限りなく透明に近いふつう

やさしい鬼です お菓子もあります お茶も沸かしてございます

サラダを取り分けなくたって女の恥ではない。

 

子供の頃のエピソード

小学校高学年の頃の話です。

私は近所に住んでいた友達カヨちゃん(仮名)の誕生日会に行きました。

確か男女取り混ぜて7.8人のクラスメイトが来ていたと思います。

みんなですごろくとかテレビゲームをやって、そろそろお昼になろうかという時に、カヨちゃんのお母さんが「女の子はちょっと来てー」と言って、カヨちゃんを含めた私ら3.4人の女子が台所に呼ばれました。

台所のテーブルには太巻きとか唐揚げとか、いわゆるご馳走が並んでいて、私たちは「おいしそー!」と沸き、カヨちゃんのお母さんに言われるまま、その料理を居間のテーブルに運んだりテーブルを拭いたり冷蔵庫から飲み物を出したりしました。

男子はその間ずっとテレビゲームをしていました。

テーブルに料理が並び、いよいよみんなでいただきますの前、私の目前に麦茶の入ったピッチャーがあったのを1人の男子が手を伸ばして取り、コップに麦茶を注ぎました。

なんの気もなく私がボケーとそれを見ていると、カヨちゃんのお母さんが言いました。

「あら、それはカヨ子がやらなきゃ。」

そう言われたカヨちゃんは「しまった」という顔をしていました。

そこに続けてお母さんは言います。

「こういう時は、女の子が注いであげるといいのよ。」

 

その時、私はかすかに心がチクっとしました。

気のせいかもしれないけど、2言目はカヨちゃんに向けた言葉じゃない感じがしたからです。

お茶が1番近くにあったのは私で、しかも私は「女の子」に含まれるから、「女の子が注いであげるといい」という言葉が、カヨちゃんではなくボケーっと見てた私に向けられたように感じたんですね。

思い返してみると、私の母は幼少期から私にこういうことを一切言わない人でした。

「女の子だからみんなの飲み物を注いであげなさい。」とか「女の子だから食事の準備を手伝いなさい。」とか「女の子だから木登りはやめなさい。」とかを言わなかったんです。

それが必要な時は「女の子だから」ではなくて、「一番近くにいるんだから」とか「手が空いてるんだから」とか「危ないから」とか、そういう言い方でした。

 

だから私は「女の子が注いであげるといい」と聞いた時に、正直「なんで?」と微かに思いました。

でも当時は子供。まして、よその大人の言う事につっかかるような性格じゃない私なので、そのまま誕生日会は無難に進行していきました。

でもその時のなんとなく恥ずかしいようなバツの悪い感じの一瞬が、私は妙に忘れられませんでした。

------------------------------------

「気が利く女の子」を習得した時代

高校生になった私は、アルバイト先の飲食店で日々たくさんの飲み会の席を観ました。

男女混合のグループに私が瓶ビールを運ぶと、必ずと言っていいほど女性客が受け取って、女性がお酌をしていました。

男女混合のグループでは、サラダを取り分けるのも、空いた皿やグラスをテーブル脇に出してくれるのも、「替えの灰皿下さい」と言いにくるのも、誰かが飲み物をこぼしておしぼりを貰いにくるのも、大酔っ払いしたグループの帰り際に「うるさくしてすみませんでした。」と厨房に言いに来るのも、ほとんど女性だったと思います。

そして、自分が飲み会に参加する年になると、私は人から「気が利くね」とよく言われるようになりました。

どうやら私は「飲み会における模範的な女性の動き」が同年代の他の女子より出来るらしかったのです。

でもその理由は簡単。

なんせ、酌をする、灰皿を交換する、料理を取り分ける、空いた皿を下げるといった「飲み会での気が利く行動」は、動き自体はたいしたことなくて、ただそれに気付く目線でそこに居るか居ないかだけのことだからです。

つまり私は高校3年間で散々色んな女性の手本を見てきたから、たまたま他の子よりは数年早く「必要なことに気付く目線」が身に付き、気付いたからやっていただけだったんです。

それは偉いことでも無いし、私が特別「女の子なんだからやらなきゃ」と自分に課したための行動でもなく、単に「得意なゲームだからやってる」みたいな感覚でした。得意だから好きで、好きだから得意。ただそれだけのことでした。

------------------------------------

飲み会からの喧嘩

ところが成人して少し経ってから、当時の彼氏とその男友達&彼女達で開かれた飲み会に行った日のこと。

すでにそれまでにもそういう飲み会は何度かあって、いつもの私はそういう「気が利く立ち回り」をしていたのだけど、その日はそれをしませんでした。

理由は、単純にその日の私はすごく疲れていたからです。

たしか、お盆休み期間だったので彼氏達は休みだったけど、私はその日仕事だったんですね。

仕事終わりに彼氏から電話がかかってきて、どうも遠くに住んでいる大事な先輩が地元に帰ってきているだとかで、急きょ集まることになったという飲み会に「お前も一緒に出てよ。」と言われたんです。

