正義が犠牲にしていいもの

東浩紀氏、上杉隆氏と距離を置き始めた? - Togetter
ここで指摘されているように、当初正義を達成するためには手段を選ばなくて良い的な主張があったけれども、やっぱりそれは正義ではなくてたかしちゃん自身のための政治なんだということがようやくわかったみたい。というよりは、もともと政治なのを正義といって誤魔化して(あるいは利用して)来ただけ。自分自身の主張にかみ合えば擁護するってだけ。
社会的にみて正しさなんてのは政治的にしか存在しない。社会とは政治そのものであるし、倫理とはただしさの多数決の結果でしかない。絶対的な正義なんてものが存在するとしたらすでに人類はそこにたどり着いているはず。もっとも、疑念の余地のない正義はある。たまに疑念を抱くと異端として糾弾されるそれ。それですら長い時間と共に変容している。
じゃあ正義はどこにあるのか。相対的な話としては、この社会における悪に相対するものとしてのみ存在しうる。
正義のヒーローが倫理的にまずい行動(街の破壊とか)を許容される(しかしメタ物語的な話では後で代償を払う)のは、倫理の基盤である社会の危機を合理的に救う手立てであるからだし、常に妥当性は問われる。正義は時としてその手法が悪に傾く(騙したり、殺したりする)けれども、それは合理性の観点から許されることがある。
では、正義の遂行として許されないことは何か。それは目的と手段の合理性を見失うこと。
あずまんがたかしちゃんを捨てたのは、合理的に思われていた手段の目的が正義の遂行ではなく自己実現に向けられていたことに(遅まきながらというか遅すぎだろというか反原発反メディアフィルタかかりすぎだろうというかルサンチマン的何かなのかよというか真っ先に逃げた自分の正当化乙というかではあるものの)気づいたからだよね。