あのにますトライバル

君の気持ちは君の中でだけ育てていけ。

嘘認定に関する雑感

 記事を読んで、100文字では足りないしそもそも何が言いたいのかよくわからなくなったのでこっちでつらつら書きます。途中まで書いてたんだけど急病で記事の公開がなんか遅いですすみません。

 

blog.lalamiamor.net

 

 多分自分なんかは「嘘認定」する側の人なので「どうしてそんなに嘘認定をするのか」という観点で読んでもらえると嬉しいと思います。普段はこんな記事を書いています。

 

nogreenplace.hateblo.jp

 

nogreenplace.hateblo.jp

 

嘘認定をしたい人とは

 まず、元記事の「嘘認定をしたい人」とはどういう人なのかというところを考えましょう。元記事では「想像力の足りない人」「自分の境遇と向き合いたくない人」が悲惨な内容の記事に対して「嘘だ!」というというようなことが書いてありました。だけど、おそらく嘘であると断じている人は実際のところ「バーカバーカ」と同じくらいの意味合いで「嘘乙」と言っていて、記事を読んで信じられないから「嘘」と断じているわけではないだろうことも同時に含めておいた方がいい気がします。いわゆる「ネガコメ」という奴です。つまり「ネガコメをつける人は何故ネガコメをつけるのか」みたいな話になります。

 

 少し話は逸れますが、このような内容の記事は非常に燃えやすいです。何故かと言うと、ネガコメをつける人を暗にdisるような内容のものはネガコメをつける人に格好のエサを与えるだけになるからです。「悪口言う人はバカ」って言ったら「バカって言う方がバカなんですぅ」と言われる。ただそれだけのことです。

 

 まとめると「特に意味はないけど悪口のバリエーションとして嘘つきという言葉を使っている」が真理に近いと思います。コメント欄に意味なく現れる「あああさん:お前こんなくだらない記事書いて何で生きてるの?」とか英語のスパムコメントと一緒の存在だと思うので深く意味を追求しないに限ると思います。「暴言をやめましょう」と言って暴言をやめるような人は最初から暴言を言いません。この話おわり。

 

どうすれば信じてもらえるのか

 流石にこれだけじゃアレなんで自分が「これは本当のことを書いてるんだろうなあ」と思うポイントを挙げてみます。要は嘘松判定のポイントをずらした感じです。

 

・事実のみを淡々と書く

 例文で考えてみましょう。

「花柄の花瓶を割ったのは誰ですか、正直に名乗り出なさい」

 先生が私たちを睨みました。

「ケンジくんがやりました」

 私は震える指でケンジ君を指して言いました。

 花瓶を割ったのは誰かと先生が聞いたので、私はケンジくんだと言った。

 

 上の例文と下の例文では、どちらがより出来事を伝えようとしているでしょうか。一見上の例文のほうが文字数も多くて丁寧に書いている感じがしますが、書き手の主観や感情が多く入っていて「出来事」を伝えるというより「書き手の主張」がメインになってしまっています。こうすると余計な情報まで読者に伝わってしまい、いわゆる「誤読」を生みやすくなります。誤解が生じるということは、それだけその情報が嘘っぽくなってしまい。描写を豊かにした小説のような文章からはやはり「創作」という言葉が頭をよぎりやすいです。できれば新聞の文章のような淡々とした書き方をしたほうが真実味は増すでしょう。

 

・自分の至らない点も書く

 「こういうことがあったんだけど、俺は悪くないぞ、な、な?」という記事は基本的に炎上しやすい傾向にあります。何らかの出来事を読んだ読者はフラットなものの見方をしようとしますが、書き手の落ち度が書かれていないと「本当は悪いのは書き手ではないだろうか」と邪推をしがちです。また、本当に落ち度が書かれていない記事には書き手にとっての都合の悪い情報が隠されていると考えることもできます。出来事を伝えたいときはどうしても「あいつが悪いんだ!」という気持ちを押さえて自分の落ち度に触れるのがいいでしょう。落ち度のないときはどうするんだって? 運が悪いと書いておけばいいと思います。

 

・感情的になりやすい話題は避ける

 本当に事実を伝えたくても、対立を煽りやすい構造の話はどうしたって当事者から離れたところで空中戦が勃発するので控えたほうがいいでしょう。例えばひとつ前の記事では「妊婦」「死にたい」というワードだけで様々な意見が噴出していました。他にも「ジェンダー」「痴漢」「ベビーカー/子供用ハーネス」「家事問題」「子育て」「いじめ問題」「精神疾患」「南京大虐殺」「竹島」「忖度問題」「学歴問題」「格差問題」など数えればきりがありません。どうしてもこのようなことについて述べたいときは覚悟を持って述べたほうがいいでしょう。それにつけてもおやつはきのこの山。

 

何故カレーの記事は嘘松認定されないか

 追記で「カレーを作ったと書いても創作と言われないのに病気や貧困の話は何故嘘と言われるのか」という疑問がありまして、筆者さんは「私の病気や貧困の度合いがレアケースだからではないか」と推測していましたが、それだけではないと思います。ずばり言えば「必要ない情報だから」というのも大きいのではないでしょうか。

