玖足手帖-アニメブログ-

富野由悠季監督、出崎統監督、ガンダム作品を中心に、アニメ感想を書くブログです。

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輪るピングドラム 第14話「嘘つき姫」の「お芝居」の快感!徹底分析

脚本:幾原邦彦・伊神貴世、絵コンテ:幾原邦彦・山崎みつえ、演出:山崎みつえ
作画監督:石井久美・中村深雪
というわけで、助監督でもある山崎みつえさんの「ミュージカル特性」が色んな意味で出た回でしたね。
輪るピングドラムでミュージカルをやることを何故予想できたのか 山崎みつえの存在 - karimikarimi


それと、もちろん、連盟絵コンテの幾原邦彦監督が寺山修司の天井桟敷を愛好していたり、少女革命ウテナで演劇的な手法を用いたりなど、劇場型の志向を持っています。
Q・演劇性とは何か?
 A・ここでは「枠組み」と「動線」とします

演劇とは基本的に
     ┌-−−−−−−−┐
     |         |
下手袖 →A→  ←B→ ←C 上手袖
     └┐ ┌--−−−−┘
      |花| ↑ ↑ ↑
      |道| 客 客 客


という風に、舞台と観客席を仕切る枠組みと、舞台上の役者の出入りの動線で構成されている。
役者の動きは基本的に舞台の左右の移動であり、前後の移動は成されない。前後は移動と言うよりも、人物の位置関係の整理として使われる。舞台で前後の移動を行う場合は舞台を階段状にして、上下の移動と言う風に演出する事が多い。だが、演劇で上下の移動を行うのは、劇場の物理的な高さの制約などもあるし、観客も見難いし、演出としても印象が強すぎるので、基本的には左右の移動です。
(実は私も大学時代に京都の学生劇団でヨーロッパ企画などを見ていたのですよ)
あと、関西の劇団だと宝塚歌劇団以外にも、吉本新喜劇がスタンダードですね。吉本新喜劇のTVをみた方は多いと思いますが、あの舞台は基本的に下手側の出入り口から登場人物が登場して、中央で芝居をするという事が多いです。(上手側の袖は既に劇中に登場して居る人が控えている奥の間、と言う風に表現されることが多いです。これは歌舞伎の影響もあるかもしれません)
ドラマティックに登場する人は下手から上手と言う方向性が日本の演劇には在るようです。
西洋の演劇はそれほど深く語るほど見ていません。


それは映像作品でも同じで、やはり画面と視聴者は分離されている。
大人気を泊した3D映画のアバターも「前後に移動する」と言うよりは「奥ゆき」を表現するために3D効果を使った事が評価されたらしい。劇としては前後の移動よりも左右移動と言うのが演劇的表現です。
(逆に、ゲームなんかだと前後移動のシューティングゲームやアクションゲームが映像作品としてあるが、それは主観画像だからであろう。スター・ウォーズEp4のデス・スターへ侵入するXファイターもルーク・スカイウォーカーの主観画像としての側面が大きい)
人間の眼の構造が、鑑賞する場合、前後に重なり合ったり、上下に積み上がるより、左右に展開した方が見やすいのかもしれない。
コンサートやスポーツを鑑賞する場合は、演劇のように一方から鑑賞すると言うのではなく、舞台を周囲から囲んで鑑賞しますね。そこら辺も、物語の鑑賞と、体験体感とのスタンスの違い。


とりあえず、「前後」=「体感」=「主観」が前後の動きで、「左右」=「鑑賞」=「客観」=「複数の事物のを観察」する、と言うのが演劇や映画のの構成の基本なのかも。
ズームイン・ズームアウトで前後手前奥の表現をする事もある。映画ではハンディカム等を使えるし、アニメはもっと自由に視点を設定できるので、舞台的な感覚で作ることだけが映像と言うわけでもない。


では、なぜ動きの中で左右を演劇的な要素として取り上げるのかと言うと、まあ、結局つまりは最近マイブームの映像の原則の話なんですけど。

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)

映像の原則 改訂版 (キネマ旬報ムック)


引用元:落ちるアクシズ、右から見るか?左から見るか?<『逆襲のシャア』にみる『映像の原則』>
(このハイランド・ビューさんの画像は非常にわかりやすく、便利なのである)

で、だ。
ここまで前置きが長かったが、今回の輪るピングドラムは「演劇的」でしたねー。って言う話。
オープニングの前で時籠ゆりが演じる「Mの悲劇」の舞台劇から始まって演劇的な雰囲気を作り、
今回の物語のロケーションが、
ホテルのベッドルーム、


