オタクはなぜキモいのか?

もしくはオタク=キモい
という意見は何故流通するのか?

この文章を書こうと思ったのはFSのid:fs_gohhoさんへのコメントで、この文章はそれを発展させたものです。
まず先にその内容を転載

『世界の中心〜は別に読まないでもいいと思うけど(笑)あれが好きな人って別にああいう恋愛したいと思ってないと思うんですよ。あくまで虚構として楽しんで泣いてる。ただKANONとかからオタク的絵柄の美意識をとっぱらったら世界の中心〜とかDEEPLOVEと対して変わらんと思うんですけどね。怒られるかなそんなこと書くと(笑)単純にパッケージが違うだけで。▼だからオタクキモいみたいな意見がある時って多分二つだと思うんですよ。一つはオタクがもつ美意識への反発で特にギャルゲーの絵柄に対する反発で、イノセンスとかキルビル方面のオタクに対しては一般の人も抵抗ないと思うし。▼もう一つは一般の人が無意識にもつ恋愛至上主義を冒涜してる、つまりこっちは恋愛というフィールドに参加するために必死こいてファッションやら何やらに気を使って投資して社交性身につけようとしてるのにオタクは虚構で恋愛への欲望を処理してる許せん!みたいな。と同時にゲームで恋愛の欲望が処理できるなら私たちの努力って何?っていう恐怖ですよね。多分これは別のフィールドでも起きてたんですけど、それがいよいよ「恋愛」という聖域にまで及んでるのかなぁと思います。▼ただ恋愛至上主義みたいのに乗れない人も男女かまわずいて、そういう人が勘違いして(笑)オタクに何らかの希望を見出してしまうこともあってそれが「蹴りたい背中」のハツとにな川みたいな関係だと思うんですけど。▼そういう無意識の恋愛をめぐる価値観の情報戦がオタクとギャルゲーいう文脈を通した時に私には透けて見えます。でもギャルゲーってあの絵柄じゃなくて例えば安野モヨコとかの絵柄で本気で作ればそうとう一般化すると思うんですけどね。そしたらまた別の局面があるのかも◆ちょっとこの辺は自分のトコで展開するかもしれません。今キャシャーンの文句とどっち書くか迷ってるんですけど(笑)』

先日(4月23日放送)、真剣10代しゃべり場で「オタクの何がいけないの」の回が放送されてはてな内でも話題になってた。
参考リンク先
http://www.susono.com/~tomoti/t_chiba.htm
私は見逃したんだけど見なくてもだいたい予想がつくからいいかなぁと思ってたけどFSのid:fs_gohho さんの日記でその提言者の男の子の何と彼女がいて、彼女がいても、ギャルゲーの方がいいと彼が思ってる*1と書いてあってショック!
しゃべり場では以前にも「オタクで悪いか?」みたいな回はあって
参考リンク先
http://www.susono.com/~tomoti/t_nagamine.htm
その時の彼には彼女はいなかったし彼自身がイジメにあったとかのトラウマ話に落ち着いたので見てる側も逃避もしくは緊急避難でいづれ醒めて終わるんだろうなぁという感じで終わっ*2て、この彼女がいてもギャルゲーがいいっていうオタクの子が出てきてって話は後にするとして、おたく=キモいが流通する理由について考えてみたいと思う。

まず注目すべきはしゃべり場に登場したオタクの代表の男の子が二人ともギャルゲーおたくだということだ。
個人的に思うんだけど実は世間は昔ほどオタクバッシングはひどくなく、むしろ一部ではリスペクトすらされている。
例えばロードオブザリングやマトリックス、キルビルあるいはイノセンスやキャシャーン。
公開を控えてるキューティーハニーやビッグフィッシュは十年前ならオタクの間でリスペクトされていたオタク映画を作ってた人たちで見る人もほとんどオタクだったと思うんだけど、今これらの映画は(一部勘違いの人もいるだろうけど)一般の人にも見られてるだろうしデートムービーとしても機能する(ただし見に行った後どうなるかは別だけど)