 

 具体的に血圧の話をされていましたが、道端で倒れているときに「血圧が低くて困っています」と言われれば、大体の人が「血圧が低くて大変だな」と思ってくれると思います。ここで「上が50なんです」と言えば「大変だな」の前に「そんなに低いの!?」と驚いたり「血圧が低いのを自慢しているのだろうか」と反発を覚えます。何かを伝える際にはありのまま全てを伝える必要はなく、必要なことだけを伝えることが効果的です。足りないのも困りますが、余計な情報もトラブルの元です。

 

 何故こういうことに人は反発を覚えるかと言うと、やはり自慢をしているように感じるからだと思います。貧困や病気が自慢というのもヘンな話ですが、下から目線のマウンティングと考えてもらえるとわかりやすいと思います。「車椅子マラソンで鍛えて上腕の筋肉がモリモリです」ということを伝えるのに「足が動く人にはこの筋肉は手に入らないでしょうね」と付け加える必要はありません。もし付け加えたいのであれば、それは「自分は人より頑張ってるんだ偉いんだ」ということをわかってほしいということでしょう。しかし好きで車椅子に乗っているわけでもないのと同時に、歩ける人だって自ら望んで健常者を選択したわけではありません。つまり本人はそんな気が全くなくても全方位に対する嫌味になってしまうわけです。

 

自分の環境や心情について書いている、他人に害のない個人の日記ブログについて、嘘認定をして暴言を投げつける必要があるのかというお話です。

 

 したがって、「他人に害のない」というのは非常に難しい話です。「カレーを食べた」という記事だって、病気療養中でカレーを禁止されている人などが見れば傷つく可能性はあります。ただそういったブログは閲覧数が小さく、誰彼構わず暴言を投げつけるような変な人の目に届きにくいのでカレーの記事は嘘松認定されないだけです。もし人気者が同じようなカレーの記事を書いたとすると、嘘認定はされなくても「まずそうw」「手作りとかかしこまってんじゃねーよ」くらいのコメントはあるかもしれません。インターネットは怖いですね。

 

嘘をつきたがる人々

 そして創作認定についてですが、残念ながらこういったことで耳目を集めて注目をされたがる人と言うのが一定数いるということを念頭におくべきなのだと思います。

 

 このブログを書いている人の体験談ですが、小学生のとき隣の席の子の消しゴムに焦げ跡があったので「どうしたの」と尋ねると「これね、昨日家が火事になっちゃってそれで焦げたんだよ」と返されました。人を疑うことをまだ知らない年齢だったのでしばらく心配して、その後「おうちは大丈夫なの」と尋ねるとしどろもどろになって「あれは実は焚火の中に落としたんだ、家は大丈夫」と返されました。冷静に考えれば同級生の家が火事になったらもっと大事になっているはずです。それから「人は同情をひくために嘘をつく」ということを覚えました。その後何度か似たような経験を重ねるうち、気が付けばこんな人になってしまいました。

 

nogreenplace.hateblo.jp

 

 よくこういう話をすると「嘘をついてもメリットなんかないから嘘つきはいない」と主張する人がいます。しかし人間はメリットがあるから嘘をつくわけではありません。長期的に考えれば明らかに不利になるのにその場限りの嘘をついたり、真実を伝えることを抑制された結果嘘しかつけなくなったり、嘘を有難がる人のために悪意を持って嘘を流したりと嘘に対する姿勢は様々です。

 

 つまりは「嘘認定している人の気持ちがわからないので嘘認定している人は人間じゃない」というのも「この記事の出来事が信じがたいから嘘だろう」も、結構近いところにあったりします。人間はどうしたって他人にはなれないし、うまく自分の言葉を伝えられなければどんなに思いが一途でも伝わりません*1。

 

 もし普通の人の体験したことの無いようなことを書きたかったら、嘘つきよりももっともらしく真実を書いていかなければいけなくなります。その時に必要以上に言葉を持ったりすると嘘つきたちより嘘っぽくなってしまいます。この辺は文章力というより、「伝える力」の問題だと思います。何を伝えて、何を伝えないか。情報の選択はこのインターネット時代に置いて非常に大事なスキルになっていくのだろうと考えます。

 

まとめ

 長くなりましたが、要点をまとめるとこんな感じです。

 

・嘘認定の前に、記事に反感を持っている人がいる。

・余計な情報が反発を招いている恐れがある。

・実際嘘つきは滅茶苦茶多い。

 

 個人的な雑感として、インターネットの情報と向き合うときって他人との対話と言うより己との戦いのような気がしています。どれを真に受けてどれを切り捨てるか、何に言及して何をスルーするか。情報の選択次第でアカウントの色が出てきて、それが人格になるんだからまるごとの人間なんてもう無意味だよなとか思うくらいには未来になったんじゃないでしょうか。タイミングだけ外さないように笑顔作ってるロンリーだらけの未来でも車もしばらく空を走る予定もなさそうだけれどね。おわり。

 

*1:こういったことを先天的にうまくできない人もいるので、それを自覚して周囲がフォローしやすい環境をつくることが大切だと思います