電脳塵芥

四方山雑記

阪神淡路大震災時の自衛隊派遣などに関するメモ

 1995年1月17日に発生した阪神淡路大震災に対して、自衛隊の出動が遅れたのは当時の総理であり村山富市(社会党)が可能な限り遅らせたからだという話があり、それに関するメモ的な時系列。そもそもこの「自衛隊が遅れた」は発生当初から存在した論調なものの自衛隊の正式な災害派遣には県側の要請が必要だったりしたわけで、それを村山富市が総理として県側の要請を待たずに自衛隊を派遣するというのは法に則していない超法規的措置になるし(非常時だったので超法規的措置をするべきだったという批判ならあり得る)、「遅らせた」が事実ならば県側の要請を可能な限り遅らせたということになる(どうやって?)。実際のところ村山富市が遅らせたという事実そのものはないのだけれど、ただ国民側が「自衛隊の到着が遅れた」という認識があったことだけは確かです。なので、当時の時系列を簡易的に記述していきます。

阪神淡路大震災における自衛隊派遣までの時系列
05 : 46 地震発生
05 : 49 NHK大阪管中で神戸震度6が伝えられる*1
05 : 51 NHK全中で地震情報を伝える
06 : 00 村山富市が公邸のテレビで地震を知る
06 : 06 気象庁が各所に「最大震度は京都、彦根の震度 5」と通報*2
    この情報に伴いNHKは「神戸震度6」情報を一度取り消し
06 : 15 気象庁から情報が入りNHKが「神戸震度6」と報じる
    日テレは6時21分、TBSは6時20分、フジは6時23分、テレビ朝日は6時27分
06 : 30 村山富市が政務担当秘書官に情報収集を指示
    陸自中部方面総監部(在伊丹市)が災害派遣出動準備(第 3種非常勤務態勢)を発令
06 : 42 伊丹市の陸自第36普通科連隊が要請を待たず独自判断で偵察隊派遣
06 : 44 NHKにおいて「火災が7か所で発生している」と具体的な神戸の被害情報がはじめて報道
    各局の被害情報初報は日テレ6時46分、TBSは6時26分、フジは6時44分、テレビ朝日は6時48分
    ※甚大な被害であると報道され始めたのは7時台以降と思われる
06 : 50 芦尾兵庫県副知事が登庁
07 : 00 村山富市が公邸で秘書官から地震についての報告を聞く
    芦尾副知事によって兵庫県が災害対策基本法第23条に基づく「県災害対策本部」を設置
    芦尾副知事が貝原知事(被災でこの時点では登庁できず)に被害状況が把握できてない旨を連絡
07 : 06 神戸における日の出時刻
07 : 14 八尾基地から隊長の独自判断で陸自・偵察ヘリが離陸
    ※出動要請がなかったため訓練名目
07 : 35 陸自第36普通科連隊が連隊長の独自判断で42人の隊員を「近傍災害派遣」として阪急伊丹駅へ出動
08 : 10 陸自第三特科連隊から災害対策本部事務局(消防交通安全課)へかけた電話が初めてつながる
    電話を受けた課長補佐は災害対策本部の設置、被害状況不明などを伝える*3
    ※この後、自衛隊から県側への電話がつながらなくなる
08 : 14 NHKがヘリコプターにより被災地をはじめて映す
    各局の空撮は日テレ8時57分、TBSは8時5分、フジは8時48分、テレビ朝日は8時20分
08 : 20 貝原俊民兵庫県知事が登庁*4
    陸自第36普通科連隊が独自判断で西宮市に206人派遣
08 : 26 村山富市が首相官邸へ
08 : 30 兵庫県が第 1回災害対策本部会議を開催し、自衛隊への災害派遣要請を不可欠と判断する
09 : 20 月例経済報告関係閣僚会議、地震のことは議題とならず
09 : 40 笹山神戸市長が貝原県知事に自衛隊派遣を検討するよう電話で要請
10 : 04 定例閣議開催、災害対策基本法にもとづきに兵庫県南部地震非常災害対策本部の設置決定
    全閣僚から成る地震対策関係閣僚会議の設置を決定
10 : 15 閣議中に警察庁から「死者74人」の報告が届く*5
    村山富市が具体的な死者数を聞いたのはこの時点だと思われる
    第三特科連隊から兵庫県側へ電話がつながる(これが2回目)
    自衛隊から電話を受けた防災係長と下記の様なやり取りが行われる

防災係長「状況は正確にはつかめないが、大災害がおこっている」
自衛隊「この連絡をもって、派遣要請があったことと認識してよいか」
防災係長「要請する」旨を回答

    防災係長が災害対策本部室において知事に報告し、陸上自衛隊の災害派遣が事後了承される
    自衛隊側の担当者が災害派遣要請の時刻報告を「十時にする」となり、公式には「10時に災害派遣要請」

