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天皇陛下ご著書の装釘から『デュエマ』のイラスト、『覇邪の封印』まで! 多彩な事業を手がける1916年創業の100年企業「工画堂スタジオ」が経営危機に直面してもゲームを作り続ける理由とは!?

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 ゲームファンであれば誰でも一度ぐらいは、「工画堂スタジオ(以下、工画堂)」という社名を聞いたことがあるはずだ。だが人によって、あるいは世代によって、工画堂がどんな会社なのかというイメージは、大きく異なっているのではないだろうか。

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 1980〜90年代にリリースされた工画堂のパソコンゲームを遊んでいた人なら、『シュヴァルツシルト』シリーズや『パワードール』シリーズといった、比較的硬派なゲームを作っている会社として記憶されているだろう。

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(画像はパワードール | 配信ゲーム | プロジェクトEGGより)

 だが、2000年代以降のパソコンゲームを知っている人にとっては、工画堂は『リトル・ウィッチ パルフェ』『エンジェリック・コンサート』、さらには『蒼い海のトリスティア』といった、美少女キャラクターゲームを作っている会社という印象が残っているかもしれない。

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(画像は♪ エンジェリック・コンサート~アンコール ♪より)

 また、近年のトレーディングカードゲームや、乙女ゲーをプレイしている人の中には、工画堂のことを「美麗なイラストを制作している会社」として認識している人もいるだろう。実際にはそのすべてが正解なのだが、それだけではない。工画堂スタジオの創業は、なんと1916年(大正5年)。現在まで100年以上もの歴史を持つ、由緒正しい企業なのだ。

 かつて昭和天皇のご著書の装釘デザインも手がけたというグラフィックデザインの会社が、いったいなぜパソコンゲームを制作・販売するようになったのか。今回は工画堂スタジオの代表取締役社長を務める谷逸平氏と、同社ソフトウェア開発部 統括室長の北川貴規氏に、100年に渡る同社の歴史について、直接お話をうかがった。

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 そこで明らかになったのは、工画堂が時代の変化に合わせてさまざまな事業を手がけてきたことと、そんな工画堂が21世紀に入って、同社最大の経営危機を迎えていたという事実だ。

 経営危機を乗り越えてなお同社は、2021年11月より単話配信が開始された『スターメロディー ユメミドリーマー』にまで至る、新作ゲームソフトを作り続けている。

 その背景には、どんな時代の変化にも決してブレることのない、同社の確固たる「経営理念」が存在していた。

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聞き手/TAITAI
文/伊藤誠之介
撮影/佐々木秀二


※この記事は自社の歴史と変遷、そして新作『スターメロディー ユメミドリーマー』の魅力をもっと知ってもらいたい、工画堂スタジオさんと電ファミ編集部のタイアップ企画です。

大正時代創業のグラフィックデザイン会社が、『人生ゲーム』の企画・デザインを担当

──工画堂スタジオさんに多くの方が抱くイメージというのは、やっぱりパソコンゲームの会社だと思うんです。僕は以前に、かなり長い歴史のある会社なんだというのを聞いたことがあったのですが、じつは100年以上の歴史があるというのを知っている人は、かなり少ないんじゃないかと思います。

 そこで今回はまず、工画堂の歴史はそもそもどういったところから始まったのかというのを、ストレートにうかがいたいと思います。そこをまず押さえた上で、100年以上も続く会社がなぜパソコンゲームを作り始めて、いまも続けているのかというのを掘り下げていければと。

谷氏:
 わかりました。ただ、工画堂はすでに代替わりをしておりまして。僕は4代目の社長(2000年就任)で、入社して初めて触ったゲームソフトは、1987年発売の『サイキックウォー』なんです。パソコンゲームを始める頃の時代は、まだ学生でしたから、さすがに詳しくなくて。そのへんは口伝されている内容になります。

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──了解しました。ではまず、会社が創業されたところから。

谷氏:
 いまから5年前の2016年に100周年を迎たんですが、当社の始まりは、1916年(大正5年)、当時の屋号は「図案と版画 谷工畫堂」。これを創業したのが、僕のおじいさんの谷順三です。戦後すぐに創業者が他界し、僕の親父の谷欣伍(きんご)が、2代目の社長になりました(1948年承継)。親父は次男なのですが、創業者は親父が生まれたときから工画堂の跡取りと決めていたそうで、教育方針も何もかもそれを軸にしていたそうです。