車、道路、

路上、


病室、



プール、


地下鉄、


風呂、



ふすまで仕切られた旅館の一室


という、ある種、直線で区切られたような、「枠組み」の中で進行する感じがあった。輪るピングドラムのこれまでの話でも、演劇的な舞台設定は行われていたとは思うが、今回は殊にそれを感じた。何で今回それを感じることができたのかと言うと、慣れもあるが、今回はシーンごとに二人同士の対話と言うのが多かったし、場面転換が舞台的にかっちりと分離しているので、分かりやすかったのだ。
今までの幾原コンテはもっと流動的にシーンが転変して行ったので、シーンごとに分析、分離解析するのが難しかったのだ。


それに今回はタイトルが「嘘つき姫」というのも、またプリンセスたちのお芝居って感じ。



そういうわけで、特徴的なプリンセスの芝居を記す。(ちょっと、ブログによるコメンタリーって感じで)

華やかな公演の後のホテルの一室でのラブシーン。公演のお芝居がオープニングテーマの前にあったので、今回のお話が全体的に舞台劇っぽい雰囲気と暗示されてからのスタートとなります。



ここで、ゆりに恋人関係に飽きられて棄てられる翼が下手側に追いやられてゆりに負けているのが映像の原則。
映像の原則は人物の強弱を整理するのに便利。


で、そのまま二人が別れた勢いで、ゆりは上手から下手へ、流れるように赤い車が勢いよく走り、ゆりの強さを表現します。
「私はスター。誰も私に触れられない」と、強い事を言う。上手から下手への移動は自然で強い。
そのまま直線的な強さかと思うが、車が蛇行し、この東京タワーが上手から下手に流れる。

   ←
つまりゆりが下手から上手へ→に逆行していると言う事が画面の外で示されている。

「私は過去を捨てたの!」と言う時に→への逆行である。つまり、このゆりの台詞は「心理的に無理をしている」という表現なわけ。構図もさりげなくタワーが斜めってるし。(背景のビルは斜めになっていない事がポイント)
画面全体の繋がりとしては、上手上方から下手下方に自然に動く車の動きにつなげて、上手上方から下手下方に東京タワーが動いているので、同一性が保たれている。だが、ゆりの動きは画面の外で揺れているから、逆転しているのだ。
車のディテールを見せるようなアップの短いカットを連続させて、アップとCG作画の力で強引にイマジナリーラインを何度も越える。そこで

こういう風に左下から右上へ車が逆行しつつスリップするカットを入れて、ゆりの心理的な揺れを表現。



そして、この停止した車中で泣くゆりはまた上手から下手への車の方向性を持っている。

車の方向は←になってて、泣き崩れるゆりをパン・アップで画面内を上から下に動かすことで、ゆりが左下に自然に落ちていくように描いている。
つまり、右上に上昇志向を持つ「私は過去を捨てたの!」というゆりは心情的に無理をしていて、無理をしていない自然に落ちていくゆりの心は「会いたい・・・」という涙と言うわけ。


画面演出解析は理論ですが、こういう風に心情が読み取れたり感動が増幅されるのが面白い所ですね。


でも、画面で動いている物の方向性は車の短いカットインを除いて、ほぼ被写体が右上から左下に動くように見える繋ぎをしている。だから、部分的には揺れているが、全体としてはあっさり見れるという印象なのだ。
このようにトリッキーな絵コンテ繋ぎをすることで、「心情的には揺れ動いている」けど「画面全体としては統一されて流れている」という、流動的な、スムーズに進行しているが色々なことが起きているような、「あれよあれよ」といった感覚を表現している。
そういう流動的な感じが幾原邦彦監督の特徴かなーと、今気付いた。
赤い車とかねー。幾原監督の持ち味かなー。
おもしろいな。


繰り返すと、全体的には右から左への方向性が自然に保持されているから継続した安定感があるけど、部分的には画面の外や短いカットインやディテールアップシーンで、ゆりの動きがジグザグになっているので、どこか不安定な印象もある。
繋がっているけど、揺れているという感覚。

また、アニメは本当の舞台と違ってカメラマン=観客の視点が上下左右に動く事ができるので、「観察」と同時に「体感」っぽさもあっておもしろい。
それが、「舞台的な平面性」と「主観的な流動性」のハイブリッド感が出て、お得なのです。
舞台的に左右に展開して、登場人物の立ち位置が動く物語を客観的に鑑賞しつつ、それを見る視点や舞台の枠組み自体が自由に動いて、アップになったり斜めになったり、カメラが移動したりする所に映像作品の面白さがあるわけです。
こういう主観と客観のハイブリッド感の塩梅はアニメや実写でも演出家によって配分が違いますので、いろいろです。


