ヤジと下水と機械工業

集団的自衛権の行使容認というとんでもないことが閣議決定されてしまったおかげで、すでに記憶の彼方となりつつあるが、二〇一四年夏、直前に日本のメディアを騒がせていたのは東京都議会ヤジ問題だった。晩婚化対策に関して質問する未婚の女性議員に、与党席から「早く結婚しろ」「自分が産んでから」とヤジが浴びせられた件だ。ヤジ以上に謝罪の言葉がすごかった。名乗り出た発言者の男性議員は「素晴らしい方なので早く結婚してほしいと思った」とのたまい、与党幹事長まで「結婚したくてもできない人たちのために、党全体として強力な政策実現を」云々と詫びを入れる始末。まったく問題の本質を理解できていないし、さっぱり謝罪になっていない。

そういえば二〇〇七年には「産む機械」発言というのもあった。出産可能年齢にある女性、すなわち「産む機械」の数は決まっているから、あとは一台あたりの生産性の向上を、という話だ。このときの謝罪の言葉は「経済に長く携わってきたので、ついモノに喩えてしまった」云々。ちなみに同じ口からは、「結婚して子供を二人以上持ちたいと思うのが健全である」などの発言も飛び出している。

だいたい同じ話である。彼らは「男女が番いになって、子供を産み、血統を継ぐ」ことは自動的に機械的におこなわれるものと思い込んでいる。おそらくは、自分自身にそのような種付け作業の経験しかないため、想像力が欠如しているのであろう。そして「結婚」は生殖を促進するための制度という認識なので、それを選択しない人間のことは「自然に反する」者としか理解できない。あるいは、拒む理由などあるはずないのだから、何か別のものに阻害されているのではないか、と心配をなさる。御上が病理や原因さえ取り除いてやれば、「健全」な若い男女は自動的に結婚してバンバン性交して機械的に子供を産み育てるに違いない、というわけだ。便所の糞詰まりでも修理してるつもりなんでしょうな。

で、あるからして、「俺たち中高年世代がこれだけ心を砕いて晩婚少子化対策に取り組んでやっているのに、あれこれ言い訳をつけて結婚も出産もせずにいる若者は、力不足や怠慢を責められて然るべきである」という発想を根底に、「これからは、産む機械になりたくてもなれず、生産性向上に寄与できないことで肩身の狭い思いをしている(ように見える)、かわいそうな人たちにも十分配慮して、社会の糞詰まりを直します」という詫び方になるのだろう。その便器、もう新調したほうがいいと思いますけど。

わたしの心は覗けない

この問題について私は当初、「本音がどうであれ、市民の前でポリティカル・コレクトネスの一つも守れない奴には、議員職を務める資格がない」という点で怒っていた。公職に就いている間だけでも「たとえ思ってても、言わない」で黙って仕事だけしてくれたら、それで済む話だ。少なくとも私は、議会制民主主義にそれ以上を期待していない。けれど騒動が大きくなるにつれて、別の決意が頭をもたげてきた。

もし、今後の結婚生活で子供を授かることがあったとしても、この国この政権がこうした考え方からいつまでも脱却できないのであれば、そんな国では産みたくない。生まれてくる子供がどこか別の社会で生きていけるよう、出生地主義で国籍を付与してくれる他の国ででも産んでやりたい、と。だってそうでしょう。生まれてくる私の子供が、もし異性との結婚や子作りを望まない人間だとしたら、私はその望みを叶え、差別や迫害から守り、自由にさせてやりたい。我が子の幸福の多様性を奪うような環境からは孟母三遷、どこへでも脱出するしかない。

「そんなに結婚したいとは思っていなかったが、してみたら案外よかったなと思っている」私でさえ、こんな調子で結論を飛躍させるしかないのだから、「結婚しないと決めている」「もう結婚はこりごりだ」という人、あるいは文字通り「この国では法律婚をしたくてもできない」人などは、どんどん逃げていくのだろう。そして近い将来、この国に取り残されるのは「産む機械」およびその予備軍と、成れの果ての後期高齢者ばかり。バンバン産んでバンバン育ててバンバン軍事教練して死んだらまた殖やして、富国強兵、大変結構なことである。

