なぜ親の承諾が必要なのか?・・・二人だけでは結婚できない現状

先週は、結婚の約束をしているらしいカップルの男性が相手の親との初会食で学歴、収入について蔑まれ凹んだという増田の記事に同情が集まって、それに対し、結婚前提で相手の親に会うなら相手方のルールに則ってふるまうべきという激怒(激励?)記事が出てブクマを集め、それに対する賛否両論もいろいろ出て、結婚関連が大変に賑やかだった。


憲法24条に「婚姻は両性の合意のみに基づいて成立し」とあるように、成人であれば別に親の承諾を得なくとも、役所に結婚届を出すだけで結婚はできる。
だから結婚しようと決めたら、二人揃って「私たち結婚することにしましたんで、よろしくお願いします」という挨拶をすれば、双方の親への礼儀としてはそれで済むはずだ。そう言われれば親のほうも、「そうか。じゃ、まあ頑張りなさい」と言わざるを得ない。いい大人が自分の意思で決めたことを、いくら親だからって理由で反対したり文句つけたってしょうがない。


もちろんそういう形にもっていきたい場合、前もって自分の親に「こういう人と結婚しようと思っている」旨の話をし、知り合ったきっかけ、およその交際経過、相手の年齢、職業、人柄、出身地、家族構成くらいは伝え、自分の決意は固いこともわからせた上で引き合わせる、くらいの根回しはしておいた方が軋轢が少ない。
それで引き合わせてもし親の反応が芳しくなくても、それは仕方がない。こっちの意志は既に決まっているし、結婚するのは親じゃないのだから。親との良好な関係を選ぶか相手との関係継続を選ぶかで迷うなら、結婚しない方がいいが、親の意向のために結婚を諦めるのは馬鹿げた選択だ。
あくまで相手の親の了解を取り、「親、親戚、仕事関係の人全員集めて式と披露宴を挙げるという承認の場を作っとかないと、自分の社会的立場が‥‥」という人もいるのかもしれないが、今時仰々しい儀式をしなかったからと言って、仕事を干されるというのも考えにくい。地味婚しましたと言っておけばいいんじゃないかと思う。
親の了解を取り付けない結婚を「駆け落ち」と言うのも、なんだかおかしい。家制度にがんじがらめの時代ならいざ知らず、現在は当事者同士の了解が結婚成立の必要十分条件なのだから、二人だけで結婚はできるのである。


‥‥‥そう思っていたが、一連の記事及びブックマークを見ていて、男性が女性の親に結婚のお伺いを立てて認めてもらうことは当然だという考えは、やっぱりある程度共有されているんだなあと思った。
つまり男性が女性方の親に、「結婚したいのですが、お許しを頂けますか」あるいは「お嬢さんを下さい」といったお願いをするのが常識。実際にはそんな言葉を使わなくても、相手の親との初顔合わせが、そういう「お伺いを立て、お願いし、お許しを乞う」場面として捉えられており、それをきちんとこなして初めて結婚に漕ぎ着けると。


「お伺いを立て、お願いし、お許しを乞」わねばならなかったのは、家父長制バリバリの時代である。戦前の日本では家長の合意がなければ結婚は法的に認められなかった。それで身分の合わない二人の「駆け落ち話」が話題を呼んだり、物語になったりした。
娘は父親のものであり家のもの。結婚するということは、男が別の男からその家の女を「頂戴する」ことだった。父親にしてみれば、自分のものであった娘を他人に譲渡すること。娘の家の方が階層が低ければ「もらってくれてありがとう」。その代わりにこの争いは手打ちにするとか、いざと言う時は手を結ぶ。そうした家同士の利害関係の上に、結婚があった。
文化人類学者レヴィ=ストロースの発見したところでは、そもそもあらゆる共同体において、女は、物や情報と同じく「交換財」の一つだった。女は子どもを産むことで労働力を再生産し家を繁栄させるから、男にとって重要な「財」であり、別の共同体への「贈り物」となる。


