『アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか』を読んだ

ご無沙汰しております。読書日記を書いている場合ではない気もしますが、『アルツハイマーはなぜアルツハイマーになったのか』が猛烈に面白かったので紹介しますだ。





Amazonの紹介文には「病名から脳科学・神経学をひもとく、ユニークなメディカルヒストリー」とある。本書で取り上げられているトピックには、「パーキンソン病」「アスペルガー症候群」「アルツハイマー病」などの有名な疾患もあれば、「ブローカ野」「ブロードマンの脳地図」など大学の脳科学の授業に出てくるようなトピックもあるし、はたまた舌を噛みそうなあまり耳にしたことのない病気も含まれている。目次は以下のとおり。本書を通読すると、「へぇー」とか「えっ!」とかおそらく百回くらいは言ってると思う。

はじめに 「ドラーイスマ症候群」がありえない理由
第1章 夕闇迫る頃、彼らがやってくる  シャルル・ボネ症候群
第2章 苦しい震え パーキンソン病
第3章 フィニアス・ゲージの死後の徘徊 
第4章 ケレスティヌスの予言 ブローカ野
第5章 ライデン瓶の火花  ジャクソンてんかん
第6章 シベリアのブランデー コルサコフ症候群
第7章 死ね、このバカ! ジル・ド・ラ・トゥーレット症候群
第8章 もつれた迷路  アルツハイマー病
第9章 神経学のメルカトル ブロードマンの脳地図
第10章 狂気の大本 クレランボー症候群
第11章 分身にお茶を カプグラ症候群
第12章 小さな教授たち アスペルガー症候群
第13章 カルダーノ的な科学停止


本書の著者はオランダのグローニンゲン大学心理学史教授のダウエ・ドラーイスマ(Douwe Draaisma)。ベストセラーになった「なぜ年をとると時間の経つのが速くなるのか 記憶と時間の心理学」の著者でもある。本書では13のトピックについて、その発見の歴史、命名の歴史を中心に手際よくまとめられていて飽きることがない。文章うまい。構成がいい。著者の専門は記憶の心理学のようですが、こういう人は専門以外でも何を書かせても面白くできると思う。おそらく『小指で鼻くそをほじる人々の7つの習慣』とかいう新書を書かせても700万部くらいはいくと思う。それくらいのレベル。例えば、第四章「ケレスティヌスの予言 ブローカ野」の書き出しはこんなかんじ。

コロンブスと同じく、「ブローカ野」の発見者は自分が何を発見したのか、いまひとつわかっていなかった。
(中略)
多くの神経学の教科書には、次のように書かれている。ブローカは言語障害と脳の左半球の特定の場所の損傷とのあいだの関係を発見し、「ブローカ野」および、それに関連した「ブローカ失語」の語源となった。
 だがこのような書き方は誤解を生む。ブローカ自身はまったく別のものを発見したと信じていたのである。二年後にようやく彼は自分が、日本ではなく新世界に足を踏み入れたことを知った。それはあまりうれしくない発見であった。


こうして一気に本題に引きずり込まれてもう後戻りできない。夏休みで暇している中高生たちは人生が永遠に続くような気でいるかもしれませんが、何があるかわからないのが人生です。今すぐに本屋か図書館に走って、是非本書を手にとって適当に2-3章読んでみてください。あなたの人生が変わるかもしれませんし、変わらないかもしれません。


それでは、最後に本書のトピックのひとつからクイズを出して終わりたいと思います。以下に本書の内容に則して、ある人物(仮に山田一郎さんと呼びます)の生涯を振り返りますが、この山田一郎さんとは一体誰でしょうか? 


時は1864年。一人の男がバイエルンで王位につき、別の男が同じくバイエルンのヴュルツブルク近郊の小さな村で産声をあげた。前者は、かの有名な「バイエルンの狂王」ルートヴィヒ2世であり、後者が今回のクイズの主人公である山田一郎(仮名)である。


時は下って1886年。バイエルン南部に位置するシュタルンベルク湖で二人の男が溺死体で発見される。この二人のうち「ルートヴィヒ2世」の名はすぐに出てくるのだが、もうひとりは誰だったか? いつもどうしても名前が出てこない。このすぐに名前を忘れられてしまう不運な男の名はベルンハルト・フォン・グッデン。ミュンヘンで研究所を主宰していた傑出した精神科医であった。


この謎の死を遂げたグッデンのもとで研究を続けていた若手研究者のひとりにフランツ・ニッスルという青年がいた。彼は「ニッスル染色」にその名を残すこととなる有能な研究者だったのだが、この1886年の大事件で尊敬する師を失い、しばらく研究ができなくなるほどのショックを受ける。そのため彼はしばしの休養を余儀なくされるのだが、1888年になってフランクフルトにあるてんかん病院で再起をはかることにした。そこで当時28歳のニッスルは、4歳年下の有能な神経病理学者と出会い、すぐに仲良くなり、生涯の親友となった。このニッスルの親友こそが山田一郎(仮名)である。


この山田一郎さんは1903年にミュンヘンの王立精神病院に移ります。実はここで彼のボスであったエミール・クレペリンこそが、山田一郎さんの名前をとある疾患の名(仮に山田病としておきましょう)に刻んだ張本人なのです。ちなみに、当時の最先端を走っていたこの研究室を、「レヴィ小体」に名を残すフリードリッヒ・ハインリヒ・レヴィ(リヒリヒしてる!)や、「クロイツフェルト・ヤコブ病」に名を残すハンス=ゲルハルト・クロイツフェルトとアルフォンス・ヤコブなどの名だたる研究者が訪れたそうです。


さらに時間が下って1912年に山田一郎はフリードリッヒ=ヴィルヘルム大学附属精神病院に院長兼教授として招かれます。これは「ウェルニッケ失語」などで有名なカール・ウェルニッケが20年近くにわたって君臨してきたポストであった。これが最後のヒント。さて、この山田一郎とは一体誰のことでしょうか? 答えは本書の中にあります。ちなみに、この章の本題は、この山田一郎がこの山田病を「発見」した経緯、山田一郎がこの「発見」について学会で報告した際の聴衆の反応、そしてこの疾患が「山田病」と呼ばれるようになった経緯などです。