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読書日記と哲学がメインです(毎日更新)

読書日記1069

読んだ本

ジョン・デューイ『公衆とその諸問題:現代政治の基礎』ちくま学芸文庫 (2014)

佐々木中『切りとれ、あの祈る手を:<本>と<革命>をめぐる五つの夜話』河出書房新社 (2010)

 

米山優『アラン『定義集』講義』幻戯書房(2018)

鈴木直『アディクションと金融資本主義の精神』みすず書房 (2023)

つづきを読み進めた。

 

nainaiteiyan.hatenablog.com

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日記

 

うろ覚えではあるが、1,2年前に落合陽一氏の番組を観たときに「哲学的な議論はいつまで経っても終わらないので、結局テクノロジーしか世の中を変えることはできない」ということを言っていたのをぼんやりと覚えている。

先週、AbemaTVで長距離ドライバーの苦境について話題になっていた。


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Amazonなどのネットショッピングが繁盛することによって、ドライバーに負担がかかる。

しかし労働時間を削ると生活できないというジレンマがあるという内容であった。

自分はガソリン代の高さが非常に気になった。

どんなに頑張ってもガソリン代が高いので利益は少ないという構造が見えた。

 

 

自分は予てから、理系的な知(ITなど)がどんなに発達しようが結局は労働時間は減らないという感覚を持っていた。

逆に減った例も膨大にあるかもしれないが、忙しそうに駅を走っているサラリーマンを見ているとどうも余裕が見られない。

しかし番組の後半でコメンテーターが言っていたように、テクノロジーが悪いというよりもこれは政府の介入すべき問題であって、自由競争以前の問題だと思われたのでいろいろと考えさせられた。

 

 

デューイはプラグマティズムの代表格であり、有用性に重きを置くアメリカ流の哲学からは学ぶべきことが多いように感じた。

デューイは問いの出発点の重要性を語る。

出発点を間違えると循環論法に陥るという言葉は考えさせられる。

 

 

自分は、事実からは価値(~べき)を引き出すことができないという、哲学上の命題を想起した。

"(・・・)国家はいかにあるべきかを述べるためなのか、それとも国家が現にいかにあるかを述べるためなのかということも大きな比重を占めることになる。もし、国家はいかにあるべきかということにあまりに関心を抱きすぎると、われわれは、知らず識らずのうちにあらかじめ決められた結論に到達するように選択された事実を、処理することになりがちである。" P15 (『公衆とその諸問題』)

 

 

宮台氏の言い回しを借用すれば、「問題の問題以前的な前提を考察せよ」というメッセージで、この方法は今後も物事を考える際に有用だと思えた。

というのも、政治的なニュースに対する批判には共通前提が何なのか意外と分からないことが多いと感じるからである。

社会がどうあるべきか、という問いは、抽象的には「豊かな」社会、「平和な」社会といった言葉で括られがちであるが、これは何も言っていないに等しいように思われた。

 

・・・

 

『アディクションと金融資本主義の精神』のつづきを読み進めた。

今日は「擬合理装置」という、人間の認識の仕方に関する心理学的な話が語られた。

人間には「偶然性のなかに蓋然性を探そうとする強固なアルゴリズム」が存在しているということが書かれていた。

例えばスクリーンにa、a、b、a、a、bが順番で表示されたら次は「a」と答えるだろう。人間は早い段階でこのように規則性を見つける「本能」があるのだそうである。

 

 

 

つぎに「オペラント条件付け」によって強化された行動(本書では自発行動)を掘り下げ、いわゆる「アハ体験」について語られた。

「あ、そうか」という体験はハトにも備わっているようである。

推論が当たると(レバーを押せば餌は降ってくるだろう、など)行動が強化されるというのは、この「あ、そうか」体験も絡んでくるのだそうである。

"連関の確認こそが、欲求の対象となる" P94 (『アディクションと金融資本主義の精神』)

 

 

ここまで読んで思ったことは、快を感じたから「楽しい」のではなく、そこには快がある「だろう」という擬合理的装置が先にあって、それを確認「したい」という欲求があるかもしれない。

 

これをラカンやフロイトの理論に当てはめてみると面白いかもしれない。

佐々木中氏の本は文学がいかに世界を変えたのかが語られた。

『書物の破壊の世界史』にも書かれていたように、実は破壊力があるのは「書物」のほうなのではないか。

為政者は常に「文字」のパワーに怯えているのである。

 

 

文字は半永久的に残りつづけ、記憶を継承する。

今日は佐々木氏の講義から、人文系学問追放(あるいは軽視)の風潮の裏には、「文学は革命の根源である」という恐怖心があるからではないか、と感じた。

 

 

また、佐々木氏は文学作品を無理に理解しようとしていはいけない点も教えてくれた。

これは『日本の美学』のなかで語られた執行草舟氏と同じ主張だ。

 

nainaiteiyan.hatenablog.com

 

ヘルダーリン、ニーチェ、カフカ。

とくにヘルダーリンとニーチェはいまでいう統合失調症のようなもので苦しんだとされる。

その詳細については『狂気と創造の歴 プラトンからドゥルーズまで』に詳しく書かれている。

 

nainaiteiyan.hatenablog.com

 

統合失調症は知覚と思考の区別がつかないそうである。

だから自分と他者の区別がつかない。

これが何故創造性と結びつくのか。

 

 

佐々木氏は、古井由吉の教えで文学作品の危険性を学んだそうである。

これが文学と人間精神の威力なのだろう。

 

・・・

 

 

アランの定義する「正義」に関する講義内容を軽く読んだ。

アランは貨幣という「仲介者」に頼りすぎると正義の機能が弱まるということを書いた、という主旨のことが語られた。

仲介者を利用するのは便利であって、便利なものに依存すると本質を忘れかねないというメッセージであった。

依存という言葉が出てきた。

ここで『アディクションと金融資本主義の精神』と話をつなぐことができそうであるが、少々話が長くなりそうなので一旦ストップしたい。

 

 

つづく

 

 

 

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関連図書

 

デューイの本

nainaiteiyan.hatenablog.com

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