「He is sad」と言えても「彼は悲しい」と言えないことをめぐって

「私は悲しい」と言えるのに「彼は悲しい」とは言えない。なぜか。彼の気持ちは彼にしかわからないからだ。その通りだが、でも英語では「He is sad.」と難なく言えるのだ。どういうわけだろう。いくつかの考え方がある。

たとえば「悲しい」と言う単語は、英語では「私は」のときは”I am sad.”「あなたは」のときは”You are sad.”「彼は」のときも”He is sad.”と、みんな同じ形で言うことができる。ところが日本語はそうはいかない。「私は悲しい」はいい。しかし、「あなたは悲しい」とか「あの人は悲しい」というのはヘンだ。他人の気持ちはわからないという論理である。(中略)恐らく英語の”He is sad.”は、日本語にしたら、
彼は悲しいのだ
に相当する意味であろう。
(金田一春彦『日本語(新版)』岩波新書p.182)

英語の「He is sad.」は、日本語の「彼は悲しい」という言い切りの文に対応していないのではないかということだ。よって、金田一春彦の考えでは、英文と和文の間に次のような関係が成り立っている。

I am sad.=私は悲しい。
He is sad.=彼は悲しいのだ。

「I am sad.」と「He is sad.」は、構文的に「同じ形」をとっているが、両文のあいだには、いわゆるモダリティの次元で相違がある。その相違が、日本語への翻訳において、後者の訳文に対する「のだ」二文字の添加によって明示される。そういう見方である。

別の考え方も見ておきたい。翻訳家の鈴木主悦が書いている。映画をみていたら「He is sad.」というセリフが出てきた。字幕には「奴もたいへんなんだ」とあった。でもこれは誤訳だろう。

sadはもちろん、悲しいという意味だけれど、「彼は悲しい」なんて、第三者が言えるはずはない。彼の心のなかをのぞきこむわけにはいかないんだからね。これは、当然、発語者の感情だとしか考えられないでしょう。sadというのは、このセリフを口にした人間が、そのとき彼にたいして抱いた感情だから、彼のいまのありかたないし態度は、私の目から見ると悲しむべきものだ、哀れをもよおす状態だ、ということになる。
(鈴木主悦『私の翻訳談義――日本語と英語のはざまで』朝日文庫pp.159-160)

「sad」と感じてるのは、主語の「He」その人ではなく、「He is sad.」というセリフを口にした人間、発話者であるという指摘だ。たしかに情意形容詞には、こうした二通りの使い方がある。つまり、情意を主観の内側から表す場合と、対象の外面的な状態ないし属性として表す場合を区別できる。例を挙げた方がわかりやすい。たとえば「さびしい」という形容詞ではこうなる。

私はさびしい。
この町はさびしい。

上の二つの文は意味構造が異なる。「私はさびしい」で「さびしさ」を感じているのは発話者の「私」だが、「この町はさびしい」で「さびしさ」を感じているのは「この町」ではない。発話者である。発話者が「この町」の状況(ひとけがない、さびれている等)を観察して、そう表現しているのだ。

ここでひとまず、前者の使い方を「主観用法」、後者の使い方を「客観用法」と呼び分けるとすれば、日本語の場合、情意形容詞の「主観用法」は、一人称の場合にしか成立しない。たとえば、「あの人はさびしい」という場合、発話者が「あの人」の内面に入り込んで「あの人」の感じている「さびしさ」を取り出して表現していること(主観用法)にはならず、普通あくまで外側から「あの人」の状況を見て、発話者自身が「さびしさ」を催している(客観用法)ものと理解される。つまり、「あの人はさびしい人だ」という意味になる。

こんなふうに特定の表現と特定の人称が結びついていることを「人称制約(人称制限)」という。

鈴木主悦の本に話を戻せば、そこに示された考え方は、「第三者」の気持ちがわかるわけはないのであるから、英文「He is sad.」の「sad」はもっぱら「客観用法」であるものとして解釈しなければならないという主張なのである。英語の情意形容詞にも日本語と同じような人称制約が働いているのだと。

そんなわけないと思う。たとえば次のような英文がある(英語版の「Yahoo!知恵袋」より。「遠距離恋愛中の彼氏がいます。その彼が自分ち追い出されちゃって。私どうしたらいいの?」という質問。強調は引用者)。

our is a long distance relationship.. my bfs parents threw him out of d house n he lives seperately.. but he is sad that his parents dont talk to him.. he misses them they dont recieve his cals n shut the door on his face.he is lonely... i want to be wid him but i cant.. i want to get him out of this depression i cant see him sad... please help!! i talk to him on the phone.. bt it dsnt help much to make him happy..

