はてなブログ大学文学部

読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

普通という呪文を解くために

つづきを展開

 

nainaiteiyan.hatenablog.com

nainaiteiyan.hatenablog.com

 

 

・・・・・・・・・・

「中間層から抜けたい」。そう呟いたとき、私は貧困を望んでいたわけではない。むしろ、何かを“持っている”ことにうんざりしていたのかもしれない。一定の収入、社会的信用、それなりの服、それなりの休日、それなりの会話。それらがすべて、「生きづらさ」という鈍い膜で覆われていた。私はどこにも属せず、どこにも落ちきれず、「ほどほど」のまま漂っている。中間層とは、たぶん落下しないかわりに、上昇もできない層のことだ。世界のなかで宙吊りにされたような感覚。それがいちばん息苦しい。

社会は、中間層を最も安全な場所のように描く。ニュースでは「格差社会」と叫びつつ、どこかで「中間層の安定」を理想化する。住宅ローンを返し、子どもを教育し、老後資金を貯める――そんな人々こそが社会の支柱だと教え込まれてきた。だが、この「支柱」はいつからか、支えるために支えられなくなった。中間層という言葉は、かつての“夢”ではなく、今や“呪い”に近い。中間であることが、まるで停滞であり、平均であり、他人の尺度で生きることを意味してしまう。生きるとは、もはや「自分らしく」ではなく、「常識的であること」を意味するようになった。

SNSを開けば、「普通でいる努力」が可視化されている。自炊の写真、適度な出費、健康的な趣味。どれも悪くはない。だが、それらは同時に、“中間層的ふるまい”の再生産でもある。過剰に控えめで、過剰に誠実で、過剰に無難。そこには「幸福の演出」があっても、「幸福の衝動」はない。SNSはもはや交流ではなく、中間層的同調の装置だ。誰もが「ちょうどよい人間」として生きることを、無意識のうちに強要されている。そこでは、少しでも逸脱すると“痛い人”になり、少しでも劣ると“努力不足”とされる。中間層とは、平均値の宗教である。信仰対象は「普通」という名の偶像だ。

“普通”という言葉は、一見するとやさしい。だが、その語源を辿ると、そこには恐怖がある。「普通であること」は、他者の視線を恐れることの別名だ。アーレントが「凡庸な悪」と呼んだように、人は“思考をやめたとき”に最も従順になる。フーコーが言う「規範化権力」は、まさにこの“普通”を武器とする。私たちは刑務所にいない。けれど、すべての視線の中で「普通」を演じる。罰は存在しないが、恥がある。だからこそ、“普通”という言葉は呪文のように機能する。それを唱えることで、社会は安定し、個人は萎縮する。中間層が生きづらいのは、経済的理由ではなく、この“規範の内面化”にある。

哲学的に見れば、「中間層から抜けたい」とは、倫理的な試みでもある。上昇でも下降でもない、第三の選択――“逸脱への誠実さ”である。人は、与えられた規範を破らずとも、少しずつズレることができる。そのズレが、思考であり、表現であり、倫理である。中間層を構成するのは、階層ではなく、価値観だ。その価値観の核心にあるのが、「ほどほどの正しさ」への依存である。だが、正しさとはしばしば残酷だ。正しい人ほど、他者を見下ろし、そして自分を許せなくなる。“普通”という呪文は、まさにこの「自己罰の形式」として機能している。抜け出すとは、この形式の外で呼吸することだ。

婚活という儀式は、この構造を最も明瞭に映し出す。誰もが「理想の普通」を追い求め、プロフィール欄に“常識的”“安定”といった言葉を並べる。その瞬間、恋愛は欲望の場ではなく、規範の市場になる。選ばれるとは、適合することであり、愛されるとは、逸脱しないことになる。恋愛の形式が制度と結びついたとき、人は「誠実であること」に疲弊する。中間層の婚活とは、誠実さの競技であり、誤差を恐れるレースである。そこで「抜けたい」と感じることは、単なるわがままではない。むしろ、形式に対してまだ感受性が残っている証拠なのだ。

“抜けたい”という言葉には、自由の萌芽がある。だがその自由は、上昇ではない。より多く稼ぐことでも、特権を得ることでもない。むしろ、社会的コードから一歩退くこと――「違和」を抱えたまま立ち止まる勇気だ。イリイチが語ったように、自由とは制度から与えられるものではなく、制度との距離を取る能力である。中間層を脱出するとは、現実の階層を超えることではなく、“普通”という構文を逸脱することなのだ。そこには孤独があるが、同時に真実の感覚もある。誰も見ていない場所で息をつくこと、それが抜けるということだ。

それでも、ときどき思う。「抜ける」ことは、本当に可能なのか。社会はあらゆる形で中間を再生産する。安定を求めればローンがあり、自由を求めれば広告が待っている。逸脱すらもマーケティングされる時代だ。だから、完全に外へ出ることはできないだろう。しかし、完全に抜けなくても、ずらすことはできる。思考の角度を、欲望の対象を、少しだけ斜めに置き換える。そのわずかなズレが、人間を“普通”から遠ざける。読書でも、言葉でも、沈黙でもいい。そこに“中間ではない自分”が顔を出す。抜け出すとは、誰かになることではなく、まだ誰でもない自分に戻ることだ。

ある夜、コンビニの明かりの下で、スーツ姿の自分がガラスに映った。ほどほどに疲れ、ほどほどに真面目な顔。その姿を見て、ふと笑ってしまった。ああ、これが“普通”か。だが、笑った瞬間、少しだけその呪文が解けた気がした。中間層とは、もしかすると“気づかないこと”によってのみ維持される幻想なのだろう。ならば、気づくことが、第一歩の逸脱になる。気づき続けること、それが生きづらさの逆側にある希望なのかもしれない。

中間層から抜けたい――その言葉は、逃避ではなく祈りだ。世界のどこにも属せないまま、それでも何かを思考し、感じ、書き残す。その行為こそ、“普通”という呪文を少しずつ無効化する。抜けるとは、上に行くことではない。沈黙のなかで、呼吸のリズムを取り戻すことだ。誰も見ていない夜の街で、私はまだ歩いている。抜けきれないまま、しかし、少しずつ“普通”の外側へ。