割鶏焉用牛刀/失われた牛刀を求めて

 日頃当たり前に使っている言葉、いきなり自分の無知を思い知らされたとしか云いようがない。

 

 twitterのTL上で、ふっと他人様の大仰な理屈を眺めて「鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん」とつぶやいたところ、

@nean 「牛刀」って、わりと普通の包丁だったりするんだが。
posted at 21:54:03

とのお話が @ogochanさんから*1。調理用具の類にはトンと疎い僕には、これはもちろん驚き。いや、それはなかろうというわけで、さっそくググって見ると、おやまぁたしかにありふれたと見える包丁ばかりがご登場遊ばす。これなら鶏を捌くのに使ったところで大げさってことにはなりそうもない。どうも今日「牛刀」と呼ばれるものは、孔子先生の時代の牛刀とはその出自からして異なるもののようだ。

 Wikipedia日本語版で引いてみると結局、ごくごく当たり前の包丁であることしかわからない*2。同じくWikipediaで「包丁」を引くと《牛刀(ぎゅうとう)(英語:Chef's knife)》とある。

 藤寅工業株式会社というメーカーさんのウェブには次のような説明がある。

 肉食が主体の海外から、日本に受け入れられた牛刀包丁は、日本の技術を用いて進化を遂げました。家庭での使用を考慮した文化包丁や、その進化系である三徳包丁です。この後も和包丁と洋包丁の融合が続いています。肉の調理に用いられ、道具として定着した洋包丁は、同じ形状でしなりの求められる包丁などもあり、和包丁とは違う性能を追求しています。

「洋包丁の形状と種類」(TOJIRO:Net)hatebu

 さらに「牛刀」そのものの説明。

 海外で一般的な包丁で、明治時代牛肉を食する文化とともに日本にやってきたことから「牛刀」と呼ばれますが、肉しか切れないわけではなくシェフナイフと呼ばれるように、様々な調理に使用できます。

ibid.

藤次郎 プロ DPコバルト合金鋼割込 牛刀 300mm F-892
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 これは刃渡り30センチと大きいけれど、上のリンク先ページを見ればわかるが、中には20センチ以下なんてのもある。だから、牛を捌くための包丁として命名されたとはやはり考えにくい。

 僕は全然知らなかったのだけれど、要するに明治時代に肉食文化とともに調理用具として入って来たために、洋モノの代表的なタイプのナイフが「牛」の名を冠されたということなのだろうか。

 いずれにせよ、これはどう考えても孔子先生の仰る「牛刀」とは別物だ。こうなると江戸期までの日本で「牛刀」という言葉はどう生き永らえていたのかということも気がかりになってしまう/(^o^)\。

 儒教は武士の道徳でしかなかったかも知れないけれど、論語の有名な文句くらい寺子屋で教えられていたりはしなかったのかしら。もし教えられていたら、明治期になって「牛刀」が簡単に洋包丁に結びつかなかったんぢゃないか? あるいは、実物は目にしたことはないものの、論語の言葉として「牛刀」だけが生き延びていて、欧米人が牛肉を調理しているのを目の当たりにしてその記憶がシェフナイフに結びつけられたのだろうか? 「鶏を割く」のに用いても問題なさそうな包丁を「牛刀」と呼んだとすれば、あんまり論語の勉強、真面目にやってなかったんぢゃないかってな感じになっちゃうけれど(^_^;。まぁそもそも牛を喰っていなかったんだから、論語を勉強していたとしてもリアリティをもって「牛刀」を受け止めたことがなかったに違いないわけで、そうなると案外論語のフレーズを覚えていても、うっかり名前をつけちゃった、ってなことはあったのかもなぁ。うーん。

 それはさておき、では孔子先生の頭にあった「牛刀」とはどんなものだったのだろうか?

 どうもそいつがネット上の検索ではなかなかわからない。だれもが学校で習う言葉に含まれていながら、同じ名前の日常的な用具とは異なるものとなれば、こりゃぁだれか親切な物知りさんが図版入りで解説しているページがあったって良さそうなものぢゃないか。ところがないんだよなぁ、そういうページ。

 ひょっとすると実は「牛刀」という言葉、孔子先生の想像の産物なのかもしれないとも考えた。古代中国では屠殺・解体の類は賤業だったのかもしれない。とすれば、先生、そういう現場など知らずにテケトーな話をでっち上げるくらいのことを為出かさないとも限らないではないか。……ところがどうもそうではないみたいだ。同じ言葉がやはり中国の別の古典にも登場しているからだ。

 名料理人の包丁*3が魏の恵王の前で牛をさばいて見せた。

 包丁が牛を手で触り、肩に力を入れ、足の位置を定めて、ひざで牛を押さえ、牛刀を入れるとさくさくと肉が切り離れていく。その刀さばきは音楽のようで殷の時代の名曲・桑林に調和し、堯の時代の舞曲も思わせる。恵王は「すばらしい。まさに技術を極めたようだ」と感嘆の声を上げた。

 これを聞いた包丁は牛刀を置いて「私が求めているのは技術ではありません。その上の道です。私が初めて牛をさばいたとき、見たのは牛の外観でした。三年目からはもう牛の外観を見ず、必要なところだけを見ました。今では私は心で見て目では見てはおりません。

 感覚器官は働きを止め、精神が動き始めます。天理によって牛の大きな隙間に刃を入れ、空洞に沿って刃を滑らせ、牛の本来の仕組み通りに刃を滑らせていくのです。支脈、経脈が入り組み、複雑に固まったようなところでも試し切りはしません。刃を入れた以上一度にさばきます。