はじめ私は「疲れているから」と断ったけど、彼氏が「彼女持ちはみんな彼女連れてくるから!」とお願いしてくるので仕方なく行った、そういう飲み会だったんですよ。

結局私は皆の話には参加して愛想は保っていましたが、皿を下げたり飲み物を作ったりといった面倒事は他の彼女らが率先してやるので任せていました。

そして飲み会がお開きとなり、彼氏と2人の帰り道、彼は不機嫌そうに言いました。

「お前さ、今日の態度なんなの?」

 

私は「?」でした。

嫌々な参加だったけど自分ではそこまでひどい態度を取ってないつもりだったので、びっくりもしました。

すると彼は、会の最中に近くの先輩のグラスが空いてるのを私が放置してたことや、料理のとりわけを1度もしなかったことなどを「女としてあれはないわ」とくどくど言い、挙句の果てには「〇〇の彼女なんか、〇〇が汚すの見越して替えのTシャツまで持ってきてたんだぜ。お前にああいう気遣いできる?」と言ってきました。

〇〇とは彼の友達で、酔っぱらうと手元が狂い、しょっちゅう飲み物を服に浴びている男です。

その日も案の定やらかしてましたが、その時〇〇の彼女はすかさずバッグの中から替えのTシャツを取り出して〇〇をトイレに連れていき着替えを促していました。

私は彼氏の言葉に「替えのTシャツて、子供かよ。」と思ったし、疲れていたのもあってかなりカチンと来て、言いました。

「あのさ、今日なんて私、仕事終わりですごい疲れてんの知ってるじゃん。そんなにいちいち私がやらなかったことに気が付いてるくらいなら、皿を下げるとか、飲み物作るとかさ、自分がやればよくない?」

すると彼は言いました。

「お前はそれでいいの?」

 

「オマエハソレデイイノ?」正直、意味がわかりませんでしたが彼は続けて言います。

「だからぁ、みんなの前でもし俺がそういう事をして、彼女のお前がただ座ってるって姿を観られんのは、女として恥ずかしくないの?」

 

私は完全フリーズしました。

思わずポカーンとなって、頭の中で「なんで?」がぐるぐる回ったまま、なんとか出たのは「は、恥ずかしくないけど…」という一言だけでした。

彼氏はそっぽを向いて数秒黙った後、不服そうに「…あっそう」とだけ言ってその話は終わりました。

------------------------------------

彼の中のルール

当時の私はかなり意味が分からなかったこの出来事ですが、今の私は彼が言っていた不可解な言葉の意味が分かります。

それは、彼の頭にきっとこんなルールがあったのが分かるから。

・男が面倒に感じるこまごましたことは、女の役目。

・男がそれをやるのはみっともない。

・女がそれをやらないのもみっともない。

だから彼の「女として恥ずかしくないの?」という言葉を丁寧に言い換えるならば

「お前(女)がやるべき仕事を、人前で彼氏(男)にやらすなんて、俺(男)の恥とお前(女)の恥のダブルパンチなんだぞ。俺は男として恥ずかしい。女としてお前は恥ずかしくないのか?」という意味だったんだと思います。

でも私は、やっぱり彼の言う事には今も「なんで?」と思います。

頭が混乱していた当時は「なんで?」の一言しか浮かばなかったけど、今はちゃんと続きの言葉がわかるんです。

なんで、そもそも酒の席での面倒な役目は女がやるべきことになってるの?

なんで、あなたが代わりにやることで、私が恥じなきゃならないの?と。

 私は、酒の席での細々とした面倒な事を、別に「どちらかの性別の役目」だとは思いません。

面倒な事の面倒くささは男にとっても女にとっても同じものだから、その場を囲む仲間内で、男も女も無く「1番料理に近い人」とか「メインで話してない人」とか「そういうのが好きな人」が、適当にやればいいと思ってます。

あくまで「1番料理に近い女」でも「メインで話してない女」でも「そういうのが好きな女」でもなく、「人」です。

だから、その夜のことで言えば「仕事で疲れてる女(私)」と「疲れてない男(彼氏)」がその場にいたのなら、私がやれてないことに気が付いた彼氏がやればいいだけのことだったと思うんです。

