NATROMのブログ

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神と科学は共存できるか?

宗教家と無神論者を4タイプに区別したこういうジョークがある。


■信仰心と無神論の計算の違い(らばQ)。(原文:■Today's Math Lesson (The Primate Diaries))


●原理主義宗教家
 2+2=5だと信じている。その理由はそのように書かれているから。
 税金の控除額の計算のときによくトラブルになります。

●穏健な宗教家
 現実的には2+2=4という基本に沿って生活している。しかし規則的に教会などに行き、以前に2+2=5の時代があったとか、いつかまたその日が来ると言われ続けている。そして実際精神的な世界では5であるはずと信じている。


●穏健な無神論者
 2+2=4であることを知っている。 しかしながら2+2=5と信じている人が感情を害するかもしれないので、大きく主張することは無礼だと考えている。


●戦闘的な無神論者
 おいおい、よく見てくれよ。ほら、ここに小石が2個あるだろ?それからあと2個がここだ。全部で4つだろ。 おい、おかしいだろ。お前らどんな計算のしかたをしてるんだ!


なるほど、うまいことを言う。私もこのジョークを楽しんだが、現実はそれほど単純な話ではない。「2+2=5だ」に相当するような明らかに間違った主張(たとえば「創造論は科学的にも正しい」という主張)を強く信じ、公立学校で教えろと圧力をかける「原理主義宗教家」は存在する。だが、「穏健な宗教家」は、「いつか創造論が科学的に正しくなる日が来る」とか「精神的な世界では創造論は科学的に正しい」とか信じているわけではない。「穏健な宗教家」の信じていることは、例えば「神が存在する」といったことであるが、これは「2+2=5だ」のように明らかに間違っているとは言えない。少なくとも石を並べるような単純な方法で間違いを証明できるような性質のものではない。

ジョークはともかくとして、実際に「穏健な無神論者」「戦闘的な無神論者」に相当する代表的な科学者は、スティーブン・J・グールドと、リチャード・ドーキンスであろう。どちらも進化論に関する優れた啓蒙書を書き、「創造論は科学的にも正しい」と主張する創造科学を批判してきた進化生物学者である。淘汰の単位を巡っても議論がなされたが、宗教と科学の関係についても対照的な意見である。「穏健な無神論者」グールドは、「神と科学は共存できる」と主張するのに対し、「戦闘的な無神論者」ドーキンスは「神は妄想である。宗教は不要であるばかりか有害ですらある」と主張する。




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■神と科学は共存できるか?

■神は妄想である―宗教との決別

共存できるよ派のグールドは、科学と宗教は、それぞれ対象とする領域が異なり、ゆえに共存できると論じる。対立ではなく分離・非干渉の関係にあるというわけだ。これをNOMA原理とグールドは呼ぶ。



 科学は自然界の事実の特徴を記録し、それらの事実を整合的に説明する理論を発展させようと努力している。一方、宗教はといえば、人間的な目的、意味、価値―科学という事実の分野では、光を投げかけることはできるかもしれないが、決して解決することのできない問題―という、同等に重要であり、しかしまったく別の領域で機能している。同じように科学者も、自分たちの営為に特徴的な、なんらかの倫理的な原理にしたがって仕事をしているはずだが、この原理の有効性を、科学によって発見される事実から引きだすことは決してできない。
 私の考えでは、敬意をもった非干渉―ふたつの、それぞれ人間の存在の中心的な側面を担う別個の主体のあいだの、密度の濃い対話を伴う非干渉―という中心原理を、「NOMA原理(Non-Overlapping Magisteria)」すなわち「非重複教導権(マジステリウム)の原理」という言葉で要約できるはずである。(「神と科学は共存できるか?」 、P11)

グールドに言わせれば、「穏健な宗教家」は「2+2=5」などとは信じていないわけだ。「2+2=5だ」と言い張る「原理主義宗教家」はいるが、それは科学の領域に宗教が侵犯しているNOMA違反だ。問題にすべきは宗教ではなく、NOMA違反である。1980年代のアメリカ合衆国における「進化論裁判」では、科学者のみならず、聖職者や宗教学者の大多数は創造論を公立学校の科学教育に持ち込む運動に反対したではないか*1。宗教と科学の大部分の指導者はNOMAを支持しており、「微妙さだとか多様性といったことをなんら理解できていない」戦闘的な無神論者は例外的だとグールドは主張する*2。一方、共存できないよ派のドーキンスは、NOMA原理を否定する。「(グールドは宗教に対して)犬のように仰向けにひっくり返ってご機嫌をとるという芸当を見せている*3」とグールドを犬呼ばわり。科学に答えられない究極的な問いがあるとして、宗教がそれに答えられるのか?


同じように、私たちはみな、科学に道徳的価値観について助言する役割を務めさせるのは、控え目に言っても問題であるということについては意見が一致するだろう。しかしグールドは本当に、何が良くて何が悪いかという権利を特に宗教に譲り渡したいのだろうか?宗教がそれ以外に人類の英知に貢献すべきものをもたないからといって、私たちに何をなすべきかを教えるフリー・ライセンスを宗教に手渡すべきだ、ということにはならない。そもそも、どの宗教を選べばいい?私たちがたまたま育てられた宗教なのか?あるいは、聖書のどの書のどの章によればいいのか―なぜなら、聖書中の見解は聖書全体を通じて一致しているというにはほど遠く、またあるものは、いかなる理性的な規準に照らしてもおぞましいものだからである。(「神は妄想である」、P89)


ドーキンスは、神が存在しない理由や宗教の負の側面について、これでもかと論じる。その内容のほとんどには同意でき、痛快とすら感じるが、それでも私は全面的に肯定する気にはならない。それは、冒頭のジョークを楽しみつつも「穏健な宗教家は『2+2=5』とは信じていない」ということに引っかかるのと同じ理由からである。ドーキンスの言うように、無神論者が差別されている、宗教がテロリズムの温床になっている、中絶や人工授精といった倫理的な問題に宗教家が過大な発言力を持っている、などなど、ある種の宗教に問題点があることは確かだ。しかし、これらの問題点を解決することと、NOMAを尊重することは両立しうると思う。

ある宗教が持つ特権(たとえば女性差別を公言しても咎められない、反戦的宗教の信者と表明するだけで簡単に兵役拒否できる、など)への異議申し立てはいい。しかしそれは科学の枠外の話だ。2+2=5と信じている人の感情を恐れているのではなく、科学とそうでないものの区別をつけているだけ。そう考えるのは私が無神論や曖昧な宗教的立場に寛容な文化を持つ日本で育ったからかもしれないが。


2007年11月12日追記 コメント欄の続きは掲示板→神と科学は共存できるかでもどうぞ。


*1:「神と科学は共存できるか?」P138

*2:「神と科学は共存できるか?」P76

*3:「神は妄想である」P86