チャーマーズ「概念工学を概念分析し、概念工学する」の要約

[]はぼくによる補足です。

「」は引用ではありません。

太字は原文を反映したものではありません。

 

David J. Chalmersによるメタ哲学の論文What is Conceptual Engineering and What Should It Be?の要約です。エントリー名の邦題はだいぶ意訳しました。Chalmersは心の哲学領域で重要な仕事をしている人。最近新しい邦訳書『バッド・ランゲージ 悪い言葉の哲学入門』(未読)が出た。

以下、アブストの訳の後から要約。

概念工学は概念の設計・実行・評価である。概念工学には、新概念工学(de novo conceptual engineering)、概念再工学(conceptual re-engineering)が含まれる、あるいは含まれるべきである。また、概念工学には異名概念工学(heteronymous conceptual engineering)と同名異義概念工学(homonymous conceptual engineering)も含まれるべきである。私はこれらの類の概念工学の、哲学をはじめとした諸分野における重要性と難しさについて論じる。

 

本稿は、まず概念工学という概念について議論するところからはじめ、概念工学をいくつかに分類分けしたうえで、「概念工学はもっと広い意味で理解されるべきだ」と論じる。そして、この枠組みを「概念多元主義」の問題や概念工学の重要性と難しさと問題に適用したりする。

概念工学とは何か?

概念工学とはなんだろうか?我々は定義の探究から出発することができる。私はWhat is X?よりもWhat should X be?の方が重要性が高いという見方にコミットしているが、定義とIsクエスチョン——つまり、概念工学の概念分析——から始めることは、shouldクエスチョン——つまり、概念工学の概念工学——に取り組むための便利な踏み台になるだろう。

概念工学の定義のために、「工学」の定義を漁ってみよう。工学の定義は土木工学や電気工学など様ざまな分野で提示されているが、それら雑多な定義の基盤となっているコアの定義がある。

そのコアの定義とは、「工学とは知識や原理を、対象の設計・構築・分析に用いるプロセスのことである」というものだ。他の雑多な定義たちはこれに要素を付加していくものだ。

これを踏まえると、概念工学とは「概念の設計・構築・分析のプロセス」だという事になる。が、哲学の文脈だとanalysisには含意がありすぎるのでevaluateに変更しよう。また、物体ではなく概念の話なのでbuiltではなくimplement(実行する)に変更しよう。というわけで、我々は以下のような定義を得た:概念工学とは概念の設計・実行・評価のプロセスである。概念工学のisクエスチョンの最初の一歩としては悪くない定義だ。

この定義によって、概念工学にはいくつかの大まかな段階・タイプがあることがわかる。

まず、設計段階。我々は定義を与えたり、あるいは推論のための役割を与えたり、範例を与えたりして、概念を設計する。

そして、実行段階。概念を実際に使ってみること。カペレンは「概念的アクティヴィズム」と呼んでいる。

そして、評価段階。その概念がどれだけ便利か、どれだけ重要な役割を負えているかという評価をすること。

この三段階は例えば橋の工学にも見られる。橋を設計し、それを実行し、その橋がうまいこといっているかを評価する。もしその評価が良くなければ、何らかの修正を設計し、それを実行する。これはソフトウェア工学にも見られる。プログラムを設計し、実行し、評価する……プログラムの工学はこれの繰り返しだ。もちろん実際にはこの三段階は複雑に撚り合わさっているものであり、例えば評価なしの設計や設計なしの実行などは考えにくい。

(ちなみに私はソフトウェアのアナロジーが気に入っている。というのも工学の対象が抽象的対象であることに伴う懸念を払拭できるからだ。抽象領域の対象を工学するとはつかみどころのない説明のむずかしい営みだが、プログラムが抽象的なものであり、かつプログラムを工学すると普通に言えることから、概念工学が抽象対象を工学するということに由来する問題を回避できそうだ。プログラムが工学されうるように、概念も工学されうる。ともかく、ここでは抽象VS具体みたいな議論は回避しておこう。)

