議論の目的

ここ数日、実りのある議論だとか議論するのは意味なしだとかそんなタイトルが飛び交っている僕の観測範囲です。
でもさ、議論にはいろんな目的があって、それを一口に議論って片付けちゃうのも乱暴だよね。
答えはないけど判断を後悔しないためにする議論もあれば、結論は決まっててそれをはっきりと宣言するための議論もあれば、ロジックのただしさを検証するための議論もあれば、事実を広く啓蒙するための議論もある。
それぞれ、本来参加するべき人が参加しているのが良いのだけど、往々にして議論の参加者というのは合目的的でない集団になりがち。そういう状況に対して効率的な打開策を検討したらそりゃやらないほうがましって結論になるかもしれないけどそれはその時点で目的を見失った結果の結論だから欺瞞的だよね。

ウェブでの議論はたいてい、その目的がどこにあるかが明確に提示されないまま、あるいは目的そのものに相違がある集団同士が不幸な接触をみて、と言う感じでスタート地点からしてすでに不毛な先行きを示しちゃってることが大半。でも個人的には議論をしないよりもしたほうが良いと思う。たとえそれが為にする議論になっちゃったとしても、総体的にみて無意味だということは滅多にないと思う。いやらしい言い方かもしれないけど、スタンスが明らかになるだけでも十分意味がある。どうせ結論ありきどうしで議論したって平行線なんだからね。
議論は説得とは似てるけど異なる。自分の正しさを相手に認めさせるのは一つの目的ではあるけれど、それを目的としない議論だってあって良いのだと思う。

僕は、様々な議論を通して学んできたし、自分の過ちに気づいたり、自分の信念に確信を抱いたり、といろんなフィードバックを得てきた。そのことが常に正しさを担保するわけではないし、だからこそまた別の正しさを知ることができる余地はあると思う。
ただ、そう思えるのは僕が揺るぎない真実の枠を持っていないからゆえにロジックを信じているからかもしれない。自分の中の真実に生きる人のことを羨ましく思うことがある反面、その真実が誤りであった場合にそれが認められないことへの残念さもよく感じるのではある。

結論としては、保身が正しい価値観である人とロジカルな会話を試みるのは無駄である。うん、なんか飛躍しているけど、ここ何ヶ月かの体験談としていつか語る時があるかもしれない。