 親父が会社を継いだ後、屋号を「工画堂スタジオ」に改称して、1960年に法人化しました。その後、「鬼羅あきら」というペンネームでゲームにもクレジットされている谷亮(あきら)が、3代目の社長になりました(1996年就任)。僕から見たところの従兄、親父から見たところの甥っ子ですね。

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──100年以上前に創業された時の業態は、どういうものだったのですか? 「図案と版画」とのことですが……。

谷氏:
 おじいさんが創業したときから「図案」、つまりグラフィックデザインをずっとやってきました。当時の仕事は「手描き製版」、いわゆる「描き版屋」といわれる職種でした。
 現在のように写真製版技術がまだない時代、製版をするのも祖父のような職人が行っていたんだそうです。印刷をするための版は、当時は石版という重たい石の板でして、それに直接描いていくんだそうです。つまり祖父の場合はデザインをして、それを手描きで製版もする、ということだったようです。いまとなっては想像もつかないですよね。そんな仕事を親父が継いで法人化したあとも、主軸になっていたのはグラフィックデザインです。

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 その当時の取引先を調べてみると、すごく堅いところが多いんですよ。労働省、日本生産性本部、日本工業経済連盟、米国国務省国際協力本部、労務行政研究所……。ほかにはヒドリ自転車、森永乳業、ライオン歯磨などなど。丸善の出版部(現・丸善出版)からの発注で、理工学書の装釘デザインをやらせてもらっていまして。
 その歴史の中に昭和天皇のご著書『相模湾産』シリーズ)があるんです。昭和天皇陛下は海洋生物のご研究者で、宮内庁の生物学御研究所からご研究著書が9冊発行されています。そのすべてを親父が装釘デザインさせていただくという、非常に名誉な仕事をさせていただきました。

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(画像は相模湾産貝類 (1971年) | |本 | 通販 | Amazonより)

──それはスゴイですね。

谷氏:
 そうですね、こういう仕事はやりたいからといってできるものではありません。それは運とか縁とか、そういうものが重なって巡り合った貴重なお仕事ですよね。

 そういった堅い仕事をしている会社に、1960年代後半のことですが、リカちゃん人形のお仕事をいただいたんです。それをやらせてもらったことで、タカラ(現・タカラトミー)さんとのご縁が結ばれました。リカちゃんのパッケージ周辺のグラフィックデザイン、パッケージはじめチラシだとかポスターだとか、そういうところをたくさんやらせていただくようになりました。のちに「バービー」「ジェニー」のグラフィックデザインも手がけています。

──そこで玩具業界との接点が生まれたわけですね。

谷氏:
 リカちゃん人形は女児向き玩具ですよね。女児向き玩具の仕事が取れたんだから、男児向き玩具もやりたいね、という話になって。たまたまそのときにタカラさんが、アメリカのミルトンブラッドレー(現・ハズブロ)という会社からボードゲームなどのライセンスを獲得してきて、それを日本でローカライズして出していくことになったんです。

 そのいちばん有名なタイトルが『人生ゲーム(The Game of Life)』です。工画堂はそのローカライズからお手伝いをすることになりました。そういう日本語化をお手伝いさせてもらうところから、男児向き玩具もご縁を持たせてもらったんです。

 『人生ゲーム』が大ヒットしたところから、「ボードゲームをもっと作ろう!」という時代になっていくんですね。当時社員だった鬼羅は、とにかくゲームが大好きだったので、「そのゲームをウチで作らせてください」と営業するわけです。それで当時、タカラから発売されたボードゲームのうち80%ぐらいの商品に関しては、すべてウチで企画・開発・デザインをやりました。『日本特急旅行ゲーム』とか『アップダウンクイズゲーム』とか。

 そのなかでも『人生ゲーム』は売れているので、『人生ゲームⅡ』だとか、『NEW 人生ゲーム』『人生ゲームロイヤル』とか、どんどん版を重ねていきますよね。『人生ゲーム』のシリーズは、ほとんどウチで作っていて。『平成版』のいくつまでだったかなぁ、『平成版8』くらいまではウチでずっと作ってきましたね。

──『人生ゲーム』のローカライズを、工画堂さんでやられていたのですか?