そんなことより重要なのは、工学の営みの一種である創造(creating)と修正(fixing)の区別である。橋の創造において、我々は橋の設計と実行をゼロから始め、その後で評価をする。橋の修正において、我々は橋を評価してからその修正の設計と実行を行う。どちらも工学の中心的な営みであり、これは概念工学にも当てはまる。そして、この創造と修正の区別こそ、私がフォーカスしたいものだ。概念工学は創造ではなく修正だと提案している理論家もいるが、私は概念の創造も含めるような、より広い理解がなされるべきだと主張するつもりだ。

より一般的にいえば、私は「概念工学は概念の設計・評価・実行のプロジェクトとして理解されるべきだ」と提案する。私は別に概念工学の必要十分条件を提示しようとは思っていない。例えば三段階の全てが必要なのか、それかひとつでいいのかについては、3つの段階はそれぞれ単独でも概念工学の重要で弁別的な方法であるが、3つが組み合わさった時、最もパワフルな概念工学になると考えている。概念修正のプロジェクトと概念創造のプロジェクトはどちらも3つの方法を含み、私はどちらも概念工学としてカウントされるべきだと考える。

概念工学の例としてはこんなのがある

創造的な概念工学・修正的な概念工学の範例をそれぞれいくつかあげよう。例は哲学の分野から引っ張ってくることにする。概念工学はどんな分野でも見られるものだが、読者の多くは哲学研究者だろうし、私も良く知っている分野からだ。

まずは形而上学。私は「付随性」は概念工学の範例だと考える。付随性とは以下のようなものだ。すなわち、性質のクラスAが他のクラスBに付随するとは、クラスAの性質を複製するとクラスBの性質も複製されることになる、というものだ。この概念は20世紀の研究史を通して工学されてきた——まずムーアが付随性と名付けることなく考案し、ヘアが名前をつけ、デイヴィッドソンやキムをはじめとした論者がさらに肉づけしていったのだ。これは概念工学の範例といえよう。そして、付随性という概念は、例えば「同一性」のような旧概念に取って代わるものだと考えられていたが、のちに付随性概念はうまいこといかないと気づき、根拠づけ(grounding)のような新たな概念が導入された。こうした新概念の導入は、概念工学の創造モードである。逆に修正モードの方は、アミ・トマソンによる「存在」についての研究がそれだと思う。トマソンは、存在・対象という概念について、そのどちらがより役立つかというプラグマティックなアプローチを仕掛けている。

概念工学の創造モードは言語哲学の至る所に見られる。「意味値」や「意味」といった概念は工学されたものである。カルナップの「意図」、フレーゲの「意味」、グライスの「含意」、クリプキの「固定指示子」といったものも、概念工学の創造モードの産物である。一方修正モードの方は、「真理」概念についての研究にたくさん見られる。カルナップにおいては、タルスキによる真理の「解明(explication)」が概念工学と見なされ、真理は解明の中心的な例として挙げられている。もっと最近でいえば、ケヴィン・シャープが、真理は矛盾した概念であるとして、上昇真理(ascending truth)と下降真理(descending truth)という代替概念を提案している。[←これは概念工学の修正モード]

心の哲学からも概念工学の例をあげよう。ネド・ブロックは範例的な概念工学者だ。彼の意識(consciousness )の機能の研究によれば、「意識」概念は色々と問題含みでいろんな要素が絡まり合ってしまっているため、彼はより正確で含蓄のある「アクセス意識」という概念を提示している。また、ハーマン・カペレンは概念工学研究の本において、私とアンディ・クラークによる「拡張された心」についての論文を、「信念」概念の概念工学だとして、概念工学の範例としてあげている。確かに信念は、カルナップなどの論者がかかわるかたちで、1940〜50年代からの概念工学の代表的な例である。より最近の例でいうと、テイマー・ゲンドラー(Tamar Gendler)が、信念に近い[そして信念よりプリミティブな]新たな概念として「alief」概念を工学している。

