私が生きてきた実感は、異端者。

昨日の記事が前半と後半でモロ矛盾してるのが愉快だなぁ。要するに駄目出しが無粋なこともあると分かりつつ、口出したいのよ。オタク根性と言うかファン意識かね。
ていうか私のブログって誰がどういうニーズで読んでもらってるのかしらね。原点回帰しちゃった。


http://twitter.com/akaboshi_07/status/37653605515272192
ところでおすぎが同性愛者が異端とかメタンとか言ったらしいけどソレに関する記事で「男が男を好きになることと、女が男を好きになることの意味はこの社会では全く違う」て書いてる人が居た。私は女が女を好きになることなどはあまり語れる材料を持たないけど、2つの性別をめぐって様々なベクトルが共に違う社会的意味を持たされて存在してることは分かる。

たとえば、女が女を好きになることと、男が男を好きになることも、大分違うのだと思う。どっちの方がどうとか言うより、体験(体感)する社会からの視線も当然違ってくること。それが私たち一人ひとりの胸にどう降り注ぎ、どう受け止めて生きているかはひとソレゾレだけどね。バイと同性愛者の経験はどこかで違う。どこかで似通う。バイとモノセクシュアルという面ではゲイもビアンもヘテロも多数派。所謂足を踏み踏まれる関係。だけどゲイとバイ(男性?女性?)、ビアンとバイ、ヘテロとバイという関係を「バイとモノセクシュアル」とひと括りに出来ないものがあると思う。それは各層の社会的位置が別々だから、当然なことだろう。ゲイコミュニティでバイはどう扱われてきたか、レズビアンコミュニティではどうか、無徴であるヘテロ社会では男同士間で、女同士間で、「バイ」という者への見方は違っただろうね。よく言うでしょ、女たちの間の方がまだ同性愛者への風当たりがマシって。本当かどうか知らないけど。

それにつけても私の実感はどうだろう?女に対する欲望と男に対する欲望はやっぱり異なるけれど、男に対する昔からの欲望とはやっぱり同列に語れない。たしかに「愛する性別が同性という以外、異性愛者と変わらない」と言われても何か蟠りが残るんだ。

というか、この物言いって結局「僕は考えたくない」てポーズとして機能するよね。「同性って以外は」って同性であることが物議をかもしてきたんだろうがっていうのをただ異性愛者の実感にパラレルにちょこっとズラして同じ扱いする。でもそう感じていられるのは愛する性別を一々とわれずに済んだ人間だからってだけでしょ。そしてかれらはそう言い切ることで傷つかずに済むのよね。だって同じことにしちゃえば違いに目を瞑ることが出来る。この物言いは要するに、場の中心に居座ってる者が楽になりたい時に都合のいい言葉に陥ってるんではないか。
互いの違いゆえに同じ扱いができなくて異性愛者向けにデザインされた社会(婚姻制度とか社会保障)の不備にぶつかる、ぶつかっているのに、「だって性別が違うだけでしょ、同じだよ、普通だよ、だからもういいでしょ、文句ないでしょ、普通ってお墨付きを私たちが押してあげたんだから満足しなさいよ小うるさくわめきたてないでね」とでも言いたげに、同じことにする。たしかに「同じ」はずなら本来改善すべき問題はないし、デザイン変更ってコストを支払わずに済む。けれど実際は違うのだ。


そういう社会制度から弾き飛ばされている、という現実を実社会で感じるとき、ひとは自分の内面(更にナイーブな表現を使うと「心」)を疑問に感じるでしょう。「なんで自分は異性を好きになれないんだろう」。「なんで今までと違う相手を好きになるんだろう」「なんで自分のパートナーと一緒にいる場面を人に見られると恥ずかしいんだろう」。「同性と付き合うってどんなことか想像も付かなくて不安だ」。といった数々の実感を抱きながら誰かを好きになる。

社会制度からつまはじきにされる、ということは、同時に心の問題にもなる。選挙権ないのに税金はしっかり払わされる、ということが二級市民的実感を抱かせるとか想像すれば分かりやすい。
それから制度的経験からだけではなく、どうしようもなく女を好きになることの実感とはかけ離れてる気がする。
私は物付いた頃から男が好きだった。
ねぇ、分かる?男を好きになるってことの恥ずかしさを。
人前で「男が好き」ってためしに口にしてみなさい。なんだかものっそい色情狂みたく思えてくるよ、自分が。まああえて「男が好き」なんて説明しなくて済む人とはまた違う恥ずかしさがあるだろうし、人によっちゃこの言葉の頭に「自分は普通に(男が以下略)」を付けられるワケだけど、「女が好き」て言うのとはまた違う抵抗があると思うのは私の気のせい?

