ダサさ

先日の「蹴りたい背中」でもそうなんですけど、今私の中でいい表現をする人は戦略としてダサさを保とうとしているような気がします。
木更津キャッツアイ風にいうとそれは「普通」で、普通であること、自意識過剰にならないこと、良くいえば身の丈にあった表現、悪くいうと狭い世界観なんですけど。
宮藤さんは多分ダメな人ダサい人をネタにする方が笑いがとれるからという選択で、そういうダサさを使ってるんだろうけど、それが不愉快に私がならないのは彼等を決してバカにせず、むしろ愛情をもっていて、フィクションの形を借りて彼等を活躍させてくれます。
むしろ女子高生とかイケメンの彼氏とか、そういう一般的にイケてる人の方が抑圧する側にいて、あんま愛情がなくて*1。
実はこの流れは例えば松本大洋さんのマンガでもそうで、松本さんが描く世界は基本的にオシャレな世界ではないんだけど、あの絵で描かれることで、オシャレなものとして世に流通してしまったんですよね。
今ダサさに彼ら彼女らが何で止まろうとし、何故それが広い支持を集めてるのか?と同時にちゃんと見ない読まない人からは流行のもの、オシャレな話題先行のものとして切り捨てられるのか?
結構そこが歯がゆかったりします。

ここでダサいとは何か?オシャレとは何か?について考えてみたいけどその体力が私にはどう考えてもないので保留にしますが、私には宮藤さんにしても綿矢りささんにしても、あえてダサさを選んでる気がします。
だから綿矢さんのあの服装はある種、挑発的というか。
あとインタビューなんか読んでてもこの人は自分が本を読んでないことを隠さないし、平気で最後まで読めなかったっていいますよね。
あの頑なに自分をキープしようという姿勢がすごいなぁと思いました。
前回の日記で私は何度もハツの視点ヤバッと書いて心配してたんですけど、一方でああいうコ(男女含めて)に期待もしていたりします。
極度の客観性をもってしまい、輪に入れないってことは逆に頑なな自分をもっているということで、彼、彼女はありものの個性でわかりやすいキャラを作ってごまかそうともしてないわけですし。
多分そういうコは本当は濃密なコミュニケーションを求めてるんだと思います*2。
輪に入れないのはその反動で。
だから、ダサさというのは簡単にキャラを作らない私、どこにも属さない私という表明かな*3と思います。だから世にダサいものがある限りそれをネタにし続ける限り宮藤さんは安定かな?とか思ってみたりします。
でもそうやってメディアにのったダサさはオシャレなものとして錯覚されて世に流通してしまうんですよね。だから綿矢さんのあの服装も世のオシャレさんに勘違いされてワタヤーなんてことに・・・
なるわけないか。

*1:ついでに言うと携帯電話にも愛情がなくて嫌悪してます

*2:だからハツはある意味、濃密な(笑)にな川が気になるのでしょう

*3:これはもしかしたら本当の私を知って欲しい、理解して欲しいという気持ちの裏返しなのかな?だったらちょっとナイーブかな?と心配にもなるんですけど