断不能なほど、どこから見てもゲンダイビジュツしていた。イラストレーターがアーティスト気取りかよという揶揄の視線もないではなかったが、その後横尾は目まぐるしくスタイルを変えながら旺盛な作家活動を展開していき、今では押しも押されもせぬアーティストの位置を確保している。
 イラストレーターやグラフィック・デザイナーの仕事の基本は、クライアントの求めに応じることだ。本人のカラーがはっきりしていればいるほど、期待されるものも決まってくる。でも、ピカソは自由に好き勝手にやってるな。自分も自由に好き勝手に絵を描きたいな。「ピカソに感動」とはそういうことだったのであろう。
 横尾忠則は作品を見ても文章を読んでも、素朴で直感的な人という印象を受ける。日比野克彦もタイプは違うがそうだろう。そういう人がデザイン方面からアートの方に来てアーティストになり注目されたというのは、非常に八〇年代的な現象であった。
 論理的なものから感覚的なものへ。思想へのこだわりから趣味へのこだわりへ。それは、別に美術に限らない八〇年代の特徴だったかもしれない。それと、「アーティスト」という横文字言葉の浸透が、平行して起こっていたのは大変興味深いことである。


『アーティスト症候群』(p.29〜31)


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9月末、下北沢でのラッセン本トークイベントの報告記事の終わりに書いたことを思い出した。

終了後、若いお客さんの一人から「現代アートでは「タブー」とされているようなこと(例えばラッセン)って、その外の世界ではそうではない。ラッセン本鼎談で出ていたアートとイラストの区別など、自分の感覚では全然ない。なのでアートの世界で前提とされてきたことは、説明されないとわからない部分がたくさんある」という意見を頂いた。


ラッセン、ヤンキー、ニューエイジ(‥‥そしてアート) - Ohnoblog2


受け手にとって絵画とイラストの区別が問題ではなくなってきたということは、アートが、もともとデザインと根っこが同じであった近代以前のかたちに回帰していっている、ということも意味するのだろうか。わざわざその存在の基盤と根拠を、自問するようなものではなくなったと。
「アート」という名称さえ保持されていれば、中身が何だろうと誰もいちいち問題視しない。アートはそういうジャンルとなりつつあるように見える。
そういうものを、「ポストモダンなアート」と呼んだりするのだろうか。


けれどもアート、美術という概念が近代の産物なら、それはどこまでもモダンアートの変化形、”成れの果て”であって、少なくとも作り手はその「認識」を保持せざるを得ないのではないだろうか。なぜなら、すべてが多様性の名の下にフラットに共存し「美術とイラストを区別しない」ポストモダンにおいては、「アート」「美術」という特殊な領域画定も無意味になるはずだからだ。
領域画定不能な何かを「美術」ではなく「アート」と言うようになった? しかし一方で「アートであってイラストではない」という言い方は、まだ一定程度有効に機能している。


アートをイラストやデザインから分別し維持しているのは、作り手の「認識」以外にはない(「認識」はどのくらい作品に反映されるかで測られる)。それを外したら、「官」の学校・美術館制度と「民」のアート・マーケットによって分別・維持されているだけになる。そして、制度と市場こそモダンの産物だから、真の「ポストモダンなアート」を目指す場合、まずそこに背を向けるべきということも(理屈としては)言える。
当たり前のことだが、アートは”自明のカテゴリー”ではない。そこに関わる人が常に「問い」を保持していなければ、底が抜けたまま霧散してしまうようなものだと思う。(追記:これは別に、いわゆる「危機感」から発した言葉ではない。そういうものになっているのではないかという「認識」を書いたまで。)

*1:80年代の半ば当時、奈良美智氏はまだ名古屋にいて渡独する前だったが、ある飲み会の席でこんな会話があったのを覚えている。「多摩美が生んだスターは吉澤美香、名古屋芸大が生んだスターは吉本作治」(吉澤美香はポップなインスタレーションの作品から出発して注目を浴び、ドクメンタなど国際展に出品。吉本作治も早くから名古屋のコマーシャルギャラリーに見出され、アメリカで個展を開催し当時の活躍は華々しかった)と奈良さんが言うと、誰かが「愛知芸大が生んだスターは奈良美智、とか」と冗談ぽく返し、奈良さんが何と言ったか忘れたが、後年、先の二人を凌駕するかたちでその通りになった。