ただこれらの映画がオサレなデートムービーとして見られること薄く消費されることに対する反発がオタク層(例えば映画秘宝)から上がっててスタジオボイスで書かれた大塚ギチさんのイノセンスの宣伝に対する違和感の表明もその流れだと思う。

自分の愛好するものを一般の人にもその良さがわかってほしい、いっしょに共有したいと思ってて、今のオタク映画三昧の状況はそれが実現したかに見えるけど何かが違う?それは何だ?
一般層に受け入れられたけどそれはうわべだけでオタク的美意識、オタク魂オタクコンプレックスは捨てられてるんじゃないか?そして一般層の方もオタク表現によるオシャレ圏への文化的侵略(笑)を無条件に受け入れてきたけど、こっから先はマズイちょっとまてよ!っていう摩擦がギャルゲー
を巡る状況に現れてるんじゃないか?と思う。

・ではギャルゲーおたくは何故キモいと思われるのか?

多分一般の人がギャルゲー*3なるものと触れた時に感じるキモい理由は二つで
一つは恋愛をゲーム内でしてることと、もう一つはあの絵柄だ。

あの絵柄と言った時に「あの絵柄」をすぐ思い浮かべられる人には説明不要だと思うけど、簡単に言うと新現実3号の表紙だったりKANONとかAIRのキャラクターデザインの人の絵やでじこの絵で萌え〜とかつい言っちゃうタイプの絵。はっきり言っておくとあの絵がキモい*4。

例えば押井守さんはパトレイバー2を作る際にどっちかというと萌え寄りのキャラクターデザインを捨てて今のIGタツノコ系のリアルタッチに転向して、それ以降の攻殻機動隊から商業的にはともかく海外的、社会的評価を獲得した。エヴァンゲリオンのテレビシリーズも作画が後半くらいから萌えより骨格がしっかりして目もそんなに大きくないシンプルな絵に落ち着いた。
逆に似たようなテーマと質を獲得していた(と私は思う)機動戦艦ナデシコや少女革命ウテナ(これはまた別か)やアキハバラ電脳組が結局一般層に届かなかったのはそれが理由だと思う*5。

具体的に「あの絵柄」とは目が異常にでかく顎が尖ってて口が小さくて髪型と色がヘンな絵ということなんだけど。
じゃあそれは昔の少女漫画、例えば大島弓子さんや陸奥A子とどう違うの?って問われたらそれらの少女漫画のキャラクターって紙細工みたいで肉体性が希薄なんですよね。それがギャルゲーだと男性視点が入るからなのか?身体性がある。少女漫画の絵柄をリアルにした気持ち悪さ。そういう本来紙細工だったものに性欲を感じていることへの気持ち悪さ。
それを「あの絵柄」に触れると感じてしまう。
例えばこれがプレイボーイ*6のグラビアみたいな絵柄だったら
そこまでキモい!ってイメージはなかったと思う。
もしくは実写とか。
でもオタクに受けるにはあの絵柄じゃないといけないんですよね多分。

例えば私は安野モヨコさんとか岡崎京子さんの絵柄とかでキューティーコミックな世界観でギャルゲーを作ったらそれなりに流通すると私は思う。
例えばギャルゲーおたくの方がよく使う反論で「自分はゲームのキャラに萌えてるんじゃなくてシステムがいいから評価してるんだ」みたいな意見をよくネットで見るんだけど、多分*7そうなんだと思う。
でもそういう例えばハッピーマニアをギャルゲー化したようなものが出てきた時にオタクの人は反発か無視するんだろうなぁと思う。
そしてより深いトコに潜ってくんだろうなぁというのが予測される流れかなぁと思う。

・恋愛ゲームはタブーに触れた?