 以上が陸上自衛隊の災害派遣までの大まかな流れです*6。まず特徴としては災害の規模に対して政府やメディア側の察知がかなり遅れていることが特徴といえます。阪神淡路大震災はのちに観測史上初の最大震度7となりますが、当時の報道では震度6という発表であり、その災害規模が今我々に認識されている「阪神淡路大震災」の災害規模と直結している人間は現地にいた人間以外にはほぼいなかったと考えられます。「震度7」による地震災害を知らない世界だったと言えるかもしれません。また日の出時刻が7時6分となり、明るくなるのが遅かったことも災害規模を知るまでのタイムラグになったでしょう。そして現地では行政側の人間もまた被災者故に県庁などに行く時間が遅れ、逆に中央の政府側では状況把握が全くなされておらず、8時過ぎからのメディアの空撮などから災害規模がある程度はわかりそうなものの10時の閣議時に死者が伝えられていないからか動きが鈍く見えます。ただ当時、災害対策本部は閣議決定を経なければならないというフローになっている点には留意が必要です*7。それと政府側の意識の鈍さは当時あった政局的な要因もあるでしょう。ただし時系列を見ればわかりますし、最初に言いましたが自衛隊への災害派遣は県側が要請するものであり、それを村山富市が止めたなどという事実なんてのものはありません。兵庫県側の対応を見ると地震による通信状況の著しい悪化で兵庫県と自衛隊間の連絡がほぼ取れなかったことが原因と考えられます。兵庫県による『阪神・淡路大震災 : 兵庫県の1年の記録』によれば8時30分の災害対策本部会議で自衛隊への災害派遣要請自体は決定事項です。ここから実際の災害派遣要請には10時15分ごろとタイムラグがあるのですが、その理由としては兵庫県資料を読む限りは通信回線の輻綾、通信設備の故障等が一番の要因と考えられ、単純につながらなかった。
 さて、災害派遣までの経緯は以上となりますが、ただ実際には「自衛隊が到着」しなければならないわけで、それまでの時系列も記述します。

自衛隊の到着までの時系列
13 : 10 陸自第3特科連隊が神戸市で救助開始(215人)
15 : 00 警察庁が死者500人突破と発表
15 : 45 政府による非常災害対策本部が発足
    陸自隊第36普通科連隊が西宮市、芦屋市で救助開始(266人)
16 : 20 村山富市首相による阪神・淡路大震災対策についての緊急記者会見
   「関東大震災以来の最大の都市型災害」との認識を示す
16 : 35 陸自第3特科連隊淡路島で救助開始(85人)
18 : 00 中部方面総監部は直轄部隊、通信,ヘリ要員を含めて3300人を動員
    当日被災地に実際に到着したのは2000人
19 : 50 兵庫県が海上自衛隊(呉地方総監)へ災害派遣要請
20 : 00 陸自第7普通科連隊が神戸に到着
17日中に、
陸上自衛隊3300人が人命救助等、ヘリコプター57機が緊急輸送等のため出動
海上自衛隊では護衛艦、輸送艦等15隻925人が出動
 
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21 : 00 兵庫県が航空自衛隊(中部航空方面隊司令官)への災害派遣の要請

当日に到着した2000人と比較すると、明確な時間と場所が示されている人数と結構な乖離があるためにどれだけの自衛隊員が「いつ・どこに」に到着したのかは不明ですが、それでも一番早くてもそれまでの偵察や訓練ではない「正式な」災害派遣人員の到着は神戸市に13時ということになりますが。発災から6時間以上の経過であり、遅いという判断も成り立ちますし、また淡路島には16時と10時間以上経過しているわけでやはり到着が遅いと判断されても仕方ない時間と言えるかもしれません。それと海自と空自に対しての災害派遣要請は遅いと言えるでしょう。またそれとは別に16時からの村山富市の緊急記者会見が行われて「関東大震災以来」という災害の大きさを語る言葉は出ていますが、発災から10時間以上経過していること、また空撮による災害規模、死者が3桁を超すことは昼過ぎには政府側も理解しているはずであり、危機管理への疑念のまなざし、政治的にも市民感覚的にも「遅い」という批判は免れ得ないと考えられます。ただこの「政治」的な遅さが「自衛隊の到着の遅さ」とは直結しているわけではなく、自衛隊の到着は単純な隊員収集や準備までの時間、そして震災後の交通インフラなどの影響が大きいと判断するべきでしょう。