  • 第2幕 晶馬と苹果の路上劇


あなたはこの絵を見てどのように感じますか?
そう、「苹果ちゃんかわいい」ですね。
何故、ストーカーの脳みそドぐされゲロ豚ビッチ娘の荻野目苹果が可愛く見えるのかと言うと、映像の原則によると画面右側にいて、マンガ的に見なれた感じの左向き45度の可愛い角度でこちらを見てくれているのが可愛い。かわいいと言う事も論理的に計画して描かれているのが、アニメと言う事だ!ああ、可愛いな!
また、苹果ちゃんは体の左側をこちらに向けています。動物の本能的に言うと、苹果ちゃんは心臓を画面側に向けている事になります。つまり、「苹果ちゃんは心臓を向けてもいいと思えるくらい画面のこちら側に好きな人がいるので、好意を向けている」という暗示になります。
画面左側に無機的な記号的な人の群れが居る事も、苹果ちゃんの可愛さを引き立たせるというわけ!
このように、今回の苹果は登場した時から、なんかエロかわいいです。これ、今回の後半でも重要になります。つまり、苹果はエロい。あと、動物的。


で、そんなかわいい苹果ちゃんが何を見ているのかと言うと

晶馬です。これは苹果が晶馬を見ている主観画像です。晶馬は画面中央のニュートラルな印象の位置に居るので、この時は「苹果が晶馬を見つけた」という程度の意味合いしかありません。むしろ晶馬自体は浮かない表情です。
でも、苹果は笑顔で晶馬君に話しかけます。
っていうか、苹果は前回のラストで運命日記を無くして、多蕗に対してきれいに失恋したのに、今回はいきなり晶馬にデレてます。こいつ、肉食系です。「運命の出会い」の相手を速攻で乗り換えやがりました。ビッチ!!!!
前回、前々回と晶馬が苹果をかばって車にはねられたり、陽毬が倒れた時の混乱で過去を話しちゃったせいで「晶馬君は私に心を開いてくれてるんだわ!」「運命の出会いだわ!」「私は運命を信じてる!」と勝手に盛り上がってます。メールとかたくさん送ります。
明るい恋愛をするかと思ったら、やっぱり基本的に依存体質で猪突猛進でめんどくさいストーカーのメス猿というのは変わってません。それも苹果らしさだけども。めんどくせー。


で、苹果ちゃんの左側、舞台だと上手側から来た晶馬は「うわー、めんどくさい奴に過去をばらしちゃったなー」と言う感じで「もう放っておいてくれよ」とすれ違います。下手側に去ります。

このピクトグラムで構成された通行人が斜め上からの撮影でも、平面的になっているのが、舞台的な「平面」や「左右」の方向性を感じさせてくれますよね!
でも、構図は斜めですね!
この斜めの感じについては、
輪るピングドラム14話〜ナナメの美学〜 - まっつねのアニメとか作画とか
↑に詳しい。
まっつねさんはもっとピンドラの記事を書けばいいのに・・・。仕事があるからかなー。
斜めってるし、平面的なピクトグラムの人々が俯瞰の感覚の補助線になって、苹果への圧力感を醸し出します。

で、晶馬は下手側に去っていきます。下手側に去っていくのは画面の移動として、非常に自然的で逆らえない感じがします。映像の原則に書いてあった。
晶馬が去って小さくなっていく背中を苹果が見つめて泣きます。ど真ん中構図で離れていくのは、寂しい感じですね。

そして、こんな風に無機的な人達の中でポツンと取り残されて生々しく泣いている苹果ちゃんはとても可哀そうで、動物的でかわいくて、肉感的だと感じますね。視聴者は苹果ちゃんへの情欲を萌えさせますね。苹果が肉感的なのは後半への伏線です。
あと、このシーンでは基本的に苹果が画面右に居ることが多く、晶馬は左側か画面中央に描かれているかオフ台詞(喋っているけど、画面に晶馬が映っていない)ので、視聴者は自然と苹果の方に肩入れするように思えます。苹果がかわいそうだなー、可愛いなーって思う。思いやすい絵作り。
でも、晶馬目線で考えたら、「この女たちや社会はめんどくさいし、強圧的に取り巻いてる」という印象の芝居でもある。


