過日の西海岸出張の間で、もう一冊、オリヴァー サックスの著作を読んでいた。原題は「The River of Conciousness」。過日、紹介した
『道程』という自伝よりも後に出た「最後のエッセイ」。訳者は同じ方。邦題は『意識の川をゆく 脳神経科医が探る「心」の起源』という説明的なものになっているのは、いつもながら日本のマーケティングなので仕方ない。
植物学者としてのダーウィンについて論じる第1章から始まる本書は、サックスが最晩年に自分の得た知識を整理しておくために書いたのだろうと想像する。著書全体の内容を知りたい方は、帯にもお名前が挙がっている養老孟司先生による以下の書評がわかりやすいので、そちらを参照されたい。
私としては、第二章「スピード」を読んでひらめきを得た。神経内科医としてのサックスは、パーキンソン病やトゥーレット症候群など、運動障害等を伴う患者を多数、診てきた経験の中で、それらの中枢神経系の疾患の共通項として、無意識レベルでの「時間」の捉えられ方、つまり神経回路での処理のされ方(その実体は現時点では不明)にあるのではないか、ということを論じている。
約20年前、研究業界の大事な友人が自殺で亡くなったことも、神経発生の研究から心の病に興味が拡大したきっかけであったが、その頃から、「時間」が脳の中でどのように処理されているのかということに興味を持っていた。例えば、分子のレベルでは、細胞の外側を構成する「細胞膜」でさえ、毎日、入れ替わりがある。例えるなら、レンガのお家があったとして、そのレンガが日々、少しずつ、古いものが外れて新しいものが加わる。とはいえ、その家は家として存在する。同じようなことが細胞=家についても言える。ということは、厳密に言えば、昨日の私と今日の私はその構成成分が異なるにも関わらず、「私」として存続し続けるというのはどういうことなのだろう? 自我はどのようにして保たれるうるのか?(そういう意味で、私は「記憶物質」という概念にはちょっと違和感がある)
……そんなことが下敷きにあったので、他人からはあたかも時間が止まったように見えるパーキンソン病患者や、逆に、異常に動きの早いトゥーレット症候群の患者の運動機能とリンクする「時間の意識」(実は無意識レベル)に対する洞察がとても興味深かったのだ。
おそらく、そのような「時間の処理のされ方」が個人個人で異なることが、多様な疾患病態であったり、「個性」の下敷きになっている可能性もあるだろう。今後、脳科学でこんな問題がどのように扱われていくのかが楽しみだ。