もう一つ恋愛をゲーム化してゲーム内で恋愛への欲求を満たしてしまえることに対する無意識の反発が一般層からのギャルゲーオタクへの反発なんだと思う。確か村上龍さんの本で「誰にでもできる恋愛」ってタイトルがあったと思うけど、今の時代普通に生きてると恋愛というものは万人に開かれたものでみんな恋愛=幸せという価値観を無意識に受け入れてしまっている。もっというとモテる=偉いみたいな
私は恋愛資本主義と密かに呼んでるんだけど、恋愛と資本主義は密接に絡んでて、ファッション誌や東京ウォーカーなんか見てると毎回お勧めデートスポットの特集はあるし、彼の心をゲットするファッションとかアイテムとかの特集もあるしトレンディドラマやJ・POPなんかも恋愛は素晴らしい!って価値観を推進する恋愛至上主義のプロパガンダみたいなもんだ。

多分オタクとそうでない人の分離は中高生の時にその恋愛という舞台に乗るか乗らないかで大方決まると思うんだけど、昔、私の頃くらいまでは「乗れる、乗れない」の差である種オタクは恋愛資本主義社会からの脱落者だった。

それが今回のしゃべり場で彼女よりギャルゲーっていう人が出てて、「おぉ新世紀」と思ったんですけど。
ただ彼女とは電話と文通のみとあったので、そうなってくると現実の彼女より毎日モニターに向かい会ってるゲームの少女の方が、その人にとっては身近ってことはあるのかなぁと思う。
もしかしたらこの人(もしくはしゃべり場世代の人)にとってはどっちが優位というのはなくて、たまたま現実の女の子よりもギャルゲーのヒロインが魅力的で、もっと魅力的なかわいい女の子が目の前に現れたらそっちに行くよ。今はたまたまこっちの方が魅力的で。って考えなのかもしれない。
どちらにせよ、この人の中では同じ恋愛対象としてゲームのキャラと現実の女の子が並んでるのではないだろうか?
そして現実の彼女はゲームのキャラに負けている(泣笑)
余談だけど、このオタクの彼は彼女がこの番組を見るという想像力がないのだろうか?それとも見ても平気なのだろうか?
しゃべり場を見てて時々不思議なのはそういうトコでこの彼の無頓着さには少し腹が立つ。正直さ=やさしさでは少なくともないなぁと思う。

でも実はこういう思考は男女かまわず当たり前にあるのかなぁ。
本当の理想はあややだけど、側にあややはいないから、とりあえず付きまとってくるこの女と付き合うか、セックスもできるしみたいな。
女の子もとりあえず「彼氏がいない状況よりマシ、だって恋愛という舞台に立てるし」みたいな
乱暴に言ってしまうとテレビや映画が当たり前のメディア社会になってしまうと近くの普通の子と遠くの美少女という構図があたり前になってしまい、しかもその遠くの美少女の情報は常に供給される。
どこか遠くから配給される映像の美少女とのドラマこそ理想で今の私はとりあえず
みたいな
町山智浩さんはそういう社会、現実をシュミレーション社会と表現している。