■晶馬視点
もうひとつ、このシーンで重要なのは、晶馬から見たカットでも人混みが無機的で、圧迫感のある感じだと言う事です。真横構図で通り過ぎる人々とか。これは晶馬が「世の中の人はみんな僕らがダメになるまで監視するものだ」「優しくない」「関わりたくない」と感じているように、晶馬の台詞に被せています。
苹果の主観画像だと「灰色の人ごみの中で晶馬君には色がある」と見つけた感じだけど、晶馬の主観だと「全員灰色の存在」と言う風になっているのが面白い所。晶馬にとっては運命日記のピングドラムを失った苹果は社会の一員なので、「加害者の両親を持つ自分に償いを要求する理不尽な存在」と見なしているのです。苹果が一個人の苹果として「そばに居たい」と言っても「どうやって償えばいいって言うんだよ」「もう関わらない方がいい」と自己完結します。むしろ、苹果が16年前の事件の被害者だと知ったので、一個人の苹果と言うより「被害者遺族」に対する言葉を言って済ませるようでもある。
というか、陽毬が倒れた時に「メリーさんの話」を突然始めたり、最近の晶馬はどこか自己完結する所がある。むしろ、1話でプリンセスオブザクリスタルや苹果と出会う前までは高倉家の中だけで完結していたのかなー。
苹果が桃果になりたがるのを辞めて、一個人の苹果として晶馬に向き合おうとしたら、晶馬の方が「被害者」=桃果に、苹果を同一視しちゃってるスレ違いがドラマチック。



■地雷について
あとねー、晶馬がこの会話のなかで決定的にキレたポイントは苹果が「あたし、陽毬ちゃんの事も大好きだし!」って晶馬の背中に声を投げかけた所。
それで晶馬は「表面的な言葉で傷つけあうのはやめよう!」とキレます。晶馬はシスコンなので陽毬の話題が地雷です。8話で苹果が「陽毬ちゃんを見ていたらわかるわよ。あなたたち、上辺だけの家族を取り繕ってるだけ」って言った時も晶馬はキレましたね。妹の話題は地雷。
っていうか、苹果も「上辺だけの家族を取り繕ってるだけ」と言った相手に「陽毬ちゃんの事も大好き」とか言うのはアホっぽいなー。苹果は人の感情を読み取る能力がある女だけど、その時の自分の感情で発言する女だなー。女らしいなー。


晶馬の出番は今回、これだけですが、彼が重度のシスコンで自己完結している野郎だと言う事はよくわかりましたね!
シスコンは本当にどうしようもないですね!


で、晶馬が去ったのを見ながら苹果はファッション雑誌を取り出して見て


「うわー!ブリっ子はダメだったー!あたしの馬鹿ー」と反省して、画面下手側に小さくなって落ちていきます。
シーン全体の映像の繋がりとしては、右側に機嫌良く居た苹果が、右側から左側に歩いていく晶馬と中央で会話して失敗して、左側に落ちて小さくなるという感覚のシーンです。画面手前の右側にはゆりの映った広告がある雑誌が落ちています。


そこに
苹果

     ゆり

というポジションが同じだけど、苹果の向きが変わる=イマジナリーラインを超えて、ゆりが来ます。
イマジナリーラインをリセットするためにまた赤い車がアップでカットインします。紅い車大活躍です。
トリッキーな繋ぎ方が面白いですね。
そして、苹果は連れて行かれます。

  • 高倉冠葉と渡瀬眞悧の会話劇。

これも今回の山場の一つ。

上手の下側に眞悧が居て、下手の上側に冠葉が立っていて、背景には陽毬のレントゲン、と言う舞台的な背景です。
上手下手では眞悧有利、上下では冠葉が有利、という構図。対決姿勢ですね。会話の内容も眞悧が「陽毬を救う薬をあげるには、冠葉が持ってきた金額では足りない」と言う、交渉の対決シーンです。ペンギンやウサギを映したり、イメージ画像や置物のクローズアップでオフセリフの芝居の応酬が続きます。
(というか、前の担当の鷲塚医師はどこに行ったんでしょうね?輪るジャイロスコープの置物はそのままだが)
だけど、