谷氏:
 いちばん最初のローカライズは、全部ではなくてお手伝い程度だと言っていました。でもそれ以降は、ゲームそのものを作っていくところからやっていたそうです。

──それはいわゆるグラフィックデザインだけではなくて、ゲーム自体をデザインすることも含めて、ということなんですか?

谷氏:
 そうです。遊びの部分の企画から、本当に全部やっていて。

──でも当時はゲームデザインなんて職業の概念自体、ないじゃないですか。それはどういう人たちが集まって行っていたのですか?

谷氏:
 それは当時の社員さんで興味を持ってくれた人とか、社員の友達とか、学校の後輩とか、「一緒にボードゲーム作らないかい?」という楽しそうな誘い文句に釣られた人とか、「やってみたい」という人を集めたりしていたようです。アルバイトでやってきたのがドップリとハマってしまい、そのまま当社に就職とか(笑)、結構多かったようですよ。

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ボードゲームで獲得した遊びのノウハウを用いて、パソコンゲームの制作を開始

谷氏:
 そうやってボードゲームをたくさん作ってきましたけど、ブームになると今度は衰退期が来ますよね。その衰退のきっかけに何があったかというと、任天堂の「ゲーム&ウオッチ」。それで世の中の遊びが入れ替わってしまったんです。

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(画像はゲーム&ウオッチ スーパーマリオブラザーズ | My Nintendo Store(マイニンテンドーストア)より)

──そうですね。

谷氏:
 当社は残念ながら任天堂さんにご縁がなかったんですけど、CASIOさんや学研さんが同じような製品を出していて、ウチは学研さんとちょっと取引があったので、人脈をつないでいこうじゃないかと。

 そのときに先代の鬼羅は「ウチはボードゲームを作っていくことで、ゲーム作りのノウハウを獲得した」という考え方を持った。だから、時代の流れでプラットフォームが変わったんだったら、そこに自分たちの考えるゲームを、遊びの文化を供給していこうと考えたんです。

 それで学研さんに液晶ゲームの企画、それから液晶画面のデザインですよね。そういったものを一緒になって提供していくっていうことを、しばらくやりました。

 何年かすると、液晶ゲームのブームもまた衰退していく。「じゃあ次はなんだ?」と。それが1980年ぐらい。Apple IIが発売されて『ウィザードリィ』とか『ウルティマ』だとかが世の中に出始めていく時代ですかね。そこで新し物好きの鬼羅が「これからはパソコンでゲーム作りをやろうじゃないか」というようなことになって。

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By Orion Blastar – Own work, CC BY-SA 3.0, Link

──いよいよパソコンゲームを作り始めるわけですね。

谷氏:
 今回、事前に取材の質問状をいただいて、僕もいろいろ考えてみたんです。プログラマーの永井知彦さんという方が、鬼羅と一緒に工画堂のソフトウェア開発部を作ったんですけど、「なぜ永井さんがウチに入社したのかな?」と。親父も鬼羅も亡くなっているので、知っている人を探して取材まではできなかったのですが。

 ウチの親父はグラフィックデザインの仕事をしながら、長いこと東京学芸大学で教鞭を取っていたんですよ。そのときに教えた人たちがいま、ウチの役員やっていたり、要職に就いていたりするんです。

 じつは永井さんも学芸大出身なんです。当時、永井さんが課題で、パソコンを使ったプログラムを制作していて。それが『Emmy』【※】の原型だったんです。永井さんは「人工無能」的なものに興味を持って、それを作っていたんでしょうね。

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※『Emmy』
キーボードで文章を入力することで、AIの女性キャラクター「エミー」との会話を楽しめるソフト。「人工無能」と呼ばれる、現在のチャットボットの原型のようなAI技術が使用されている。

──そこが『Emmy』につながるんですか!