シミュレーション社会というのは、オイラ流に説明すると…。

本当のSEXはAVの中にしかない。

すべての人間は現実のセックスのとき、いかにAVに近づけるか努力する。

AVのようにできないと、そのセックスは不完全だと感じる。

理想の女性(男性)はアニメや漫画、CG、人形にしかいない。

すべての現実の女性は代替物である。

だからいつも不完全さを感じる。

完全な恋愛は小説やドラマや映画のなかにしかない。

現実の恋愛でもそれをなぞってそれに近づこうとする。

でも、それは決して完璧に再現できない。

常に恋愛は不完全だ。

本当の人生は映画やアニメやドラマや小説の中にしかない。

ドラマチックでエキサイティングで感動的な人生は。

現実はそれに近づこうとしても…。



現実を写した模倣であったはずの、小説やドラマや漫画や映画やアニメやAVの中の

異性や恋愛やセックスや、いや、人生は、

いつのまにか現実よりも優位に立ち、現実は常にそれに勝てない。

シミュレーションが現実を圧倒し、

これはもう逆転しそうにない。



普通の、というか、ピノキオやアトム時代の感覚では人形は永遠に人間になれない、

人間のマネゴトだったが、

シミュレーション社会と押井監督の感覚では、人形は人間の模倣ではなく、人間の理想像であり、人間はどんなに頑張っても人形みたいに完璧にはなれない。



「イノセンス」の中に再三登場する「人形」「鏡」に関する問答はそういう逆転した絶望を感じさせる。



バトーがそれほど絶望して、トグサのように家庭や子孫を残すことによるアイデンテ

ィティにも依拠できないのは、少佐という理想の異性がネットを通じて世界に遍在す

る、意思だけの存在になってしまっているからだ。

あ、さっき「イノセンス」には人格を持った女性は鑑識医しか出てないと書いたけど

、草薙もそうだな。ていうか人格だけの存在か。

でも、草薙はすでにバトーにとって異性や他者ではなく、

「神」であり、彼を取り巻く世界の母性であって、

生きる意志のないバトーの唯一の支えになっている。



最初に原作で少佐がネットの海に消える場面を読んだ時、筒井康隆の「エディプスの恋人」を思い出した。

「エディプスの恋人」は「神」についての物語で、「神」は交代制で、何千年だかに一回、誰か人間が一人選ばれて「神」になる。神というのはこの世界に遍在する意思として描かれている。そして筒井は、70年代終わりに「神」は女性に交代した、と書いた。 だから世界は80年代から母性的になり、男は幼稚になるだろう。
「エディプスの恋人」はキャンディーズのコンサートに熱狂する少年たちの姿で幕を閉じるが、

あれは80年代以降の社会のオタク化を見事に予言していた。

本当の異性は決して触れることのできない象徴的存在であり、代わりに偶像への空しい愛を注ぎ続けるしかない。

その一方でネットという母性的環境に常に包まれてぬくぬくと現実と直面せずに生きるのだ。          http://d.hatena.ne.jp/TomoMachi/20040402


ただこの場合は現実の側がなんとかシュミレーションの側に近づこう、あるいはシュミレーションの外にでようと意思がある。
例えば上の文は町山さんのイノセンスの感想からなのだけど、このシュミレーション社会にもっとも自覚的でなんとか格闘しようとしてた作家こそ押井守さんだった*8。
実際トレンディドラマだったり少女漫画ってのはそうやってバブル期の女姓を煽ったし、たいていの女性はその煽りにのって社会に出ていき恋愛をしたんだしどっかでそれでも現実の優位性は肯定するにも批判するにも前提だったんだと思う。

多分ギャルゲーが出た時の反応って二つだったと思う。
一つは「あぁオタクも恋愛に関心をもつようになったのか〜」という少女漫画の男の子版という解釈。例えば新現実2号でのササキバラ・ゴウさんの論考なんかそういう流れだ。
もう一つは「あれは実際に恋愛できない奴らがゲームの恋愛に逃避してるんだ」という意見。
どっちも現実の恋愛=異性に優位を持つ考えだった。
それが今回のしゃべり場の意見はつまりギャルゲーの方が上という意見、つまり現実よりゲームの方が面白いし萌えるという意見だ。

今はこの男の子だけの意見だからアレだけど、これをもしキムタクとかガクトとかのイケメンタレントが言ったら世の中パニックになると思うな。
特に女性誌関係は、「いろいろ女と付き合ったけど、やっぱギャルゲーが一番だね」とか言われたら、どうします女性諸君(笑)
いや結構ありえんじゃないかなぁって思うんだけど。
まぁ今はまだそこまで行ってないけど、例えばコレが高性能メイドロボットとかなら。
多分考えられる展開としてはananとかが[ギャルゲーヒロインに学ぶいい男ゲット術]とかのつまりギャルゲーの模倣ですね。
まぁそれはあと半世紀は先かなぁと思うけど、これが第一歩では?と私の妄想は少し広がりました。