また、社会哲学にもたくさん例がある。我々は、工学された概念によって、今まで見逃されてきた現象を指摘することができたり、議論の中から概念をピックアップできたりする。ミランダ・フリッカーによる認識的不正義・証言的不正義・解釈的不正義についての研究はこうした概念工学の一例だ。また、サリー・ハスランガーによるジェンダーや人種についての研究、たとえば抑圧という観点からの「女性」概念の分析もそうである。ハスランガーが「改善のための分析(ameliorative analysis)」と呼ぶものは、社会正義などの目的を果たすための改訂的なモード(revisionary mode)による概念工学の一例だ[改訂的モードは修正的モードと同義ではなく、創造・修正にかかわらず、何かを変えるための概念工学のことだと思う]。概念工学のこうした何らかの改善に役立つ側面は、最近の社会哲学においてよく指摘されるものである。ケイト・マンによる「ミソジニー」概念の改訂的分析もこの一例だろう。

この論文が属するメタ哲学の領域においても概念工学は盛んに見られる。カルナップによる「解明」論は、それじたい概念工学の優れた一例だろう。解明概念は新しく、かつ便利な概念だ。また、「概念工学」という概念自体も優れた概念工学の一例だ。(ちなみに、概念工学についての最近の研究では、「概念工学」という言葉は1999年サイモン・ブラックバーンの考案だと言われることがあるが、本当は1990年リチャード・クリースによるカルナップ研究で生まれたものである。一方カルナップ本人の研究においては、概念工学は盛んに見られるものの、カルナップ本院は「概念工学」という言葉自体な一回も使っていない。ともあれ、概念工学それ自体、便利な概念工学のモデルケースである。)

新概念・工学vs. 概念再工学

概念工学の創造モード(新概念工学)と修正モード(概念再工学)との対立について考えてみよう。カペレンの概念工学観は再工学の方に緊密に結びついている。カペレンのより詳しい概念工学の定義は、我々の不完全な表象装置の評価(assessing)と改善(improving)だ、というものだ。私は、これも概念工学の一部だと思う。例えば橋の工学では欠点のある橋を修正し改善する工学が行われるし、ソフトウェア工学でもプログラムに対して同じことが行われる。しかし、こうした修正モードだけが概念工学なのではない。修正モードは概念工学の、最も重要なパートでもなければ、最もエキサイティングなパートでもない。修正・改善だけでなく、新しい橋やプログラムを築き上げる(build)営みもあるのだ。これこそが橋の工学・ソフトウェアの工学の範例ケースだと私は言いたい。このような創造モードを概念工学から排除するのは奇妙なことだ。カペレンもこうした営みの可能性は認めているものの、「それは私の関心ごとではない」みたいなことを言っている。まあそれもいいだろう。だが、私は創造モードこそが我々の注視に値するものだと考える。

新概念工学と概念再工学との線引きについて考えよう。新工学は新しい橋・プログラム・概念などを築き上げることである。いっぽう再工学は古い橋・プログラム・概念などを修正したり置き換えたりすることである。ただ、両者の線引きはいつも容易なわけではない。例えば、ニューヨーク・ハドソン川に架かるテッペン・ズィー橋と同じ場所に新テッペン・ズィー橋を建てて、古いものと置き換えるケースを考えよう。このとき、これは新しい橋が作られた以上「新工学」なのか?それとも、古いものを置き換えている以上「再工学」なのか?私としては、これを再工学としてカウントしようと提案したい。なぜなら、新しい橋は古い橋を修正するために作られたからだ。同様に概念再工学についても、その要点は既存の概念の修正にある。この境界線をどう引くかについては議論の余地がある。

最近の概念工学をやっている研究を見ると、多くは概念再工学の方をやっているようである。カルナップ流の「解明」をしている研究はまさに再工学をしているし、信念や真理、フェミニズム研究や人種研究でも再工学が多い。