……などと威勢のよいことを言ってみても、私だって、ある発想を前提に、ある結論を勝手に導いて、それで「自分と同じようには考えていない」人々に不快な思いをさせてしまったことは、何度もある。たとえば、長く一緒に暮らしているパートナーを持つゲイの男性に、軽い気持ちでこう言った。そんなの、とっとと同性婚しちゃえばいいじゃん、日本では無理でも、認めてくれる国はたくさんあるんだからさ! 結婚は、できるならしたほうがいいじゃん!

「あのね。オランダだろうがフランスだろうがカリフォルニア州だろうが、どうでもいいけどね。その辺りの事情については、あなたよりずっと詳しいけどね。僕たちが『結婚』を選択するかどうかは、僕たちがどんな形をした『家族』でいるかは、あなたではなく、僕たちが決めることだとは思わない?」

その晩の酩酊がすべて吹き飛ぶ、おそろしく冷静な声だった。「できる」と「する」とを履き違えるとこうなる。「できない」と「したい」とを混同するとこうなる。人はいとも簡単に、物事の順番を間違える。御上が何を配慮してくれようが、個人の幸福は、社会における法制度によってのみもたらされるものではない。

したいことがしたいわ

ヤジ問題の謝罪会見に憤りながら、さてあの晩、自分のした謝罪は本当に十分だったろうかと、カラオケスナックの暗がりに浮かんだ彼の顔を思い出す。「できるんなら、しろよ」と言った当時の私は、独身だった。自分が結婚できないのは、結婚したいと思える相手がいないからだとうそぶいていた。けれど結婚できない自分が「不幸」な分まで、しようと思えば結婚できる人たちの「幸福」を切に願っているのだと、そのように振る舞っていた。その「幸福」は私のものではないのに、私の思い描くかたちで成就することを、我がことのように求めていた。人はいとも簡単に、自分が批判する対象とまったく同じ行動をとり、指摘されるまで気づかない。

二〇一四年の夏には、女性同士のカップルが市役所に婚姻届を提出し、憲法24条第1項の「両性」という語を理由に不受理証明書が発行された、というニュースもあった。そして私の知人はまた一人、高齢出産にそなえて目の前の仕事を手早く片付け、慌ただしく産休に入っていった。子供を産むとき一瞬だけ子の父親と法律婚をして、またすぐ事実婚に戻すのだという。

受理してもらいたきゃオランダ行けよ、と思う人だっているだろう。産むためにバツつけられるとか理不尽極まりないな、と思う人だっているだろう。けれど、彼女たちの「したい」は、彼女たちが決めるのだ。何から逃れ、何と戦い、どんな欲しいものをどのように獲得するかは、みんな自分たちで決めるのだ。

既婚者の言う「結婚するって、いいものだよ」は、必ずしも「結婚しろよ」ではない。未婚者が結婚を語るとき、「まずは自分が結婚してから」と気後れする必要だってない。義理や、義務や、世間の目に対する肩身の狭さから組み上げられる制度より、個々人が最大限に幸福を追求した結果として自然と清い水が流れていく、そんな社会のありようのほうを信じていたいと、私は思う。

結婚の専門家でも戦争の専門家でもないけれど、いろいろなニュースが重なった二〇一四年夏、どうかこれ以上、「しない」権利が脅かされませんように、と願うばかりである。

<著者プロフィール>
岡田育
1980年東京生まれ。編集者、文筆家。主な生息地はTwitter。2012年まで老舗出版社に勤務、婦人雑誌や文芸書の編集に携わる。同人サークル「久谷女子」メンバーでもあり、紙媒体とインターネットをこよなく愛する文化系WEB女子。「cakes」にて『ハジの多い人生』連載中。CX系『とくダネ!』コメンテーターとして出演中。2013年春に結婚。

イラスト: 安海