さて、ここでもう一つ考えないといけないのは一般の人はどうして恋愛をしたいのか?もしくは恋愛に絶対の価値を置いたのか。
しゃべり場ではオタク=キモいという意見がすぐに出たけど
何故私たちはオタクをキモいと思うのか?という考察は出なかった。
普通そんなことは考えない、私もこういう文章を書かなかったら考えなかったと思う。つまりそれくらい恋愛至上主義は今だに強いのだと思う。
私が思うに恋愛というのは広い意味での社会参加のためのチケットなんだと思う。
街を歩いたりアミューズメント施設へ行くとカップルが入ることを前提に作られたものがこんなに多いのかと時々思う。
気にしない人は気にしないんだろうけど恋愛映画を一人で見てる時にとなりがカップルだったりする時の屈辱感たるやたまらんもんがある(泣)
庵野監督はデートで見れない映画は儲からないという感じのことを言ってて、今回のキューティハニーはまさにデートムービーとして機能するように作られている。
キルビルの宣伝があぁだったのもカップルを取り込むための戦略だ*9
これが広がると結婚とか家族という枠になる。

実はギャルゲーにも恋愛至上主義は流れてる。いやオタク表現が恋愛至上主義に毒された結果がギャルゲーだったというのが大方の意見かもしれない。
ただギャルゲーの場合はゲームの中で恋愛感情もしくは恋愛への欲求を果たそうという発想から出ている。現実の女が相手してくれないなら俺達の理想の恋愛、理想の舞台を作ろうという発想だ。
いうなれば恋愛至上主義を貫いた結果、自分の恋愛への欲求、理想の恋愛は現実の女とはできない、だったらバーチャルな世界で満たそうという発想だ。

現実の女子は自分の存在が無視されたことと恋愛への欲求をゲームの中で解消するその態度*10に腹を立てて、それがオタク=キモい、「神聖な恋愛を冒涜するな」となるのだと思う。

そう考えるとオタクキモいという時に真っ先にダサいとか不潔という見た目=ファッションの意見が出るのはもっとわかりやすい。

何故人はおしゃれをするのか?何故清潔にするのか?
モテるためである。電気グルーヴ風に言うと「モテたくて」だ。
いや私は違う私は自分が輝きたいから魅力的になりたいからファッションセンスを磨くのだという眠たい意見もあるかもしれないけど、実はそういう人こそファッションオタクでつまり動機の目的化で、世間的には「モテたくて」オシャレなのだ。
オタクは無意識にその恋愛至上主義という舞台から降りた。
つまり「私たちが恋愛という舞台に上がるためファッションやメイクに気を使ってダイエットして勉強してるしそのためにお金と時間を費やしてるのに、あんたたち何ラクしてんのよ!」ってことで、つまりギャルゲーを巡るオタクキモい論争は恋愛という価値観を巡る宗教戦争なのだ・・・・・と思う*11。


そして一方でオタクのそういう行為は一般の人の恋愛至上主義を揺さぶり不安にさせる。
ゲームで恋愛欲求が解消できるなら私たちの努力って何?って感じで。
もしそこで得られる快楽が現実と=なら、もしそれ以上なら。

実は現実で恋愛をちゃんとしてる彼彼女らも常にシュミレーション社会で不全感を感じてるのは上の町山さんの引用でも明らかだ。
そこであるのはシュミレーションに近づくためのたゆまぬ努力。
それに実は男女問わず疲れてるような気も少しする。

一方でギャルゲー以外の分野からもギャルゲーのパッケージを外したギャルゲー的な恋愛モノ例えば「世界の中心で愛を叫ぶ」とか「deeplove」とか出てきた。
簡単に言うと難病モノだけど、ああいうモノを見て「私もあんな恋愛をしたい」とはあんまり思わないと思う。ドラマッチックな恋愛への欲求はフィクションで処理して