一方、私が上で挙げた例の多くは新概念工学に見えるものが多い。認識的不正義、付随性、固定指示子、そして概念工学そのものは、何か特定の既存の概念の修正・置き換えを目指したものではなく、創造モードである。「付随性は「同一性」の置き換えを目指した概念じゃないか」と思う人もいるかもしれないが、それは正しくない。というのも、同一性という概念は古い橋やプログラムと違って現役だからだ。付随性が同一性に取って代わったのはごく一部の還元的プロジェクトにおいてのことでしかない。また、「概念工学という概念は「解明」の置き換えじゃないか」という人もいるかもしれない。しかし、それは筋の良い考えではない。その精神は新工学——つまり、修正というよりも構築(bulding)にある。概念工学は解明よりもよりgeneralは概念だろうが、だからといって解明概念を放棄する必要はない。どちらの概念も現役である。

私の提案は、「概念工学は新概念工学と概念再工学のどちらをも含んでいるし、含むべきだ」というものだ。私はこの規範的なshouldの主張に自信を持っている。もし仮に、現在のこの言葉の使われ方を観察した結果「「概念工学」という言葉はどちらもカバーしているわけではない」ということが分かったとしたら、私は概念工学の概念再工学を行うことにしよう。それでも別に構わない。概念再工学だって重要な概念工学の一例なのだから。しかし、私自信の見解としては、「概念工学」はどちらをも含んでいると考えている。根拠の一つとしては、概念工学を「概念」と「工学」に分解したうえで、「工学」概念は明らかに新工学も含んでいるため、概念工学が新工学を含まないのは不自然だから、というものがある。

私は間違っているのかもしれない。もしかしたら、最近の「概念工学」という語の使われ方が再工学に偏っているため、「概念工学」という語の意味は再工学の方に偏っているのかもしれない。したがって、私は記述的[↔️規範的]な意味論的主張にこだわりたくない。これは概念工学についての言葉ベースの論争(verbal dispute)[↔️概念ベース]に過ぎない。いっぽう、規範的主張を支えるのは言葉ベースでない論点(nonverbal point)である。つまり、概念工学は新概念工学を含むべきだ——というのも、新概念工学は概念再工学と一体のものであり[?]、かつ、概念再工学と同じくらい重要なものだからだ。

以前「言葉ベースの論争」という論文でも述べたように、我々は言葉にこだわりすぎるべきではない。とはいえ、言葉が全く重要でないということでもなく、例えば実践的な目的においては言葉は重要だ。

「概念工学」という言葉について考えよう。(私はこの言葉が新概念工学もカバーするものだと考えているが、もしあなたが新のほうは概念工学の意味には含まれていないと考えるならば、概念工学は概念新工学をカバーするべきだと主張しよう。)名づけにはカペレンが「語彙効果(lexical effect)」と呼ぶ力があり、これはたとえば「造語」みたいな普通の言葉には宿っていない。「概念工学」という言葉でやっていき、かつこの言葉を新工学も含めるより広い使い方をしていくことによって得られるものは大きい。

同名異義概念工学と異名概念工学

では、概念工学と言語工学(linguistic engineering)の違いについて考えよう。しばしば両者は同じ意味のフレーズとして使われる。確かに、概念工学が行われているところではほとんどどこでも言語工学が見られる。新概念の提案にはそれに伴う言葉の提案がつきものだからだ。では、我々は新しい言葉や古い言葉を、新しい概念や古い概念を表現するために、どのように用いるべきなのだろうか。