強調した「he is sad」で、「sad」な気持ちを抱いているのが主語の「he」であると考えることに、あまり躊躇はいらないだろう。

いずれにせよ、言えるのは、金田一春彦と鈴木主悦の考え方には共通点があるということだ。両者はともに、「他人の内面は直接的には知りえない」という揺るぎない事実を踏まえ、英文「He is sad.」の解釈において、何らかの間接性を導入しようと目論んでいる。「I am sad.」と「He is sad.」は、単に主語人称代名詞が違っているだけでなく、文の意味構造も違っている(モダリティが異なる、形容詞の用法が異なる)と考えようとしているのだ。

『日本人の表現力と個性』の熊倉千之は、この点で二人と大きな違いを見せている。

たとえば「悲しい」という表現は、話し手の感情がうまく出せているのだが、英語のように〈He is sad.〉という文が日本語ではいえない。英語の〈I am sad.〉と〈He is sad.〉という二つの文は、意味の上では同質だが、日本語の「悲しい」は、話し手についてだけに有効なのだ。
(中略)
「彼は悲しい」という日本語が文法にかなっているのは、「彼」に対する話し手の感情の表出の場合、つまり「(私にとって)彼(がいま置かれている状況)は悲しい」という意味だから、〈He is sad.〉という英文とは全く意味が違う。前者は〈He〉、後者は「私」の心を表現しているのだから。
(『日本人の表現力と個性』pp.59-60)

熊倉千之は、日本語の「(私は)悲しい」と「彼は悲しい」の間には「意味の上で」違いがある(「主観用法」/「客観用法」)が、英語の「I am sad」と「He is sad.」の場合、構文的に同じであるのみならず、「意味の上で」も「同質」であると言っている。

日本語の情意形容詞のこうしたふるまい方――単に「悲しい」と言っても「彼は悲しい」と言っても「悲しい」のは結局、発話者の「私」であること――を根拠のひとつとして、熊倉が引き出すのは、「日本語は徹底的に『話し手』の『話し手』による『話し手』のための言語」(同p.60)であるという考えだ。日本語は話し手に密着している。けれど「西欧語の形容詞は、話し手から切り離して第三者の心情を表現する」(同p.73)。西欧語は、「第三者の心情を表現する」ことができるのだ。

では、熊倉の考え方によれば、「他人の気持ちはわからない」問題は、どのように解決されるか。英語を使うと他人の気持ちがわかるのか。

『日本人の表現力と個性』の熊倉は、この問題を明示的には取り扱っていない。けれど、こういうことが考えられる。英語の「He is sad.」は、発話者が「He」の気持ちを実際にわかって表現しているわけではない(あたりまえである)。発話者は、外側から観察可能な「He」の様子・状況等から判断して、「He」が「sad」であると言っている。つまり「He is sad.」とは、「He」が「悲しみを味わっている」と第三者が客観的な妥当性をもって言い得るような状況に「He」が置かれていることを表現している。これを切り詰めた日本語で言いなおせば、こうなるだろう。「彼は悲しいのだ」。すなわち、金田一春彦の指摘のとおりである。だが問題は、この先だ。

熊倉の言うように、英語の「I am sad.」と「He is sad.」が「意味の上で」「同質」であるとすれば、前者「I am sad.」の意味に対応する日本語は、「私は悲しい」ではない。これは誤訳である。では、どう訳せばいいのか。こう訳せばいいだろう。「私は悲しいのだ」。

I am sad.=私は悲しいのだ。
He is sad.=彼は悲しいのだ。

英語では、「私」の感情を言うのにも、間接的とならざるを得ない。自分の気持ちを、自分の気持ちであるのに、直接的には言い表すことができないのだ。

どうやらこの事実は英語に限られないようだ。日本語の「悲しい」という形容詞に伴う人称制約がフランス語の「triste」という形容詞にはない。これに関し、フランス語学の東郷雄二は、「わがこと」「ひとごと」「よそごと」という言葉を使い分け、こう主張している。日本語は「わがこと」と「ひとごと」を明確に区別する。ところが、「フランス語では『わがこと』も『ひとごと』もすべてを含めて、どうやら等し並にわれとひとの対立を越えた『よそごと』の世界として捉え表現するらしい」(東郷雄二「フランス語と日本語の感覚・感情述語 - 『わがこと』と『ひとごと』考」)。

日本語の場合、言語表現に組み込まれている視点が発話者の「私」に張り付いている。だから「わがこと」は「わがこと」である限り、直接的に表現できる。しかし逆に、「私」に見えないもの、たとえば他人の内面は「ひとごと」であり、表現できない。一方、フランス語の場合、他人の内面が直接表現できないのは当然であるとして、自分の内面さえも、「わがこと」であるのに、「よそごと」として、直接的に表現できないのである。これは、フランス語の言表に設定されている視点が、発話者のもとに置かれていないからだ。それは「私」から切り離されている――。