自分はまったりとした恋愛、もしくは別にしなくてもいい。みたいな。
よくも悪くもフィクション=虚構が強まることで現実の恋愛至上主義が弱まってきているのが現実かなぁと思う。
乱暴な結論だろうか。

最後に引用

★"僕達の青春"はどこに行ってしまったのだろうか?とゆうのは
高橋源一郎さんの〈ジョン・レノン対火星人〉の表3のオビのことばですが、
ワタシモソウオモウ。

★今やわたし達のつたない青春はすっかりTVのブラウン管や雑誌の
グラビアに吸収され、つまらない再放送をくりかえしています。

★そしてわたし達の出来ることときたらその再放送の再現かまねっこ程度です。

★とうぜんしらけます。

★でも”すき”のきもちはしつこくしぶとくあります。

★パンドラの箱の残りもののように。

★のこりものには福がある。

岡崎京子「ジオラマボーイパノラマガール」あとがきより

困った時の岡崎京子(笑)

つまり恋愛至上主義が耐用年数が尽きて、あらゆる欲望がバーチャルなもので満たせるようになった時私たちはどうなるのだろう?ということだ。
岡崎さんはそれでも「すき」という気持ちは残るという。
この「すき」は多分今流通してる恋愛とは少し違うと思う。
いや恋愛=「すき」の幸福な人もいるしそれがやがて結婚→家族という流れに向かう人もいると思う。
でもみんながそこに無事たどり着けるかと言うと、今の世の中だとそうとう難しい気がする。
ジオラマボーイパノラマガールでもそうだし愛の生活でもリバーズエッジでもそうなんだけど、岡崎さんの作品には恋愛をしてても何かその行為をなぞってるだけでピンとこなくて、破綻してやがてもっとゆるやかな擬似家族としか形容できないようなものを形成する作品が結構ある。あるいは人間より子猫とかの方がすきだと言ってみたりする。
岡崎さんならそれを
「愛」というのだろうか?
私はどうも愛という言葉は苦手でいつも別の形容がないかと思ってしまう。
多分簡単には恋愛至上主義も結婚制度も壊れないで現状維持のままぐずぐずと続いて行くと思う、もしかしたら私が生きている間にはそんなに大きな変化はおきないのかもしれないけど、そういう枠に乗れないなぁ外れてるなぁと思った時、大事になるのはその最後に残る「すき」なんだろうなぁとは思う。
残念ながらまだそれは見つかんないしわかんないけど。

*1:7対3でゲームらしい

*2:たしかゲストのオーケンもそういうことを言っていた

*3:18禁エロゲーや泣きゲーも含む

*4:と世間は思ってる。私がじゃないよ

*5:多分貞本義行さんがオタク系の絵柄ではギリギリなんではないかと思う。後藤圭ニさんだとちょっと辛くてでじこだとOUTかなぁ

*6:海外の

*7:日常を描くという意味で

*8:エディプスの恋人のくだりなんかビューティフルドリーマーみたいだ。紅い眼鏡でもそうだけど押井さんは全治全能の監視者たる神の位置に少女を配置する。天使の卵も卵という少女の夢に閉じ込められた男の子が脱出しようとして卵を破壊する話に私は思える

*9:ちなみにここでカップルという言い方をしてるけど実際には女性でも見れるという言い方をされる。男性はついていくって形で本当に見たいのは一人で見るだろうし、つまり恋愛至上主義ってのは女性をマーケットに取り込むための罠(笑)なのだ

*10:これはギャルゲーが性欲解消のために生まれたエロゲーから派生したことも連動する。つまり性欲を満たすように恋愛欲求もオタクは満たしてるのだ、これはある種、恋愛も性欲も似たいようなものだと言われてるようにすら感じてしまう

*11:反論プリーズ