20240515

nakanoazusa.hatenablog.com

一昨日の記事についていろいろな反響をいただいている。

 

実際に「おぢ」が被害に遭っているのに、こんなことを書くとは何事だ、という批判もいただいた。

 

被害を訴えて怒りをぶちまける「おぢ」の記事も見た。

こういうのは憚られるが、それでも僕は「騙されていたとしても、りりちゃんに出会えて幸せだった」と語る「おぢ」がいるような気がしてならない。

 

多くの批判の目が向けられたのはこの部分だろう。

書いたとき、僕も危うい記述だとは思っていた。だがそれ以上に、そんな「おぢ」が存在するという空想にどうしようもなく惹かれていた。

 

被害者の「おぢ」がりりちゃんを憎み、賠償を求めるのは普通のことだと思う。それを非難しようとは一切思わない。むしろ僕もいざ「おぢ」の立場に立たされたときはそちら側に立つだろう。「幸せだった」なんてとても言えない。

 

でももしそう語る「おぢ」がいたのなら、その人生にこの上ない敬意と羨望を抱いてしまう。彼以上に意味のある生を生きられる人はこの世界にはいない。

 

「騙されていたとしても、りりちゃんに出会えて幸せだった」

 

空想上の「おぢ」にそう語らせたのは、「おぢ」の人生を救いたかったからだ。「おぢ」にどうしようもなく自分を重ねてしまう僕自身を救いたかったからだ。

食い物にされてばかりにみえる人生にも価値があるんだと思いたかった。

 

一度、自分が「おぢ」になったつもりで話そう。

 

世の中には自分のことを真剣に愛してくれている人と結ばれた人だっている。それも大勢。

りりちゃんに魅入られた「僕」たちはそんな瞬間をずっと夢見ていたはずだ。

このまま、自分は食い物にされるばかりの人生で、すぐ隣の人は最愛の人に救われた人生だなんて、そんなの、悔しいじゃないか。人生を賭けて愛した人に騙されてただけだなんて、そんなの悲しすぎるじゃないか。

 

りりちゃんは憎い。僕がどれだけ真剣に思いやっていたか。文字通り人生を賭けた。その気持ちを全部、全部裏切った。全てが暗転した。世界は憎しみだけになった。

 

僕の人生に、価値なんてどこにもなかった。

 

ここで、「おぢ」から離れて今の僕に戻ろう。

 

僕は「おぢ」たちがりりちゃんに賭けていたものに価値がなくなるのが許せない。

 

本当に、本当に、悔しい。

 

普通に恋愛して幸せを掴んだ人も大勢いるのに、どうして自分の「それ」は幻なのか。その先にあるのが絶望だったのか。

 

「それ」を掴み取った人たちはあらゆる機会と幸運に恵まれてきたように思う。

社会的地位を得る機会。

自分を磨く機会。

そんな機会を与えられた幸運。

そして、最愛の人に出会えた幸運。

 

機会がなかったというだけで、本当に大事なものに気づくのが遅かったというだけで、どうして「騙されて馬鹿だね」とか「年齢差を考えろよ、夢見てんじゃねえよ」なんて言われなきゃいけないんだ。

 

「騙されていたとしても、りりちゃんに出会えてよかった」

 

この言葉を僕が想像上の「おぢ」に言わせたかったのは、「おぢ」たちの人生に価値を見出したかったからだ。

 

やがて僕が「おぢ」になったとき、自分の人生に価値がないなんて、そんなの嫌じゃないか。

「おぢ」になった先に何もないのだとしたら、この先生きていこうだなんてとても思えない。

 

食い物にされる人生に価値がないのだとしたら、この世界はつまらない。生きる価値なんてない。だって食い物にされないために、競争に打ち勝たないといけない。勝つのはしんどいし、負けたら地獄。そんな世界はまっぴらだ。

 

こう語る人もいるかもしれない。

勝つために努力するのが楽しく、充実していて、正しいのだと。

 

でもそんな価値観を、僕は受け入れたくない。

 

でも自分一人では、そんな自分を信じられない。

だから「おぢ」に言わせた。

託した。

何より自分自身が生きるために、「おぢ」にこのセリフを言わせなければいけなかった。

 

自分に信じ込ませなければ、いけなかった……。

Â