谷氏:
 そうなんです。 おそらく学芸大つながりで、ゲームソフト開発をやろうとしている鬼羅に、永井さんを引き合わせてもらったんじゃないかと思います。

 その後、永井さんが作った『Emmy』の原型に当社でCGを付けたりして、ある程度形になったところでアスキーさんに持ち込んだんじゃないかなと。ただ、「それ自体をアスキーさんで売りましょう」ということではなくて「アスキーの開発部隊で作り直しをする」というふうに、資料には書かれていますね。

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 PC-8001版『Emmy』のときはアスキーさんで作り直したんだけれども、できあがったものが作り手としては不本意な感じだったらしく。「やっぱり自分たちのアルゴリズムで作りたいよね」となって、『Emmy II』を作ったようですね。

  なので、まずボードゲームによってゲーム作りのノウハウを獲得して、液晶ゲームに遊びを提供して。それがまた時代の変遷とともにパソコンと入れ替わったときに、「パソコンゲームとして遊びを提供しよう」という考えのもとに研究開発を始めて、それを結実させたんだなと。

──パソコンゲームの初期の時代から、工画堂さんはビジュアルが強い会社だという印象が強くて。

谷氏:
  そうですよね。よくそのようにご評価いただいておりました。

──で、もともとはかなり古い会社だというのも知っていたので、おそらくデザイン文脈の会社なんだろうなと思ってはいたんです。でもなぜそこでゲームに? というのがずっと不思議だったんですけど。いまのお話を聞くと、むしろめちゃくちゃ綺麗な文脈があって、逆に驚きました。

 そうなるとある意味、日本でも最古のゲームデザイン会社という見方もできますよね。ボードゲームから手がけてこられたということで。

谷氏:
 そうですね。ただ『人生ゲーム』よりも前に、それこそ「花札」だとか、平安時代の「貝合わせ」みたいなものも、歴史の中にたくさんあったわけで。そう考えると「最古の」というのはどうなのかな、という気はします(笑)。でも最近の、近代においての「ゲーム」にずっと関わってきたというのは、嘘じゃないだろうなと。

──『Emmy』はアスキーに持ち込んだとのことですけど、1985年の『コズミックソルジャー』からは工画堂スタジオによる自社ブランドでの販売になりますよね? それはどうしてですか?

谷氏:
 ウチはグラフィックデザインというBtoB(Business to Business)の仕事をずっと長くやってきて。先ほどお話ししたように、ボードゲームの多くを、当社で企画・開発・デザインした時代もあったんですけど。でも当時は「ウチがほとんど創っている」と言っても、安々とロイヤリティが獲得できる文化でも、時代でも無かった」んだそうです。

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──えっ!? ということはロイヤリティじゃなかったんですか?

谷氏:
 それが当たり前の業界でしたからね、依頼をしてもそう簡単ではなかったようです。

──ええーっ!!

谷氏:
 もう本当にデザイン料、企画料だけをもらって、作って終わりっていう。だからこそ、現場もやっていた鬼羅たちは「自分たちが作った創作物をもっともっと広げていくことができないものだろうか」という夢を持ったんですよ。

 それが時代に乗っかってパソコンゲームをやるようになって。最初はアスキーさんのOEM開発をするという時代が3年ぐらいありましたけれども、パソコンゲームは業界自体が若いじゃないですか。「自分たちでタイトルを世に出したいです」という話をすると「応援するからぜひおやりなさい」と言ってくれる。そういう文化を持っている方々だったんですね、アスキーの方たちは。それで初めてBtoC(Business to Consumer)のオリジナル商品を作る部隊になった、という変遷があるんです。

グラフィックデザインで培われたビジュアルによって、ほかのパソコンゲームと差別化

──谷社長ご自身は、工画堂スタジオのゲームとはどのように関わられていったのですか?

谷氏:
 僕自身は最初からソフトウェアに入った人間じゃなくて。むしろおじいさんの流れを汲んだグラフィックデザイナーとして、工画堂に入ったんです。入社当時は丸善の理工学書の装釘デザインを、何冊もやっていました。

 ところがゲームソフトが売れるようになって、人手が足りなくなってきた。広報も鬼羅がそのままひとりでやったりしている。だから「お前、こっちに来い」と、ソフトのほうに移されました。ちょうど『覇邪の封印』がすごく売れた時期です。

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『覇邪の封印』
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『覇邪の封印』

 でも、僕はデザイナーあがりなんで、プログラムは組めない。開発のことなんにもできないわけですね。じゃあ開発以外のことは全部まとめてやれ、ということになって。そこからは印刷物の制作・発注・進行管理なんかも全部やりましたし、期末にはデュプリケーターメーカーに僕が出かけていって。

 作ったゲームの在庫は全部自前で管理しなきゃいけないので、在庫管理や棚卸しまで自分の仕事。それで、新作が出る時には僕が広報として、ゲーム雑誌の編集部をお訪ねして、「載っけてください」と記事のお願いするというようなことをやってきました。渉外を担当しているのでJ&Pさんとかニノミヤさんとか、ラオックスさんとか、全国のお店も回りましたよ。