「陽毬を助けるためだ」
って言って、冠葉がアップになって上手へ押しきります。やっぱり冠葉もシスコンなので、陽毬の話題になるとパワーが出ます。

そうすると、ほら、カメラの位置関係が逆転した。つまり、眞悧が冠葉の熱意に免じて譲歩してやったと言う事が暗示されている。

その後でもこういう冠葉のアップに対する逆ポジションのアップで、眞悧が冠葉に俯瞰気味の顔で声をかけているので、やっぱり眞悧の優位性もあります。眞悧が冠葉をもてあそんでいるような印象もありますね。会話の内容も「相場が変わったから、この金額では薬は売れない」「命が助かる子供は相場で変わる」「あと2,3回このアンプルを使えば妹さんは家に帰れるくらいはできるかな」と、もてあそんでいる感じです。眞悧は本当にうさん臭くて酷い奴だ。あと、冠葉は本当にシスコン。

  • 陽毬とダブルHの対決

そんな風に双子の兄に溺愛されている妹の陽毬はと言うと、

とてもかわいい真中構図、チョイ上手寄りと言うかわいい表情で友達のダブルHにあげる手編みのマフラーを編んでいました。この子もレズ?10話で冠葉にあげるかと思われた編み物は、女の子同士のプレゼントでした。シスコン爆死したな。

完成して光ります。かわいいよー!
で、ダブルHの乗った雑誌が下手側にあるので、それを見て、ヒカリちゃんとヒバリちゃんは喜んでくれるかな?
と言います。下手側にダブルHが載った雑誌があって、上っ面の笑顔で陽毬を見ているようなのが、なんだか不穏ですね。


で、そういう下手側からの悲しみを感じて、陽毬は「やっぱり私のプレゼントなんてよろこんでくれないよね・・・」と、顔を曇らせます。かわいそうですね。

  • 陽毬に接近する眞悧

夏芽真砂子との会話シーンを挟んでからのー、眞悧と陽毬の会話。ニュートラルに病院の遠景のカットを挿入してからのー、

眞悧の主観で陽毬を見てるカット。陽毬ちゃんは下手側からのダブルHから(映像の演出的な意味で)顔をそむけて向こうを向いて不貞寝です。

そこで上手から眞悧がインします。自然に、そして優位性を持っての登場です。ここら辺の「舞台っぽい横からの構図」と「主観画像」の切り替えが、舞台っぽさとアニメっぽさの融合で面白いですね。

陽毬は髪の毛しか映っていなくて印象が薄いので、眞悧が自然に上手側のポジションをキープしているようなカット割りでイマジナリーライン越えもやります。
また、眞悧が入ってくる時の画像の視点がペンギン帽子の主観と言う事も考えられます。つまり、眞悧は観客に背を向けている?あるいはペンギン帽子と眞悧が同一化している?映像的には眞悧の胡散臭さがいろんな方向で暗示されますね。

陽毬が捨てたマフラーを眞悧が巻いて、クルッとまわってまたイマジナリーライン越え?ペンギン帽子に見せている?
ファッションショーみたいですね!さすがです!って感じ?

そこで、陽毬も顔をあげます。お姫様は王子様に宝物を取られて、下手から見上げるように、心情が変化します。可愛いですね!
っていうか、シスターコンプレックスの兄二人が陽毬の事ばかり考えているのに、陽毬は自分の編んだマフラーを気にしています。妹のエゴイスティックな所が可愛いです。

陽毬の分身であるペンギン3号は下手下から上手上に見上げるような構図を引き継ぐけど、背中を向けています。まだ不貞腐れていて心が開いていない感じもして、乙女心は複雑です。物を捨てる本を陽毬の方に置いたりもします。
あと、陽毬のするべきマフラーは高貴な色の紫色です。聖徳太子が紫が一番偉いってゆっとるよってノケモノと花嫁に書いてありましたね。

ほんと、この妹は自己中心的です。でも良いんです。兄はそう言う妹を溺愛しているのです。妹は女王様なのです!!!

  • 真砂子のカッコカワイイ宣言!

嫌だわ、早くすりつぶさないと。

センター構図で王冠のような夏芽家の家紋を頂くように映る夏芽真砂子です。この女も女王の風格です。髪型とか、縦ロール髪だし「エースをねらえ!」のお蝶夫人や「おにいさまへ・・・」の宮様です。この構図も舞台っぽく水平の構図を強調してるなあ。
眞悧からの電話を聞いて「日記の半分をその女が持っているという情報は確かでしょうね?」と、格好良く、強い意志を持った姿勢でプールに飛び込み、


キリッ!とセンターを上昇する競泳水着。巨乳だ。痺れるだろう?