言語的モードにおいては、同名異義概念工学(homonymous conceptual engineering)と、異名概念工学(heteronymous conceptual engineering)がある。同名異義的であるとは、同じ言葉を用いた言語工学ーー古い表現に対して新しい意味を付与するということだ。「女性」「ミソジニー」「真理」などは、元からある言葉に新たな意味を付与しているので同名異義的だ。同名異義概念工学は概念再工学でよく見られる。つまり、その言葉で表された古い概念を、言葉じたいは変えずに修正するのである。では「付随性」は同名異義的概念工学だろうか?確かにsupervenienceという言葉じたいは付随性研究以前にも違う意味で存在していたが、私はこれを同名異義的だとは考えない。なぜなら、このケースでは、古い「付随性」概念を修正して形而上学に取り込んだというよりも、むしろ偶然の一致であるからだ。

異名的概念工学は、新しい言葉による概念工学だ。たとえばネド・ブロックは「意識」概念の再工学において、「アクセス意識」という概念を提出している。ブロックは「アクセス意識という概念を表すために「意識」という古い言葉をそのまま使いましょう」(これは同名異義的)と言う代わりに、「接頭辞を追加した「アクセス意識」を使っていきましょう」と提案している(接頭辞という戦略は、古い概念との連続性を保ちつつ再工学ができるので、哲学者によく使われるものだ)。また、接頭辞を使わないケースでいうと「付随性」や「概念工学」も、異名的概念工学の例である。

既存の概念工学をしている研究の多くは同名異義的概念工学だが、私は異名の方も同じくらい興味深いものだと考えている。なぜ興味深いかの理由の一つとして、例えばストローソンがカルナップ流の解明に対していうような、「あなたは主題を変えているだけではないか?」という批判にいくぶんか強度を保てるというのがある。異名的概念工学はこの問いに対し、「はい、変えています。こっちの主題の方が興味深いし重要です」と答えるだろう。また、意味のコントロールについても異名概念工学は懸念が少ない。既存の言葉を使ってしまうと、その言葉を使っている社会の慣習に意味が引っ張られ、誤解を生む可能性が高まるが、新しい言葉を使えばそのような認識のずれは生まれにくい。

しかし、同名異義的概念工学と異名的概念工学との間の違いはどうして重要なのだろうか?私は以前「言葉そのものはさして重要ではない[言葉ではなく概念を考えるべし]」といったことがあるが、それならばなぜ新しい言葉を使うか古い言葉を使うかがそんなに重要になるのだろうか?ここで、理論的なプロジェクトと実践的なプロジェクトを分けるのが重要だ。理論的目的においては、同名異義的であっても異名的であってもさして変わらない。単なる言葉の違いでしかないのだから、新旧どちらの言葉を使ったって違いはない。「言葉ベースの論争」でも述べたように、理想的な思考者(ideal reasoner)にとっては、両者の違いはどうでもいい。

しかし、我々は理想的な思考者ではない。我々は言葉に考えが引っ張られがちだ。したがって、新しい言葉と古い言葉どちらを使うかは、実践的には大きな違いなのだ。

もちろん異名的概念工学は同名概念工学としてでもできるし、その逆も然りだ。新しい「付随性」という言葉を導入する代わりに「還元」という既存の言葉に付随性のような新しい用法を負わせることもできたのだ。同じことはsenseとmeaningにもいえる。また、サリー・ハスランガーの「女性」の改善のための分析では、新たな異名概念工学が行われつつある。

しかし、異名概念工学をするか「女性」一本の同名異義概念工学をするかでは、実践的効果は違うものになるだろう。理論的にではなく実践的な領域では、異名と同名ではそれぞれメリットとデメリットがあるのである。

異名のデメリットの一つは、新しい言葉はカロリーが高く、普及させるのが難しいというものだ。これに対して同名異義の方は、使う言葉が既に定着しており、かつ権威を帯びていることもあるというメリットがある。例えば「概念工学」という言葉には権威がある——この名を冠したジャーナルの特集号があったりする。したがって、もし自分の新概念を受け入れてほしいと思うなら、パワフルなエンジンを搭載させないといけない。