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  ただ幸いだったのは、外に向かって話をするのは非常に好きだったし。丸善さんでトップクラスの印刷現場に接することができたので、印刷物に関してはちょっと申し訳ないけど、そのへんの編集者の方よりもずっとうるさいっていう(笑)。そういったことが重なって、僕自身はつねに開発「以外」をやる、営業の主軸の人間という立ち位置で、ずっといたという形になりました。

──そんな谷社長からご覧になって、パソコンゲーム黎明期の工画堂スタジオの作品の特徴は、どんなものだったのでしょうか?

谷氏:
 僕が広報をやっていたときにセールストークで使っていたのは、ウチはやっぱりグラフィックデザインの会社で長くやってきているから、「グラフィックは得意なんですよということはけっこう言っていました。

 実際には、8色とか16色で描かれたものが美しいわけはないんですよ。ところがパソコンゲーム黎明期の他社さんは、正直を言うと「社長がプログラムに興味があって、そこから作り始めた」とか、そういった会社が多かったんです。だから「絵は描けないけどプログラムが好きだったから作ったよ」とか、「仲間にちょっとグラフィックを描かせたよ」みたいなゲームが多かった。そこは差別化できるなと思って、セールストークで使いましたね。

──僕もパソコンゲーマーでしたけど、その当時の御社のゲームは「キャラが大きい」っていうイメージがすごくあるんです。発色も綺麗だし、キャラも大きいというのが、ほかのゲームと比べてすごく印象に残っていました。

 あとはパッケージが格好良かったな、という記憶がありますね。あとはやっぱり『覇邪の封印』で、布製のマップやフィギュアがついていたのも、ほかにはないインパクトで。

谷氏:
 ありがとうございます。でも「ウチはもっとカッコイイ!」って、日本ファルコムの加藤会長に言われちゃうかな(笑)。

一同:
 (笑)。

谷氏:
 『コズミックソルジャー』は、先代の鬼羅が原案を考えているんですが、『覇邪の封印』はのちに『シュヴァルツシルト』を作ったディレクターが原案を考えているんです。このディレクターは阿賀信宏さんというんですけど、彼はその後の角川メディアオフィスで展開されていた、『魍魎戦記MADARA』の世界観設定を担当した人間なんですよ。

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(画像は「MADARA ARCHIVES 1 魍魎戦記MADARA(1)」 田島 昭宇 with MADARA PROJECT[ボーンデジタル] – KADOKAWAより)

──そうなんですか!

谷氏:
 『覇邪の封印』で布製マップとメタルフィギュアを付けたりしていたのも、ボードゲームをやってきた人たちが寄ってたかって、「普通のパソコンゲームとは違うものを作ろうよ」と発想した結果だったりするんです。そこがそもそも工画堂って、スタートの時点で違うところだったんだなぁ、というのは改めて思いました。

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 ……まぁね、「コピー防止のプロテクションでしょ」という話のほうがわかりやすいんですけど(笑)。とはいえ、「ほかのゲームはパソコンの中だけで完結しているから、そうじゃない遊びも提供しよう」と言っていたというのは、嘘ではありません。

「自分の好きなものを作る」から生まれた、美少女キャラクター路線

──工画堂さんのパソコンゲームには、なんていうか、前期・後期みたいなものがあるなと思っていて。最初は『覇邪の封印』とか『シュヴァルツシルト』とか『パワードール』とか、わりと硬派なRPGやシミュレーションといったイメージで。それが2000年代以降、『リトル・ウィッチ パルフェ』とか『蒼い海のトリスティア』とか、ちょっとオタク向けコンテンツみたいな作品に変わっていくじゃないですか。そこにはいったい何があって、どういう方針の切り替わりがあったのかなと。

谷氏:
 いろいろ考えてみたんですけど、結局は「自分たちがほしいものを作る」「自分たちが遊びたいものを作る」という、もうそれなんです。それって戦略でもなんでもないじゃん? って感じなんですけど(笑)。でも「自分たちのほしいものこそがマーケットのど真ん中」って、作り手とほしがる人たちがピタッと合っている時代だったんですよね、当時はきっと。だからそれが成立したんだろうなと思います。