基本的人権が法に明記され、成人ならば当事者間の意志統一ひとつで結婚できるようになっても、男は別の男からその家の女を「頂戴する」べく、「お伺いを立て、お願いし、お許しを乞う」ている。いや本人はそんなふうには思っていないのかもしれないけど、そういう段取りを踏まないことには、なんとなく先に進めない感じになっている。
近代精神よりそれ以前の慣習のほうが根強いのか。結婚制度は家父長制を温存しているのか。それらもあるだろうが、直接的にはもっと現実的な問題が関わっているのだろうと思う。


つまり、親に承認されての(できれば気に入られての)結婚は物心ともに援助が見込めるのでメリットがあり、そうでない結婚は見込めないのでリスキー。結婚したい当事者に多かれ少なかれその認識があるから、親の承諾は必須になるのだ。
親にある程度の経済的余裕があれば、住宅資金などの援助をすることはあるだろうし、子どもが産まれたら、女性側の母親の手助け(子どもを預けるとか、母に育児を手伝ってもらうとか)を当てにすることはあるだろう。おじいちゃんおばあちゃんから孫へのプレゼントや入学祝いなども、細かく加算していくとその金額はバカにできないものになろう。この記事の追記2でも、親のサポートは絶大な力があるようだと書かれている。二人の意思だけで親を無視して結婚を強行すると、それが得られなくなる可能性が高い。


基本的には、父親は結婚した息子に対し「世帯主になったんだから人並みに苦労しろ」という態度をとる(自分がそうだったから息子にもそれを期待)ことが多いとは思う。息子も親に甘えていては情けないという構え。男同士だからそういうところで互いに意地があったりする。
しかし娘の親というのは、相手の経済力が高くないと「嫁に出した娘の苦労」を案じるものであり、娘の方も自分が経済的に自立しておらず精神的にも親離れできていなかった場合は、親を当てにしがちになる。特に娘と母親の関係が緊密だった場合、なにかと実家を頼りにするだろう。
結果的に男性側の親に「嫁の親が金の援助しているのは気にいらん」と思われても、男性が相手の親に頭が上がらなくなったりしても、経済的にメリットがあると思えば、プライドを捨てて実を取ることになる。


親の一切の援助なしに、自力で家族の住むところを獲得し、自力で子育てできるのは、かなり経済力の高い人だけである。昔なら二世代、三世代同居が当たり前だったから、そういう問題は自然と解消されて前景化しなかった。が、核家族化が進行し、経済成長神話が崩れ、雇用が流動化している現在、物心ともに親の援助を受けられるのと受けられないのとでは、大きな差が出てくる。若くて収入の少ないカップルであればあるほど、そうなる。結婚が、親からの経済的精神的自立の証とは必ずしもならないのである。
平成17年第13回出生動向基本調査第二報告書によれば、結婚の障害の第一位は男女ともに「結婚資金」(男性34%、女性28%)、第二位が「職業や仕事上の問題」(男性22%、女性23%)、第三位は男性が「結婚のための住居」(18%)で、女性は「親の承諾」(17%‥‥多くは相手の経済力を問題視されるのだろう)。結婚に際して、金の問題がどれだけ男の肩に重くのしかかっているかということだ。


だから、結婚しても生活レベルを落とさず子どもを産みたいと思っている女性は、多くの場合親の承認(=物心両面の援助)なしの結婚など、考えにくいだろう。それが将来自分と自分の子どもにも跳ね返ってくると思えば、真剣にならざるを得ないだろう。増田の彼女がそこまで考えていたかどうかは不明だが。
「婚活」の先には就活と同じく試験がある。試験をパス(結婚したい相手が見つかる)しても最終面接がある。面接官は女性の親。増田はそこではねられた。
出産と育児に関して十全な社会的バックアップ体制が整っており、しかもここまで教育費にお金がかからなければ、男性が相手の親を前に極度の緊張に襲われたり卑屈になったりすることもないだろうし、親だってもう少しニュートラルな対応ができるのではないだろうか。
結局、金の問題は男に、育児は女に加重がかかり過ぎているのだ。国家は国民という資源で構成されているのだから、結婚して(あるいは事実婚や未婚でも)子どもを作り育てることくらい、そんなに悲壮な覚悟も高いハードルもなく、したい人が普通にできるようでなければおかしい。