古い言葉にはある種の固定された「役割」というものがある。同名異義的概念工学では、自分の提示した新しい概念をいとも容易くそうした役割と結びつけることができる。たとえば「結婚」概念は社会において大きな役割を担っているため、あなたが結婚の役割について改訂を望むならば、自分で新しい別の言葉を用意するのではなく、自分の改訂的な考えを古い言葉に結びつけるのはパワフルな方法になる。これは社会正義と緊密に結びついている。「女性」「結婚」のような言葉の固定された社会的役割を踏まえると、新しい概念を古い言葉に適用して、その古い言葉(女性、結婚)に新たな社会的役割を担わせるのは、より公正な世界につながる。同性カップルの結婚についてcivil unionのような新しい言葉を被せることもできるのだが、この新語は「結婚」という語との結びつきが弱い。同名異義工学はこうしたケースに強みを発揮する。これがメリットだ。

だが、デメリットもある。同名異義工学によって、言葉の多義性による混乱が起こりうるのだ。これは理論的な文脈においてよく当てはまる。異なる現象には異なる言葉を当てる方が理論的にはクリアだ。カペレンも言うように、同名異義工学は、よほど言葉にパワーがあったり、あるいはめちゃくちゃ運が良かったり、あるいは小さなコミュニティ内部のことであったりしないならば、実行が極めて難しい。一方異名的概念工学は、新しい言葉や新しい接頭辞によってその実行を容易くおこなうことができる——定着させるのは難しいけれど。このように、メリットとデメリットがあるのである。

概念工学の重要性についても話そう。哲学において最も重要な進歩には、概念工学がたくさんある。たとえば既に例として出した固定指示子、含意、認識的不正義などの新概念工学がそうだ。これらの新概念は、重要な諸現象を捉え、とても役立つものになった。

では概念再工学は重要なのだろうか?まず、社会正義の達成など、哲学よりも広い世界における実践的な重要性がある。こういった文脈において哲学者は、アクティヴィストとして、また、そうした概念を編み出す理論家として、重要な役割を担っている。また、哲学の世界においても概念再工学は理論的な重要性を持っている。概念をより自然でパワフルな形に整理したり、説明に便利なように概念を変形したり、異なる役割について異なる概念をあてがったりできるのだ。また、多くの場合、こうした営みは再工学だけでなく異名的工学や新工学でも可能だ。その理由については後述。

では、概念工学は哲学の全てなのだろうか?それは違う。古い言葉・概念を使って命題を提示する重要な哲学研究はたくさんある。例えばジャクソンの知識論法(knowledge argument)やパーフィットのいとわしい結論(repugnant conclusion)は、概念工学はないものの新しい命題を提示している重要な研究である。

また、哲学研究に新しい概念が出てくるときにも、そこにはふつう、その新概念にかかわる新しい命題が提示されている。この命題の役割は非常に重要だ。なぜ「付随性」概念が興味深いかといえば、それは「付随性」という字面がいい感じだからではなく、それに伴う命題が興味深いからだ(例えば付随性は物理主義を成り立たせるのに必要と言われたりするが、これが興味深いのだ)。

真理の発見を目指す類の哲学研究においては、命題こそが重要なものなのだ。この種の哲学においては、概念工学は命題工学(thesis engineering)によって推進力をえている。上述の根拠づけ(grounding)vs. 付随性の論争においても、結局はそれに伴う命題を比べてどちらが正しいかというところに行き着くのだ(たとえば、付随性は物理主義存在論に十分なのか、あるいは物理的基礎づけが不可欠なのか、など)。

別に私は「真理追究型の哲学において概念は重要ではない」と言っているわけではない。私が言っているのは、「概念の重要性はそれに伴う命題に由来する」ということだ。カルナップも同じようなことを言っていて、彼は概念の評価項目に多産性(fruitfulness)を挙げているが、概念の多産性は、それに伴う命題がどれだけ興味深いか・便利かというところに行き着く。

もちろん哲学には真理の探究以外にも、「問題を提起する」「理解を助ける」「世界を別様に見る」「よりよい生を営む」「世界を改善する」などといった目的を持つことがある。そしてより良い新概念は、こういった目的にも与する。例えば認識的不正義は現状を新しい方法で眺め、より公正な結果を生むための役立つ。