「ええ、ぞくぞくするわ!」と色んな視点から映されます。カッコイイ!
「雌狐狩りの時間よ!」


時籠ゆりを狩りに行く前に、愛しの高倉冠葉がKIGAグループと裏取引している現場に踏み込みます。

シャキーン!「行くわよ!エスメラルダ!

嫌だわーッ!

早くすりつぶさなきゃぁああ!」
下手側から颯爽と走り、上昇志向全開で疾走して、カメラの前にドアップ!アップになってカメラの前を横切って、電車の進行方向のイマジナリーラインをキャンセルして、

上手側の最強の位置からの紅い弾丸の射撃で黒服の男たちをなぎ倒す!カッコイイ!
(ここで、下手の下の位置の弱い所に居るはずの冠葉が映らないで、黒服だけを映してやっつけるのが、真砂子の可愛さです。カワイイ!)


上のゆりのシーン、晶馬のシーン、冠葉のシーン、陽毬のシーンで、イマジナリーラインが変わる時は、その人が愛するものに関わる時だと暗示された。冠葉が好きだから力が出るし、上手にも移動できるのよ!

シャキーン!愛する冠葉に「この私がすり潰してあげる!」カッコイイ!

「あなたは崖っぷちにいるペンギンよ。このままじゃ突き落とされるわ」と、上から目線で愛する人に忠告する。カワイイ!
キンタマ潰す!

でも、蹴られて転ぶ。10話とか11話とか、冠葉に対して圧倒的優位を誇っていた真砂子ですが、あっさりやられる。全体的に今回は水平垂直構図の舞台っぽさが強調されていたから、ここで画面全体が斜めになって真砂子が突き落とされるように転ぶのがドラマチックに移りますね!
君と僕。第02話 決めの演出が素晴らしい 直線とナナメの緩急 - karimikarimi



簡単に攻守逆転!なぜか!
「あなたはあの女を愛している!そう、どうしようもないくらいにね!」
どうやら、冠葉がシスコンだからシスコンパワーアップで真砂子を足払いできるパワーを得たようです。弟の晶馬がつかまっていた10話では映像的にも完璧に真砂子に負けていたのにな・・・。
輪るピングドラム第10話 だって好きだから輪る映像の原則を解析する - 玖足手帖-アニメ&創作-
やっぱり妹を守る時の方がパワーが出るのか・・・。
倒れて「あんな小娘のどこがいいの!」と言う真砂子に「俺は大切な家族を守りたいだけだ・・・!」と冠葉が上から目線で言い放ちます。カッコイイ!シスコン!
真砂子カワイソウ!っていうか16歳の女子高生が13歳の妹を「あんな小娘」呼ばわりです!真砂子は大人っぽいなー。お蝶夫人とか宮様だなー。
っていうか、兄妹とかそういう事はスルーして、女同士として対等に張り合ってるのか・・・。
「わたくしはわたくしのやり方で、幸せをつかむから」

そして、真砂子は立ち上がり、またセンターポジションになって下手側の車両に帰っていく。下手側に去るけど、また中央ポジションだから、へこたれてない!走行中の列車で隣の車両に行くだけで別れられるわけではないような気もするが、舞台演劇として考えると、これで退場だと言う事だ!
颯爽たる退場!

「マリオさんもわたくしが救ってみせる」
そして、そのマリオさんへのブラコン愛に押されたのか、冠葉もいつの間にか下手に映っている。(カメラが振りかえっただけなので立ち位置としては自然なのだが)
こういう風に力関係が見える、せめぎあいが見えるアニメはゾクゾクしますね!
真砂子のカッコカワイイ宣言!男に腕力で負けちゃうけど、精神的には負けてないぞー。
ていうかシスコンとブラコンである。
それと、真砂子が冠葉も手に入れて、マリオも助けると意志を表明するが、ピングドラムで助かるのはマリオと陽毬のどちらかだけなのか?それとも両方とも助かるのか?そこは明示されてませんね。

  • ゆり苹果のガチ百合、始まるよーッ!