 もう少し具体的に「好きなものを作っていく」流れの中で何が起きていたかというと。ソフトウェア開発部に貝阿弥という人間が入社してくるんです。

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──のちに「くろねこさんちーむ」の中心になる鳥越久朗さんですね。

谷氏:
 そうそう。鳥越がキャラクターゲームだとか、いわゆるオタクゲームが好きという人だったんです。

 それまでは『パワードール』や『シュヴァルツシルト』みたいなゲームを作ってきた会社だったんだけれども、永井チームでキャラクターゲーム的なものを企画したんです。その作品のシナリオに彼を起用したと聞いています。「そういうのが好きなんだったら、ちょっと考えてみてよ」といった形で示唆されたのかもしれません。深く関わって制作した初めてのタイトルが、1999年に出た『リトル・ウィッチ パルフェ』だというわけです。

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(画像はリトルウィッチ パルフェ-黒猫魔法店物-より)

──工画堂さんのあの路線は、そこがスタートなんですね。

谷氏:
 『リトル・ウィッチ パルフェ』はゲームとしては主人公パルフェのお母さんが借金を残して死んじゃって、魔法薬を作ることでお金を稼いで返済していくという、経営シミュレーション要素のあるゲームなんです。その仕組みを次の『リトル・ウィッチ レネット』『お花畑のフローレ』、さらには『ハートフルメモリーズ 〜リトル・ウィッチ パルフェ2〜』までうまく利用しながら、3部作、4部作にしていったんですけど。

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(画像は【ダウンロード販売ソフト】 リトル・ウィッチ レネット – オムニショップより)
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(画像はリトル・ウィッチ パルフェ2より)

 ただ表面的には、「堅いゲームを作っていた会社がキャラクターゲームをやり始めたぞ」という感じに見えたとは思います。

──ということは、会社の方針として舵を切ったというよりは、入ってきた社員の個性に合わせた結果そうなった、という形なんですね。

谷氏:
 うーん、少なからず開発チームとしての方針があってのこととは思いますが、そのときのスタッフの嗜好とかは考慮しているはずです。「そういうヤツがいるから、じゃあそれをやろう」と。

──鳥越さんが入社してから、ご自身のゲームの企画を立ち上げるまでには、時間がかかったのですか?

谷氏:
 さすがに入社してすぐではないですね。1~2年ぐらいはかかったと思いますよ。入社当時はその時に制作中の作品のお手伝いから関わるのが普通ですからね、まずはテストプレイからっていうのは、ほかの会社さんも同じじゃないかな。

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──逆に言うと、2年ぐらいで作れたんですね。

谷氏:
 そうですね。彼はのちにコンシューマ開発室になっていくチーム、さっきの永井さんのチームの下に入ったんです。そのときに鳥越と同時に入っているのが、竹内なおゆきという人間で。彼はその後、「くまさんちーむ」で『蒼い海のトリスティア』を作るんです。だからキャラクターゲームの作り手たちが、ちょうどこの時期に集まってきた。なんで同時に集まってきたのかは、正直よくわからないですね(笑)。でも、そういった適性を持った人材が居たので、チームとしてもそういうものをやってみよう、と考えたはずです。

北川氏:
 恐らくelfさんの『同級生』などをはじめとして、いわゆるパソコンのエロゲーが大きく注目されるようになったのが、1995年ぐらいからですよね。その後、ノベルタイプのギャルゲーがワーッと出てきはじめて、コンシューマ市場にもそれが展開される、みたいな感じになってきて。ちょうどそのタイミングで「自分もそういうのを作ってみたいな」と思っていたのが彼らだったのかもしれませんね。

谷氏:
 いま、北川からも話題が出ましたけど、アダルトゲームをやる・やらないというのは、会社の判断としてすごく大事なところだったんです。もう世の中はテレビゲームとパソコンゲームとがわかれた瞬間に、あっちは子どもたちが遊んでいいゲーム、こっちはアダルトをやる人たちの市場、みたいな感じで勝手に位置づけられてしまって。

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 ただ当社としては「アダルトはやらない」という考え方を持っていた。それはなぜかというと、ウチはグラフィックデザインをやっているときに、天皇陛下のご著書に携わるお仕事をしていますから。昔は「天皇陛下からリカちゃんまで」というキャッチフレーズを、本気で使っていたぐらいなんですよ(笑)。