ただ、こうしたケースにおいて、新しい概念がそれ自体で重要だ[つまり、命題などによって重要性帯びるようなことはなく、概念が独立して重要性をもつ]とは思わない。例えば世界を新しい仕方で眺め、世界を改善するような哲学において、重要なのは概念それ自体というよりかは概念の役割である。そしてこうした役割の多くは命題に結びついている——例えば「認識的不正義はこれこれの理由で悪い」とか。実践的なプロジェクトにおいてはそうした命題の哲学的基礎づけは規範的・評価的な命題が中心になるだろう。

ただ、真なる命題の追究だけが必要ということでもない。おそらく、より一般的にいえば、命題よりも役割の優先度の方が高いというべきだし、概念の多産性はそれが果たす役割と結びついているものとして理解するべきだ。だがそれでも、少なくとも分析哲学の主要なモードのひとつは真理の発見の追究にあり、そうしたモードにおいては命題工学は概念工学に優先するものだ(thesis engineering has priority over conceptual engineering)。

概念工学と概念の多元主義

こうした議論は、私が支持している「概念多元主義(concept pluralism)」というメタ哲学的な立場につながる。概念多元主義においては、多くの哲学用語には、異なる役割を担うたくさんの概念がくっついている。我々はそうした役割を明確化し、その役割を最もよく果たす概念を見つけるべきだ。我々は概念を評価して、そうした役割を担う新しい概念を見つける——これは概念工学だが、同名異義か異名かは実践的ケースを除いてさして重要ではない。

だが、もう一度いうが、重要なのは概念そのものではなくそれに伴う命題(例えば「x plays role y」)の方である。重要な命題によって概念は重要になるのだ。

概念多元主義者にとって、新概念工学は再工学よりもベターであることが多い。これこそ私が新概念工学を擁護するために言いたいもっとも強い論点だ。概念再工学においては、古い概念は修正されたり置き換えられたりした結果、もはや存在しなくなる。だが概念多元主義者はこう問う——「なんで新旧両方の概念を保持しないんだ?」と。ハスランガーの「女性」分析においても、たとえその生物学な性差に基づいた古い女性概念がさまざまな社会的目的に照らして不公正であったとしても、医学的な役割においては依然として重要かもしれない。概念がある役割において無用であったとしても、全ての役割において無用ということにはならないのだ。

もちろん、古い概念が矛盾含みであったり不正確であったり不道徳的であったりするあまり消滅した方がいいというケースもある。だが私の見解としては、そのようなケースはかなり稀であり、典型的ではない。また、言葉が道徳的に悪いものであったり不正確であったり曖昧であったりするためにそれらを完全に放棄した方がよいケースというのはあるが、そのようなケースにおいても、その言葉に引っ付いている概念が常にそうした問題(道徳的に悪いなど)を孕んでいるとは思わない(ただ、これは概念観によりけりだろう)。ともかく、古い概念にいうほど欠陥がなかったり、依然として果たせるような役割があったりするケースはたくさんある。こうした場合、概念多元主義者は「なぜそれぞれの違う目的のためにどちらの概念も存続させないのかい?」と問うのだ。[古い概念を簡単に打ち捨てず新概念と両立させることによって、]我々は実りのある概念装置を手にするのだ。

概念工学の難しさ

概念工学の難しさについても言及しておくべきだろう。カペレンが論じるように、意味論的外在主義[言葉の意味はどこにあるのかという問いについて、「脳や心的状態に還元される」と説く内在主義に対して、「社会や慣習も必要だ」と主張する立場]においては、言葉の意味をコントロールするのは極めて困難だ[社会や慣習は自分の力でどうこうするのは難しいので]。概念工学を3つの段階に分けるとわかりやすい。