自衛隊、応援部隊到着は半日後
陸上幕僚監部によると、被災地に近隣県の駐屯地から部隊が出動したのは地震発生当日の午後二時ごろ。兵庫県の貝原俊民知事の派遣要請から四時間たっていた。防衛庁の幹部は「隊員の多くは駐屯地の外に住んでおり、集合に時間がかかる。派遣隊員の三百分の食糧調達や被災地への派遣は相当の規模だった」と述べる。
 応援部隊のほとんどが陸路から現地をめざしたため交通渋滞に巻き込まれ、部隊が神戸市や淡路島に入ったのは発生から半日後の午後六時ごろだった。地震被災地の人命救助で発生四十八時間をすぎると致命率は下落するといわれている。部隊内にも「もっと準備時間を短縮できなかったか」との声がある。
朝日新聞 1995.1.20 朝刊

 

神戸での救助活動は午後一時過ぎからだった。社会党の首相は自衛隊嫌いで出動要請をためらったのでは、といった批判が噴出した。事務の官房副長官だった石原信雄(現地方自治研究機構会長)が反論する。
「出動をためらったなんて絶対にありません。自衛隊が見えないと首相官邸に随分、電話がかかってきたから、私も気になって防衛庁の村田直昭防衛局長に電話で言ったら、『やっています。道路が大渋滞で、主力部隊が入っていないだけで』と言っていた。それが実態です」
プレジデントオンライン『阪神大震災。なぜ自衛隊出動が遅れたか』

 当時、政府の初動の遅さ、自衛隊の出動までの遅さは問題視自体はされており、自衛隊については県からの災害派遣要請までのタイムラグと渋滞などの影響が一番大きいと言えます。とはいえ当時の首相は村山富市なわけですし、誰もが自衛隊派遣は県側の要請が前提であることをわかっていない故に村山への批判があったことが窺えます。実際に記者会見などは後知恵とはいえ鈍さが見えるのは事実でしょう。なお村山と自衛隊を絡める発言は例えば当時の自民党幹事長である森喜朗が「社会党は自衛隊に懐疑的だった。そのため自衛隊にも遠慮が生まれ、そのため自治体の首長も出動要請に慎重になっている*8」であるとか、当時新進党の小沢一郎が「日本では緊急時の対応が全くできていない。その制度的な不備に加えて、社会党の考え方が今でも自衛隊の災害出動にさえ反対であり、そういう体質をもった政権だから自衛隊の活動に後れを取ってしまう*9」など、今でも通じる論調が政治家から出てきています。実際のところ、ここで言われる「社会党の体質」的なものが自衛隊の活動に影響して遅れたというのは、時系列やその法的手続きを考えると薄い気がするわけですが、この時の言説が残念ながら現在にも生き残っているわけです。現在はこの時の反省を生かして災害対策基本法の改正などもなされているわけですし、さすがにお門違いと言える部類なので止めといた方が良いよ。

【時系列の参考文献】
山川雄巳『阪神・淡路大震災における村山首相の危機管理リーダーシップ』
兵庫県知事公室消防防災課『阪神・淡路大震災 : 兵庫県の1年の記録』
中森広道『阪神・淡路大震災における初動情報』
神戸新聞『(2)事後了承 あやふやな「要請」時刻』
日野宗門『地域防災実戦ノウハウ(65) 』
内閣府 阪神・淡路大震災 総括・検証 調査シート「010 自衛隊への応援要請と配分調整」



■お布施用ページ

note.com

*1:NHKがこの時点で震度6情報を入手したのはNHK神戸の記者が神戸海洋気象台に電話取材のため。気象庁からの公式アナウンスではないので一度取り消される。

*2:神戸などの回線故障で震度6情報が伝わらなかった。

*3:兵庫県資料「阪神・淡路大震災 : 兵庫県の1年の記録」ではこの際に「支援を依頼することになる旨を送っているが自衛隊はこの発言を「災害派遣の要請」とは受け取っていない。これは対応したのが課長補佐であるからという可能性もあるが要請が行われた10時のやり取りの際も知事による要請ではないため兵庫県の記述には若干疑念の余地がある。この部分を記した神戸新聞もこの時点で要請した旨は書いていない。また山川雄巳による時系列においては電話は 陸自・中部方面総監部によるもので災害派遣出動要請を促す内容だったものの災害状況不明との返答のみだったとあり、その10分後に第三特科連隊から電話があったとされる。こちらでも出動要請はしなかったという記述は存在する。

*4:資料によって時間が異なるが兵庫県資料に依拠する

*5:当時の朝日新聞にはこの10時の閣議で100名以上の死者がいるともある

*6:上述以外にも自衛隊の動きはあるし、警察や消防の動きが存在。興味がある方は参考資料を。

*7:現在ではこのフローは撤廃され、大きな地震後などには本部がすぐ出来るようなっている。阪神淡路の経験を生かした改善

*8:朝日新聞1995.1.21 朝刊「自衛隊の出動遅れ 国論分裂にも要因」

*9:朝日新聞1995.1.25 夕刊「自衛隊出動遅れで小沢氏 「社会党の体質が原因」」