で、ゆりに拉致された苹果ですが。
CM明けから

赤い車でまずは上手からスムーズにイン。
だけど、苹果はウジウジと悩んでいるから、苹果のオフセリフに被せて雲のない空の遠景を挟んで、


このように下手に居て上手へ向かって、しかも後ろ向きと言う、ウジウジしている、が、なんとか悩みを打開しようともがいている感じの構図になる。このシーンの方向性は→だ。
苹果に対して、ゆりが人生相談に乗ってあげる感じの構図。だから、右ハンドルの車だけど、


時籠ゆりが荻野目苹果から見て上手の安心できる位置にいる、好意的な角度で映っていると言う風に二人を分けている。ゆりが苹果から見て下手に居てはいけないのだ。

でも、ゆりが初恋について語る時は、ゆりのオフセリフに合わせて→に車が動いているので、最初の方の東京タワーのカットのように、ゆりの葛藤も「ゆり自身を映さずに」暗示されてる。
ゆりは基本的には「苹果から見て頼れるお姉さん」という感じに映っているが、ゆりも何かを抱えているぞ、と言う。

そして、前半と同じ動きで、気持ちを切り替えるかのようにギアをチェンジ!この動きの繰り返しが演出っぽい。

下手から上手に向かっている車だが、苹果の台詞に被せて後ろ向きだった車が、ゆりの台詞に合わせて前向きになって、「女同士でファビュラスマックスするのが一番なのよ!」と。ここでも舞台的な左右の演出を強調している。そして、車の動きも斜め下から、水平右向きを経て、斜め上向きに変わっている。

細田守こと橋本カツヨも

「縦位置と横位置の徹底」という演出スタイルが特徴的に語られることが多いが、

ここぞという時はきっちり「ナナメ」を使ってくる。


輪るピングドラム14話〜ナナメの美学〜 - まっつねのアニメとか作画とか

この時点ではゆりが「頼れるお姉さんとして苹果を励まして上向きにしている」という流れだが・・・。
っていうか、「あんな女が多蕗さんと一緒に居るのがおかしいのよ!」とまで苹果はゆりを評したのに、苹果はゆりにいきなり心を許します。恋をしているから!苹果はその時の感情で生きてる女だなー。


そして、ゆりも多蕗と桃果の幼馴染で、苹果は桃果の思い出話を聞かされて、ますます心を許す。


温泉シーンでもゆりが苹果に対して上手に位置するように見えるようなカット割りとカメラワークとレイアウトでガンガンいい人アピールします。「桃果は私にとっても特別な人だった・・・」とか言いつつ「苹果ちゃんも素敵よ」とか言って苹果を言い気にさせます。苹果は運命とか桃果の思い出とかを重要視してる子だから、もう、デレデレです。かわいい妹になった気分で仲良しです。3話では苹果はゆりを「泥棒猫」とまで評したのに。こいつは浮き沈みや他人の評価の変化が激しい。基本的に境界性人格障害的ですね。めんどくさい女です。


で、温泉の卓球場を静かに映してカメラの横と縦の移動で落ち着けて、二人のオフセリフの会話のやりとりでゆりと多蕗の関係などを明かして、また仲良しになっていきつつー



この斜め構図の決定打!
「私達、運命の輪で繋がれているの!」

これが今回のハイライトなんじゃないかなー。ピングドラムのキーワードの「運命」をぶつけてきて、一気にゆりのパワーが増大している場面なんだよ!!!


斜め構図で、短いけど止め絵で、しかも直前と直後に短くピンポン玉が右から左に←と飛ぶカットを入れて、自然感を醸し出しつつ、ゆりが苹果に→の不穏な圧力をかける!
位置関係としてもゆりが苹果の上手の位置をキープしつつ、スマッシュのボールが上手にあることで下手下側から突き上げる動きがあるように見える、非常にトリッキーな構図!

物理的な動きの動画としてはこんな感じで、苹果とピンポン玉だけがスライド移動していて、髪と裾が揺れて、球が回っている。

ただ、レイアウトとして見ると、こうなる。
ゆりをY,苹果をM.ボールをB.とする。(苹果はRというよりMな印象w)
fは力で、赤がゆりの力で、黄緑が苹果の力。ピンクがボールの力。
f.YtoMは、ゆりから苹果を見ている目線の力、
f.YtoBは、ゆりの眼とボールを結んだ線から導かれる力、
f.BG1とf.BG2はバックグラウンドの背景の障子の格子と、天井の板が集中線のようになってゆりから発散される場の雰囲気の力。
で、ゆりからの総合力はこれらの合力だから、f.(YtoB+BG1+BG2+YtoM)=1
となる。

各力の正確な値は曖昧なのだが、だいたい、ゆりからは左下から右上へ上昇する力が感じられるかと思う。しかも、奥から手前に迫ってくるようなダイナミックな感覚もある。


黄緑の苹果の力は
f.maが苹果が横にスライドする力、fmbが苹果の両目を結んだ視線の力。
総合力はf.M=2
となって、左上から右下に落ちて行くように、あるいは横に滑るように見える。
また、苹果はゆりを見ずにボールを見ているのに、苹果の視線のfmbがゆりの視線のf.YtoMとぶつかり合っているように見えるのも、効果的だ。
苹果はゆりからの視線を意識していないが、ぶつかり合っていると言うのが非常に面白い。

ボールの動きは3だけど、下向きの放物線と回転なので、ボール自体の力は弱い。あくまで、ゆりの力の補助線となるために置かれている。

斜めの構図を、水平に変えて見ると、ゆりの力が上向きに苹果にぶつかっていると言うよりは横向きに抜けているように見えますでしょう?
ゆりが斜め構図で苹果を攻めている、斜め上の力の的確な演出が光りますね!!!


