俳優革命 – プロ演技トレーナー(講師)/仲祐希の現場ノート

プロ演技トレーナー(講師)である仲祐希が独自の視点で語る俳優革命論

【第57回】エンタメの罪と罰 ― 軽さと重さの狭間で(第一部)

 最近、私はとある「戦争の理不尽」をテーマにした映画を観た。

 その映画は膨大な製作費を投じ、長い年月をかけて制作された商業的な意味では「大作」と呼ぶにふさわしいものだった。今を代表する若手俳優たちが立ち並び、スクリーンに映し出される映像は迫力に満ち、音響も壮大で、手間と時間をかけた作品であったことは間違いない。

 だが、観終わった後、私の胸に残ったのは「感動」ではなく、言いようのない残念さであった。そして「これでいいのか?」という強い疑問だけが残った。

 なぜそのような感覚を持ったのか。

 それは作品全体に漂う「軽さ」にあった。

 描かれているのは戦争という、人間史における最大級の悲劇であるはずなのに、物語の進行は娯楽としての要素が強く、登場人物たちの痛みや喪失は観客にとって分かりやすい「感情の起伏」として表現されてしまっていた。

 まるで戦争が「ドラマを盛り上げる題材」として利用されているかのようで、そこに「理不尽にさらされた命」を真正面から扱おうとする気配は乏しかった。

 もちろん、この映画を制作した人々に悪意があるわけではない。むしろ監督や脚本家、スタッフ、そして出演した俳優たちは「決して戦争を軽んじているつもりはない」と言うだろうし、私はそれを否定するつもりもない。

 確かに彼らの胸の内には真剣さがあったのかもしれない。だが、「その真剣さは戦争というテーマ、理不尽さに蹂躙された命という重さに向きあえる程の度合いだったのか?」という問いに対しては観客として作品を観た私としては「真剣さは足りていなかった」と言わざるを得ない。

 残念ながら、いくら「私たちは真剣に向き合っている」と口にしても、観客に届いたものが軽薄であれば、それがすべてである。フィルムに残る映像は、製作者の思惑とは関係なく、観客の評価を受ける定めなのだ。

 もしこの映画を実際に戦争で家族を失った人々が観たとしたらどう思うだろうか。

 「自分たちの経験が娯楽のネタにされている」と感じることはないだろうか。戦争の被害者の前で「これは僕たちなりに真剣に取り組んだ作品です」と言えるだろうか――その問いに自分自身が耐えられるかどうかが、戦争というテーマを扱う作品をつくる者の出発点でなければならないと思う。

・エンターテインメントの力と危うさ

 エンタメには絶大な力がある。莫大な資金を動かし、世界中の人々を魅了し、巨大な集客力を誇る。まさに「選ばれた特別な存在」として、社会に大きな影響を及ぼす力を持っている。だが、その力ゆえに無自覚に犯してしまう「罪」がある。

 エンタメは本質的に「瞬間の楽しさ」を提供することを目的としている。観客に数時間の高揚を与え、非日常を味わわせ、日常の疲れを忘れさせる。もちろん、そこに罪はない。むしろ人々に希望や活力を与える大切な営みだ。

 私自身もエンターテインメントは嫌いではないし、今までだってエンタメ作品を数多く観てきた。だが問題は、どんなテーマをも、その「瞬間の楽しさ」の枠組みに落とし込んでしまうときに起こる。

 今回で言えば、戦争を娯楽に変えてしまった瞬間、史実は「軽さ」に回収されてしまう。戦争を生き抜いた人々の飢え、死の恐怖、家族を失った痛み――そうした真実が、観客にとって「わかりやすく」「消費しやすい」ドラマとしてパッケージ化される。

 それは戦争を体験した人間の真実を置き去りにして、あたかも仮想のファンタジーのように変質させてしまうのだ。

・「軽さ」と「重さ」のギャップ

 エンタメは「軽さ」を持っている。それは決して悪いことではなく、むしろ現代人に必要な癒やしや娯楽を提供してきた。だが、戦争は重さ抜きでは語れない。そこには実際に生きた人々の命があり、死があり、理不尽があり、絶望の中にも必死に希望を紡ごうとした人々の姿がある。

 エンタメの軽さと史実の重さ――この両者の間にあるギャップこそが、私が映画を観終わって残念さを覚えた理由だった。作品の中で描かれた戦争がもたらす理不尽さは、あまりにも「観やすく」整えられており、そこに本来あるべき「人間の命の不可逆な重み」が伝わってこなかった。

 もし制作者が「これは戦争を描いたのではなく、戦争を題材にしたフィクションなのだ」と弁解するならば、それもまた一つの立場だろう。だがその作品が(特に今回の場合はその原作が)「戦争がもたらす理不尽さ」をテーマとして世に出している以上、観客はそこに描かれる「命の重み」を無意識に測るだろう。だからこそ、観客が「軽い」と感じてしまった時点で、その作品は目的を果たしたとは言えないのだ。

・芸術とエンタメの責任

 ここで強調しておきたいのは、私はエンタメを否定しているわけではないということだ。私はエンターテインメントは嫌いではないし、その中で真実性を帯びた瞬間の輝きを収めた作品があることは知っている。だが、そうではない作品が山ほどあることもまた知っている。

 この問題の根底は、制作者や俳優が「自分たちは真剣にやっている」と思い込むことで責任を果たした気になってしまうことだ。真剣だったかどうかを決めるのは観客である。自分たちの真剣さをいくら語っても、作品がそれを伝えられなければ意味がない。これは覆しようのない真実である。

 


 

次回【第58回】エンタメの罪と罰 ― 軽さと重さの狭間で(第二部)

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