 優秀な料理人は年に一度刃を取り替え、普通の料理人なら月に一度刃を折ってしまうものです。私の牛刀は十九年も使い、数千頭の牛を解体したというのに、まるで今砥石を当てたばかりのように見えます。

 骨節には隙間があり、牛刀の刃はほとんど厚みがありません。厚みの無いものを隙間に入れるのですから、悠々として余裕があります。だからこそ幾ら使っても刃こぼれ一つ無いのです。

 それにしても筋や骨の入り組んだところに来ると、緊張します。視線を一点に集中させ、手の運びを遅くして、牛刀が動いているかどうか分からないほどになります。やがてどさりと音立てて肉が離れて土くれのように地に落ちると、私は牛刀を引っさげて、四方を見回し、しばらくたたずんで成功を満足し、牛刀をぬぐって鞘に納めるのです」。

 恵王は感動して「すばらしい。わしは包丁の話を聞いて養生の道を会得した」と言った。

荘子「養生主篇」*4

 牛刀はやはり存在していたのだ。鞘に収めるような刀だとすると、頭に浮かぶのは横山三国志なんかに登場する刀になってしまうのだけれど、牛刀はそういう刀に近いものだったのだろうか。それとも貴人の前でのこと、通常の調理器具であっても安全のため鞘に収めることが求められたのだろうか? うーん。

三国志 1 (潮漫画文庫)

 これのは宝飾用の刀って感じだけれど。考証なんかは信用できるかどうかわからんしなぁ。

 さらに、 @oyomeni_onihimeさん から、「環首刀(かんじゅとう)」についてのご教示を賜る*5。考古用語辞典 Archeology-Wordshatebuによれば、環首刀の戦国時代前5〜3世紀という年代、あるいは、

 柄の先が環状の刀で、漢代では単に「刀」と呼ばれ、一般的に使用された。用途・大きさはさまざまである。湖北省江陵張家山漢墓から出土した裁判記録には、秦の始皇帝のころに起きた環首刀による強盗傷害事件が記載され、庶民がこのような刀を身に付けていたことがわかる。また後漢時代の画像資料からは、肉きり包丁が環状の柄の刀であることがわかる。

といったあたり、「牛刀」に近い雰囲気を漂わせている。たぶん、《後漢時代の画像資料からは、肉きり包丁が環状の柄の刀であることがわかる》ってなあたりから考えると、似た様な形状のモノだったのかもしれないと思えてくる。

 うーん、というわけで、牛刀の正体、「これだ!」と断言できるようなものに、今のところ出会えていないというテイタラク。うーん、うーん。

 おごちゃんでもこうなんだから、もう仕方ありませんわね*6。

 

 あとはもう図書館ででも調べるしかなさそうだ。

 しかしなぁ、《鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん》みたいな非常にポピュラーな言葉の中に登場する「牛刀」、その正体を確かめるのに、これほどネットが、少なくとも日本語で利用出来る範囲でのネットが無力だとは、まさか思っても見なかった。豆知識自慢にウッテツケと思えなくもないネタ、ネットに図版くらいないわけはないように思えるのだけれど。しかし、だれもその図版を提示さえしていない? いったいこれはどうしたことだろうか。うーん。調べ方がまだよく練れていないからかなぁ。ここに書いておけば、どなたかご親切な方がパッとリンクを教えてくださったりするんぢゃないかと思いもするのでございますがぁ、はてさて。

 

*1:【復旧時註】元tweetを引こうと思ったのだけれど、うまく行かなかった。cf. from:ogochan since:2011-03-31 until:2011-04-02 - Twitter Search。ツイッター・サーチでは、すべてのツイートが検索対象になるわけではないらしい。どういう具合にだかして割り出したしかじかのツイートの影響力を評価し、影響力の大きいツイートに限り拾い上げるとかなんとかなのだそうな。おごちゃんの影響力が小さいとはちょっと考えられないが、僕個人への返信であるために低く見積もられたということか\(^o^)/。代わりにneanderthal yabuki on Twitter: "昔のはでかかったとかはないんですかね? QT @ogochan: @nean 「牛刀」って、わりと普通の包丁だったりするんだが。"など参照されたし。

*2:cf. 牛刀 - Wikipedia、ご丁寧に「関連熟語」として「鶏を割くに焉んぞ牛刀を用いん」があがっている(2019年5月4日確認)。

*3:【引用者註】「庖丁(ほうてい)」が正しいスペルなんだけれど、とりあえずここはコピペ元ページの表記にしたがっておく。「庖」は調理場の意。「丁」は「園丁」や「馬丁」と同様、その仕事を担当する者のこと。で、この話の料理人の刀さばきの見事さから転じて調理用の刀が「庖丁」、すなわち今日の「包丁」ってことになった。漢字の違いは、「庖」が常用漢字ぢゃないってだけのつまらん話。と知ったかぶって書いたけれど、これ、ウィキpの「包丁」の項目に出てる話(^_^;。

*4:【復旧時註】元々のエントリでは、上記口語訳の出典ページへのリンクをここに設定していたのだけれど、残っていたファイルにはリンクがなく、ググっても元ページが見当たらない。何か不都合がある場合には、コメント欄にお知らせを賜われるとありがたい。

*5:【復旧時註】元tweetへのリンクが見つからない。

*6:【復旧時註】こちらのツイートは、ふぁぼっていたので、favologhatebuから拾い上げることができた。