そこでゆりが卓球で演出的に圧倒的に勝ったので、



苹果を薬で眠らせて、優しいお姉さんの仮面を捨てたゆりが苹果を見下ろして上手から犯そうとするのは、お芝居の流れとして全くもって自然なことなのです。ゆりは攻め!!!!
斜め構図で見下ろす!




ただ、苹果が薬を盛られる時の




この縦にストーン、と落ちるようなカット繋ぎやコップのお茶の減り方や落ち方も、斜めの演出を盛り上げる効果的な縦の演出でファビュラスマックス!落ちた!完全に落ちたで!





文字通り舐めまわすように、カメラが苹果の体を、ゆりの主観のように見ます。そこでもゆりは常に上手の優位な場所から苹果を見ているように映しています。


ですが、

ここで、ゆりを客観的に見るセンター構図!
ゆりの力の源が「桃果の運命日記の後半」の力によるものだと、明かされるわけ!
つまり、ゆりは勝っているけど、それは「桃果の日記に記された運命」の力っていうわけ。桃果すごいですね!
死後も人々の運命を縛り続ける少女!
日記に記された事に従って行動した結果、ゆりはこの優位性を手に入れたのだ。って言う事は、苹果が中断したプロジェクトM?マタニティー大作戦?苹果は妊娠するのかな?



でも、ここまでの演出を見ると、次回は夏芽真砂子が時籠ゆりを「わたくしのやり方で」「雌狐狩り」するだろう。
そこでシスコンの力で冠葉が逆転するかもしれないし、晶馬が自己完結してキレるかもしれない。
今回でなかった多蕗圭樹が石田彰の力で「何が舞-HiMEだ。バカバカしい」となるかもしれないし、プリクリがなんかするかもしれない。



ただ、一発逆転イマジナリーライン越えを起こすのは「人を愛する時」。
これは、そういう物語。
愛は運命を凌駕するか否か?


生存戦略、しましょうか。

輪るピングドラム 1 [DVD]

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  • 追記 (幾原絵コンテについて)

幾原邦彦・山口みつえ絵コンテだったけど。
ゆりの車のシーンなどの細かいカットインや、冠葉や真砂子の強引なイマジナリーライン越えが目立つ感じだった。台詞や展開に細かく合わせて画面の方向性を色々と変えてきている。
輪るピングドラム第10話 だって好きだから輪る映像の原則を解析する - 玖足手帖-アニメ&創作-
十話の後藤圭二さんの絵コンテ分析をしたが、その時はもっとシーン全体に流れる画面の方向性があった。
今回はコンテはそれよりも細かく、流動的だった。舞台劇っぽさに斜めの構図が混ざっていたり、台詞に合わせて画面の方構成が変わったり強引なアップがあったりして、方向性がぐるぐると回っているような印象を受けた。
そういうのが、幾原監督の絵コンテ作りの流動感なのかな、と思った。
富野の映像の原則だけが映像作りじゃないよな。とも思った。いろんなタイプの演出家の個性があるのだ。
というか、少女革命ウテナを見てなかったので、幾原監督の絵コンテ作品をキチンと見るのは輪るピングドラムが初体験なのだ。セーラームーンや悪魔くんは子供として「かわいいなー」「たのしいなー」という風に見てたし、おたくになってから見るのはこれが初めてです。のだめカンタービレのオープニングとかはまたちょっと違うしな。
今回、ちょっとだけ幾原演出の「流動感」がかいま見れた気がします。方向性がきっちり見える絵コンテより、こういう風に台詞に合わせて細かく流動させる演出家は流れて見えちゃうので、今まで「すごいと思うけど良くわからない」という印象だったのだ。
今回は「舞台演劇っぽい枠組み」があったので、方向性が分かりやすく、流動的でトリッキーな幾原絵コンテを僕でも読み解きやすかったのかな。