でも彼には「男は男らしく面倒な事をしない」&「女は女らしく面倒な事をしなければならない。」というルールがあったようです。

だからこそ、後から「お前、この男女間ルールを破って恥ずかしくないのか?」と言わんばかりに私に「女としてあれはない」とダメ出ししてきたのだと思います。

今思うと、私もポカーンだったけど、彼も同時にポカーンだったのかもしれませんね。

彼の中の男女ルールは、きっと彼の中では「万人共通、このルールが根付いてるものだ」と信じてたんだろうから。

私達は根本的にジェンダー観がだいぶ違う2人だったということが、後になってこういう場面をいくつも思い出してからしみじみわかります。別れてよかった。やれやれ。

------------------------------------

女子だけが面倒見役を求められる不思議

ところで、ここのところ、ネットや雑誌の女性向け記事では「女の子ならこれができなきゃ恥ずかしいぞ♡」「モテ子になるにはこれをマスターして♡」というノリで、「男性に好かれるには女性はこのような事をマスターしましょう。」と指南するものが目につきます。

もともとそういったことを女性に求める空気は世の中にあったけど、本や雑誌以外にインターネットで雑文が溢れる時代になってから、特にそういう内容のものが量産されて、私の目につきやすくなった感じ。

でもそういう記事を目にしていつも思うのは「なんでこういう内容は、ほとんど女性向け記事なんだろう?」ということです。

私は「モテる方法をレクチャー」系の記事自体がそもそも面白くないけど、(全部「そんなの相手によるだろ!」と思ってしまう…)髪型やメイクやファッションなどの外見についてなら、100歩譲ってまだ「女性向け」「男性向け」と分けられるのは、わかります。

でもこの頃よく見かける「食事の場では料理を取り分けましょう」だの「男性の空のグラスに気付ける女になろう」みたいな「内面も男性ウケ用に作り込むべし」という女性向け記事が、ちょっとわからない。

確かに、大勢でテーブルを囲んだ時そういうことをこまごまとやってくれる人がいたら、してもらった方がしてくれた人に「おお、優しいな、気が利くな、ありがたいな、好きだな」等の好感を抱くことがあるのは当たり前のことだと思います。

でも、その当たり前って、男女共通の感覚ですよね?

つまり「男だって女だって目の前の雑事を誰かが代わりにやってくれたらありがたいし、好きになる可能性は高まる」ということです。

だから、「サラダを取り分けましょう」だの「空いた皿を下げましょう」だのの教えって、別に「女のコはこれができなきゃ♡」ではなく『男女ともに向けた教え』であるべきだと私は思います。

だから「男も女もこれが出来る人って、好感度高いですよ〜」ということで、「サラダを取り分けましょう」だの「空いた皿を下げましょう」だのが挙げてあるなら全然良いと思うんですが、なぜか「女のコなら」と限定されてるから腑に落ちないんですよ。

 なんで私が腑に落ちないかというと、多分そうやって「こまごました面倒なことをやるといい女だよ♡」と女性だけにアナウンスする意図には「男が面倒に感じるこまごましたことは、女の役目。」という、私の彼氏の考えと同じやつが透けて見えるからだと思います。

 ようするに、ああいう記事を読んだ時、私は書き手の思考回路が

「面倒な雑事をやるのは女性の役目だよね。→だから他の女のコよりもそれが出来れば、女らしいって思われるよ。→女らしさが高いほど男にはモテるよ。」

なんだろうなって思えてしまうんです。

だから、記事を読むたび前と同じように私はこの疑問がこみ上げます。

「なんで、そもそもそのへんの面倒な役目は女がやるべきことになってるの?」と。

------------------------------------

昔からある男女別しつけ

でも、考えてみるとその答えはきっとシンプルで、単に「昔からそういうものだから」なんだと思います。

つまり、ずっと昔から、男は「戦場、職場」女は「家庭」に居場所を分けられていた時代に、男女がそれぞれの場にふさわしい人間になるように躾けられてきた慣習があるからなんだと思います。

 

だからこそ20年前、カヨちゃんのお母さんは「飲み物は女の子が注いであげるといい。」と私たちに教えたのでしょう。

「女の子が注ぐといい」と言われた時、正直、何に対して「良い」なのか、当時の私にはわからなかったけど、それは「世の中にたくさんいる『女の子がそういう事をするべき』と信じてる人」にとっての「良い」なんだと思います。

 世の中には「女の子がそういう事をするべき」と信じてる男性がたくさんいるから、彼らが「良い」とする行動をして、彼らに好かれ愛されることが、女性にとっても「良い」なのよ。

きっとカヨちゃんのお母さんは、そういう意味合いを込めて、私達女子のためにご教授下さったわけで、それはきっと数多の女性向け記事と同じ意図です。

けして悪意ではありません。でも、もうそれは今の時代「女らしく」に疑問を持つ女たちを縛るものになってます。

 