ここまでの話を整理しておこう。日本語の感情・感覚表現には人称制約がある。自分の内面は言い切りで表現できるが、他人の内面は言い切りで表現できない。一方、西欧語は、他人の内面を言い切りで表現できる。ただし、当然の話だが、西欧語を使っても、他人の心の内を知ることはできない。ということは、西欧語の言い切りは、そもそもが間接的な表現なのである。

こうして「他人の内面はわからない」問題は解消される。「He is sad.」は「私は悲しい」と同じ直接性をもって「He」の気持ちを表現しているわけではないのだ。直接性という点に立てば、「I am sad.」と「He is sad.」は、「I」と「He」の内面を「等し並」に、「同質」に表現しているのではない。そうではなく、「I」と「He」の内面を直接的に表現していないことにおいて、「等し並」であり、「同質」なのである。

西欧語によっては、他人の内面のみならず、自分の内面さえもが、間接的にしか表現できない。最後に、これについてもう少し見ておく。

甘露統子「人称制限と視点」が、物語論で言われる「神の視点」をヒントに、この問題に切り込んでいる。‎

日本語の内面表現に係る人称制約は、文末に「のだ」を加えるほか、「語り」という発話モードによって解除されることが知られている。金水敏(「『報告』についての覚書」仁田義雄・益岡隆志編『日本語のモダリティ』)の指摘だが、金水は例として、筒井康隆「夜の政治と経済」に含まれる次の文を挙げている。

蜜子も、SF作家がバー小説を書き出してはおしまいだと思う。

三人称の内面は、発話者には知りえないはずだから、こういった言い切りの文は、日常会話ではお目にかからない。けれど、小説の地の文では、あたりまえに出てくる。それは、この種の小説においては、いわゆる「神の視点」が採用されているからだ。「神の視点」をとった物語の語り手には、三人称で記述された登場人物の内面に入り込み、普通の人間には知ることができないはずの他人の感情や感覚を知り、自在に語ることが許されている。

もっとも、甘露が着目するのは、この「神の視点」が、「話し手の肉体を離れて移動しているという点」である。「語り」の日本語で人称制約が外れるのは、「語り」において、その視点が話し手から引き離されるからだ。であるならば、逆に、英語の発話において、第三者の内面表現が可能となるのは、このような視点の引き離しが「語り」の局面に限定されていないからだろう。「英語では日常対話においても、文を構成する際、日本語とは異なり、視点を話し手から引き離し、話し手自身をも客体化して表現している」。

甘露は言う。英語では、「主語が必ず言語化される。これは、一人称・二人称・三人称が平等に同じ役割を担っているということを示しており、したがって文を表出する際には、これら三つの人称をパラレルに観察できる視点を取らざるを得ない」。

ここに至り、熊倉千之、東郷雄二、甘露統子の三者の考えが一致する。おまけに甘露論文によれば、岸谷敞子「話者の意味論としての文法研究のために」がドイツ語について同様の見解を示している。

これは言うまでもないことかもしれないけれど、西欧語において、発話者が自分の内面を直接的に語ることができないのは、その言語構造のせいだ。

東郷雄二は、前掲論文で、感情・感覚表現の態様が日本語とフランス語で異なっていることの理由を、両言語間における「事態の捉え方」の違いに求め、こうまとめている。「フランス語では主語・動詞・目的語という文法関係が、動作主・行為・被動作主という意味関係と強く結びついており、できるだけ多くの事態を行為関係のスキーマとして捉えるという傾向が強い」。

フランス語のシンタクスが、認識の枠組みを作り上げている。この言語構造が、内面の直接的な表現を妨げているということになる。

日本語の場合、「私」の「悲しみ」を、まるで西欧語の間投詞にように、「悲しい」と言い放つことができる。必要であれば「私は」と添えることもできるが、こうした「私」客観化プロセスは義務ではない。

一方、フランス語話者の「Je(私)」は、「Je」について語るのに、必ず「Je」を主語として立てなければならない。これは「Je」の対象化・客体化が義務付けられているということだ。ここに、「語る私」と「語られる私」の切り離しが生じることになる。二人の「私」が出現するのだ。フランス語では、「私」が自分のことを語るとき、こんなふうに「私」は分裂してしまう。

おそらく、ジャック・ラカンの「鏡像段階」理論は、こうしたフランス語、西欧語に特有の言語構造から導出されたものだろう。「私」の起源に他者としての「私」がある。この他者である「私」は、「私」について西欧語で根源的に思考するとき不可避的に現れるオブジェ、像としての「私」を、その起源に投影したものに違いない。

だから「鏡像段階」は言語構造の効果である。だからラカンの理論をそのまま日本人にあてはめることはできない――ラカン本人の言うとおり。


(というわけで?、次回は「二人称小説」について検討します。)