──それを、今回の記事の見出しにも使いたいんですけど(笑)。

谷氏:
 いいんじゃないですか。嘘じゃないですから。そういうところでおそらく、自浄作用もあったんじゃないかなと、僕は考えました。まだ先代社長のころのことなので、定かにはわかりませんけど。

──あと、これもけっこういろんな人が疑問に思っているはずなんですが、工画堂さんは「くまさんちーむ」とか「うさぎさんちーむ」とか、開発チームの名前が非常にユニークですよね。なぜああいうチーム名なのかな? という素朴な疑問があるんです。

谷氏:
 いちばん初めにできたのは「ねこさんちーむ」です。これは『シュヴァルツシルト』を作るときにつけられたんですけど。

 当時は『覇邪の封印』がヒットして、その次に『サイキックウォー』を作って、それがまたそこそこ安定してきて……という感じで、ソフトウェアの事業がだんだん伸びてきた時代なんです。そうすると当然、もうちょっと制作ラインを持ちたいよねということで、2ライン化を言い始めた時期なんですよ。

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(画像はサイキックウォー | 配信ゲーム | プロジェクトEGGより)

──なるほど。

谷氏:
 2ライン化になった時に、片方のチームが『シュヴァルツシルト』の企画を始めて、もう片方のチームは『原宿AFTeR DARK』を作っていました。だけど『シュヴァルツシルト』は開発がたいへんで、必要なものがなかなか出てこない。なので、そのあいだを埋める何か適当なサイズの企画はないかと考えたのが、『アルギースの翼』です。

天皇陛下ご著書の装釘から『デュエマ』のイラスト、『覇邪の封印』まで! 多彩な事業を手がける1916年創業の100年企業「工画堂スタジオ」が経営危機に直面してもゲームを作り続ける理由とは!?_029
(画像は原宿AFTERDARK | 配信ゲーム | プロジェクトEGGより)
天皇陛下ご著書の装釘から『デュエマ』のイラスト、『覇邪の封印』まで! 多彩な事業を手がける1916年創業の100年企業「工画堂スタジオ」が経営危機に直面してもゲームを作り続ける理由とは!?_030
(画像はアルギースの翼 | 配信ゲーム | プロジェクトEGGより)

 こっちのチームは『アルギースの翼』が最後。もうひとつのチームは『原宿AFTeR DARK』が最後。次に『シュヴァルツシルト』が出てきたときには2チームになっているから、もうひとつのチームと区別をしようと、『シュヴァルツシルト』チームの人たちが「ねこさんちーむ」という名前を冠したんです。

 「なんで“ねこさんちーむ”にしたんですか?」って、当時もいろんな人に聞かれて。そのときにチームのプランナーをやっていた阿部和広、ずっとあとにソフトウェア開発部の部長になるんですけど。その阿部が、猫が好きだったから。それだけの理由です(笑)。

一同:
  (笑)。

谷氏:
 猫好きだったからという、ただそれだけで「ねこさんちーむ」にしたと。もうひとつのほうはチーム名を冠していなかったんですけど、その後にだいぶ経って、スタッフも入れ替わりがあって、『パワードール』を開発するチームが「自分たちもチーム名を作りたい」という話になった時に、そこが「うさぎさんちーむ」になりました。

天皇陛下ご著書の装釘から『デュエマ』のイラスト、『覇邪の封印』まで! 多彩な事業を手がける1916年創業の100年企業「工画堂スタジオ」が経営危機に直面してもゲームを作り続ける理由とは!?_031

──では当初は表に出すチーム名ではなく、あくまで社内での呼び方だったのですか?

谷氏:
 いやいや。「ねこさんちーむ」は『シュヴァルツシルト』のオープニングで名乗っていますから。工画堂スタジオのロゴの上に、猫が1匹いて。

──そうなんですね。

谷氏:
 しかも『シュヴァルツシルトII』の時には、猫が2匹になっているんですよ。おまけにアニメーションまでする。『III』では3匹で(笑)。そうすると『IV』の時には4匹になるのか、って話になるじゃないですか。「そんなオープニングのチームロゴに容量を使ってどうするの」っていう論争が、本気で起きて。結局、オープニングのためだけにフロッピーディスクをまるまる1枚使ったっていう(笑)。

──PC-9801の時代ならではのエピソードですね(笑)。

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