私は、以前も書いたけど普段ただ「人」として暮らしているつもりで、別に自分の性別を特別に「女だ」と意識して暮らしてはいません。

でも、そうやって暮らしていた若き日、たまたま疲れていた日の飲み会で料理を取り分けなかっことを「女の役目をしなかった」と彼氏に責められました。

人間だから仕事をして帰ってきたら疲れているのは当然だと思います。

でも、彼氏からしたら、その飲み会での私が「疲れた人」として存在することは許されず、「料理取り分けの役目を果たす女」として存在しないといけないものだったんでしょう。

「なんで彼はそんな考えの持ち主に?」

と推測すると、その答えは簡単で、彼もまた子供の頃「女の子はこうするべき」と躾けられる周囲の女子を「外側から見ていた男子」だったからだと思います。

 そう、この国では女の子に「女の子の役目」を教える大人は、同時に男の子には「男の子の役目」を教えます。

食事の準備はさせなくても、男の子は男の子用に「男の子だから泣かないの。」「男の子だから怖がらないの。」「男の子だから運動や勉強が出来なきゃ恥ずかしいよ。」などと、女の子には課さない内容でしつけます。

そうやって、昔の人は「男の子は強くたくましく外で働く人間に」「女の子は可愛らしく従順に家庭を守る人間に」になるべく、子供たちそれぞれの性別に合わせた教えをしがちでした。

 

ちなみに彼氏の母親は専業主婦でした。私は1度彼の家に行った時、彼の部屋は掃除が行き届いていて、ドアの空いた妹さんの部屋は散らかっていたので、そのことを言うと、彼は「俺の部屋は母ちゃんが、掃除するから綺麗なんだよ。妹には自分で掃除するよう言ってるみたいだけど、アイツ(妹)は自分でやんねーから汚いんだ。」と言っていました。

そのことから察するに彼の母親も「娘は女だから、娘だけに家庭的教育をする」人だったんでしょう。

そういう母の教えで育った彼だからこそ、飲み会でこまごまとした雑事を女性がやることを本当に「女性の役目だ、そういうものだ」とする大人になったのだと思います。

------------------------------------

性別ごとの役目に縛られる窮屈さ

さて、彼はたまたまそういう教えを受け入れて大人になった男性ですが、世の中にはそういう「男の子用」の教えに縛られて苦しむ男性もいると思います。

私が「女の子用」の教えに縛られることが苦しいのと同様に。

私は、普段「女性が不公平な現状」を取り上げてものを書くことが多いけど、この点については、そうした「男の子用」の教えに縛られて苦しむ男子達もまた被害者側だと思います。そして思います。

 

そんなに私達は、女性なら「女らしいとされているもの」男性なら「男らしいとされているもの」からハミ出たらいけないんだろうか、と。

 男が「戦場、職場」女が「家庭」に居場所を分けられていた時代に、男女がそれぞれの場にふさわしい人間になるように教えられてきた教えを、そのまま下の世代に課していいんだろうか、と私はいつも疑問に思います。

 今の私達は、男女が同じ居場所で生きていて、男女という2分の性別にくくられない人だってたくさんいます。

今の私達の生活に必要なあらゆる活動は「性別ごとの役目」に囚われていたら、追いつかないほど多種多様にたくさんあります。

そんな世の中では「性別ごとの役目」を忘れ、その都度目の前にいる人と互いに快適に過ごせる「人」として存在することの方が私達の「役目」なんじゃないかと私は思います。

 

もちろん、家庭的でありたい女性はそれを目指すのも自由。

でも、同時に家庭的でありたくない女性が、家庭的にならない自由もあって欲しい。

「女は家庭的ではないことを恥じろ」と押し付けられる社会は、たくさんの女性に窮屈さを感じさせ生きにくくさせます。

男性も同様に「家庭的なことをしたくない」人は、自分がそう生きるのは自由。

でもそういう男性が他の男性に「家庭的なことをするのは男の恥だぞ」と押し付ける社会は、たくさんの男性に窮屈さを感じさせ生きにくくさせます。

 ようするに、古い時代の「性別ごとの役目」を果たすのも果たさないのも、個人の自由だけど、果たさないことを「恥じるべき」と押し付ける社会がそろそろ終わる事を私は望んでいるんです。

 

あの時、彼氏に言われた

「皆の前でもし俺がそういう事をして、彼女のお前がただ座ってる姿を観られんのは、女として恥ずかしくないの?」

に対してろくに言葉が出なかった私は

今ならまっとうに返事ができます。

 「恥ずかしくない。『そういうことをできない女は恥ずかしい』っていう価値観を人に押し付けることのほうがよっぽど恥ずかしいよ。」と。

 

「女のコはサラダを取り分けよう♡」記事に関して何か書こうと思ったら、思いのほか壮大な話になってしまいましたが、長々とお付き合いいただきありがとうございました。

ではまた。

 

 

Â