「え、じゃあ男が好きなの?」
「うん、そうだよ。男が好…、あ、えっと、オトコが好…き、だよ?」
みたいなw

ええ、私には女で女を好きになることの気持ちは分からない。誤解して欲しくないのだけど(じゃあ書き方変えろって話だけど)、どっちがより不憫とかではなく、ね。でもねぇ、見逃せやしない違いがあったもんだわね、お互い。

実感はトランスのトイレ事情を考えると逆に見えてくるかもしれない。
私は「トイレの前で右往左往する経験をシスジェンダーはして見ろい、そしたら実感が分かるだろ」と思っていた。
だけどよくよく思えば、仮にそんなシミュレーションをシスジェンダーがやったところで「いやでも異性装をやめれば自分には行くべき場所あるし…」て思いは変わらないだろうし、「トイレに入ってもパスするのか、しなかった場合の悔しさとか悲しさといった分裂したこの気持ちはどうすればいいのか」といった葛藤を味わう術をシスジェンダーは基本的に持たないのだ*1。
どうしたって実感からして違う、違うから見える世界も違ってくるんだ。


なんだろう、私の実感はたとえば初恋を想像してみれば分かりやすいかもしれない。はじめて誰かを性的にも好きになって、その気持ちがどう扱われるかと言う不安を始めて直面する瞬間。自分はブサイクで嫌われるかもしれない。年上でいとわれるかも知れない。色々実感はあれど、最初から「恋」なんて薄ら寒い言葉の範疇には入れないであろう自分の気持ちを、好きな人が言外にクソ扱いしていたら?
恋っていうのも立派な社会的なものよね。恋って表象にどう乗れるか、あるいはどう乗れないかで、その人の自己認識は結構変わりそうなものよね。
私は最初から自分が誰かに「恋」をする人間だとは思えてなかったわよ。そういう枠から存在してないものだと思っていたから。私がイマイチ恋愛感情が分からないのはそういう理由も一つあったかもしれないわね。「コイってなぁに?食べれるの?」ていう。恋なんてものが自分にありえるものだと最初から思って育っていたら、私今頃どんな人間だったでしょうね。っは、たかが恋ひとつで。何を右往左往してるんだか。
でも私は恋ってカケラを自分が少しでも、別の補助的代替的な形であっても獲得できるかどうかが重大問題だったのよ。ただ、男の腕に抱きしめられたかった。手の熱を感じてみたかった。本当は大したものではなかったとしても。
あるいはセックスや接触がなくても構わないわ。ただ、傍にいられるなら、それでも満ち足りたでしょう。俺の横にいてもいいんだよ、そんなまなざしを受けて、横にちょこんと座るの。許された心地で。

セックスも。別に好かれる必要はなかったのよ。自分の体で快感を得てくれるなら。こんな体でも何かの代わりになるとか、そういう価値があるのなら、ひとりで生きていける気がしたわ。
まず代わりモノとしての自分を探すことから始まるの。

もっとも、ここまでくると恋とかどうとかじゃないけど、結局私にとっちゃそういうこと。「恋」を何らかの形で演じられるなら私、自分を少しは認めて上げられるかもしれない。男はそのための道具。本当は相手の人格なんてどうでもよかったのよ。それに見合う形をしていたら木偶の坊でも何でも同じこと。

そういう実感を持って私は少年をやめた。大人になんてなりたくなかったけど、結局何も得られぬまま。かえってそれで良かったのかもしれない。けれど、すべてが今更に思えるわ。今更何を経験したところで。私が救い上げられたかった時期はあの頃なのよ。もはや。

どこにもないように見えたの。私の居場所。なくてもよかったのだけどね、だけど何故だか焦がれる思いはあったみたい。
なんだか自分はバラバラだ。ズレてしまってる。何か奇妙に世界の定義と食い違って収まらない。そんな自分があべこべでとてもこの気持ちを誰かと共有できるとは思えない。セカイで自分だけ異分子だ。大げさだけど大雑把に言ってそんな感じ。*2

そういう意味では確かに私は異端者だったのよ。それに甘んじるでもないけれど、現に違ったのだ。それ以上でも以下でもなく、その烙印を押し付けられるつもりもないけれど。ただ、この実感を簡単に分かられて堪るかと言う気持ちもないではない。

外れモノ。
実感の前では「君と私は同じ」なんて言葉は、とても軽い。

*1:これもまたシスジェンダーでも外見がそう思われない人の場合事情が変わってくるけど、さっきの話の繰り返しねここらへんは。

*2:ちょっとキチガイじみてたのよあの頃は特に。なんかあらゆる物(机やカーテンや)に触れると「ああ、ごめんなさい俺なんかに触られたくなかっただろうに」とかワリと真剣に考えてたのよwまあ性格がそもそも異常だったって話よね、ここらへんは。