  1. 概念を設計する(ある言葉ー意味ペアを提案する)。
  2. 概念を評価する(概念の意味が特定の役割のどれくらい上手く果たしているかを評価する)。
  3. 概念を実行する(あるコミュニティ内部において、その言葉がその概念を意味するものとして使われるようにする。)

まず、設計パートはそれほど難しくない。定義あるいは推論的役割あるいは複数の範例ケースを挙げればよいのだ。

評価の方は簡単ではない。どの概念が最も上手く役割を果たせているかみたいな議論が起こりうる。

だが、設計も評価は哲学者がいつもしていることだし、外在主義すなわちコントロールのできなさが障害になるかは微妙なところだ。

最も難しいパートは実行だ。実行においては、第一にあなた自身が適切な用法で提案した言葉を使わなければならない。これだけでも簡単なことではない。第二に、あなたは他人にも自分と同じように適切な用法でその言葉を使わせないといけない。これは大変に難しい。そして第三に、言葉が正しいしかたで使われたとしても、それからあなたはその意味や参照の仕方について、正しいと保証しなければならない。

外在主義やメタ意味論的な問題が最も影響するのはこの第三の「使用→意味」のステップだ。外在主義者は「[内在主義のいうような]内在的プロセスや行動といった使用によっては意味は固定できない」と言うだろう。これに対して私は、実行の最も重要な仕事は、「十分に広い領域で使用を変える」ということによって果たされると考える。そうするだけで意味も変わるだろう。もし[外在主義が正しくて]それだけでは意味は変わらないということがわかっても、その変わらなさが本当に重要なのかは定かでない。もし「結婚」という言葉において、歴史的な外在的リンクによって「結婚の意味は男と女の婚姻のことだ」と意味が定められたとしても、みんなが同性婚にも適用するような使用をすれば、実践的な目的は果たされる。つまり、使用と意味の間の外在主義的ギャップは、実践的なパートでは最も大きい障害にはならない。

より大きな障害は、そもそも使用を変えるのが難しいということだ。他人に自分が考えるような意味である言葉を使わせるのは極めて難しいのだ。私は小さなアカデミックなコミュニティにおける比較的テクニカルなタームについて、人々のそのタームの使用をなんとか変えることができたことが何回かあるが、こうした試みはたいてい失敗する。成功の秘訣などがあるとしたら瓶に入れて保管したいくらいだ。今のところ、我々は社会的慣性を変えようと試み、あとは祈るということしかできない。

設計実行評価のうち、設計と評価は比較的やりやすく、少なくとも社会的な障害にはぶつからない。そして、この二つだけで多くの理論的目的においては十分だ。概念の実行には使用の変更が不可欠であり、これは困難な社会的プロジェクトなのだ——不可能ではないけれど。

結論

いくつかの結論がある。まず、概念工学は概念の設計・実行・評価である(is)というのが私の立場だ。少なくとも、概念工学はそのように理解されるべき(should)だ。

また、概念工学は新概念工学と概念再工学を含んでいるor少なくとも含むべきだ。また、概念工学には同名異義概念工学と異名概念工学が含まれているor少なくとも含まれるべきだ。

そして、特に理論的目的においては新概念工学の方が多産であることが多い。また、同名異義概念工学も、特に哲学を超えた実践的役割において大変重要だ。

概念工学は哲学の全てではない。概念よりも命題や役割が重要だったりする。

概念の設計や評価は比較的達成しやすいが、実行して概念を広めることは困難な社会的プロジェクトだ。結果として、概念工学をコミュニティ全体のスケールで行うことは困難になる。だがしかし、それは不可能ではなく、可能なことではある。

 

コメント

メタ哲学の論文をちゃんと読んだのは初めてだったが、分析系の研究者のいう研究のコツがけっこうメタ哲学由来のものが多いということに気づいて興味が湧いた(これを読んだのも分析美学者に卒論の相談をしたら勧めてくれたから)。院試終わったらOvergaardのAn Introduction to Metaphilosophyくらいは読もうかな。