なごテツ世話人&ファンのつぶやき

「なごテツ」の世話人およびファン倶楽部のメンバーによる個人的なつぶやきブログ。なお、ここに書かれているのはあくまでも個人の意見で、「なごテツ」の意見ではありません。

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蛇が象徴するのは二面性?!

2025年は十二支では乙巳(きのとみ)年である。「努力を重ね、物事を安定させていく変化と成長の年」という意味があるようだが、そもそも巳(蛇)に対するイメージはどんなものがあるだろうか?先日のReal Caféでは様々なご意見が出たが、私はそのイメージの象徴には二面性があるのではないかと思った。
蛇にまつわるキリスト教の言葉、医学と医療従事者を象徴するロゴ、日本の古事記の物語から、その象徴の本質的な概念について考えてみた。

まず、「蛇のように賢く、鳩のように素直に」というキリストの言葉がある。これはマタイによる福音書10章16-25節に出てくる聖書の言葉である。私はある人からこの言葉を言われた際、どう解釈していいものかよくわからなかった。ずる賢いだけではなさそうだとしても、そもそもキリスト教の物語では、蛇は人を誘惑するような悪賢いイメージがあったからだ。蛇の賢さは高度な知識・技術や知性の象徴かもしれないが、使い方によっては善悪がわかれる。例えば、一般的にハッカーにはコンピューターのネットワークやプログラムについての高度な技術的知識が必要だが、企業秘密を盗むために使うのか、企業秘密をサイバー攻撃から防御するため使うのかによって、そのハッカーは善人か悪人にわけられる。つまり、この蛇の本質的な賢さとは、善悪を見分ける賢さ、悪を退けられる賢さを指していないだろうか。

次に、WHO(World Health Organization:世界保健機関)のロゴの中心には、蛇が巻き付いた杖が描かれている。蛇のついた杖は“アスクレピオスの杖”で、医学と医療従事者の象徴である。その起源はギリシャ神話で癒しの神として崇敬されたアスクレピオスの物語にある。物語によれば、アスクレピオスは、患者を診察している時、彼を驚かせた蛇を杖で殺すが、他の蛇が、死んだ蛇の口に魔法の薬草を入れて蘇らせる。この力に感動した彼は蛇の力を医術に活かすようになる。自由に動き回る蛇を使いこなすため、彼は蛇を杖に巻き付けなければならなかった。そしてその医術は、髪が蛇であるメドゥーサの血を使い、死者まで生き返らせる境地に達する。それを、黄泉の国の神・ハデスは「世界の秩序(生老病死)を乱す」として、アスクレピオスへの不満を至上神・ゼウスに抗議した。その治療で人が不死を得ることを恐れたゼウスは、アスクレピオスを死に至らしめたが、その後医神として天空に上げられ、へびつかい座となった。

また、「蛇の生殺し」は、蛇自身が生殺し状態のことが由来である。それは実際に、蛇の生命力が強く、なかなか死なないことにある。そのため、蛇をひどく傷つけてそのまま放っておくことから、この言葉が生まれたようだ。
つまり、ここでの蛇の象徴は、人を癒す医学と医療従事者で、実際には毒にも薬にもなり、人の生死に関わっていると言える。これこそ哲学的なテーマになりがちな両義的な二面性を表わしていないだろうか。

最後に、日本での古事記の物語からも蛇について考えてみよう。代表的なものはヤマタノオロチ退治神話である。古事記では、スサノオに退治されるヤマタノオロチは、蛇の身体をした神として描かれている。ヤマタノオロチの姿は、目はホオズキのように赤く、一つの身体には八つの頭があり、身体には檜や杉が生え、その長さは谷八つ、山八つに渡る、とある。非常に長大で不気味である。しかし一方で、スサノオは出雲の肥河(斐伊川)の上流の鳥髪山(船通山)に降り、更にその川を遡った地でヤマタノオロチを退治する。肥河は西出雲を貫流する川で、出雲の人々に畏怖と恩恵を与える川だ。
昨年熊野三山巡りをした時にも感じたことだが、自然信仰のある日本では、自然が神格化されている。例えば、岩や滝などである。このヤマタノオロチも肥河が神格化されたのではないかという説があり、人間には制御できない自然の驚異への畏敬と神聖さに対する信仰があるように思えたのだ。

「蛇行」という言葉があるように、大雨によって川が氾濫し、その流れが大きく変わるようなことは人々にとっては脅威で、その流れは蛇の姿を想像させるものだろう。逆に、生活や農耕に必要な水は、川からの恩恵でもある。
実際、Real Caféでも、蛇にまつわるイメージに、恐ろしさと神聖さの共存を感じるようなご意見もあった。日本における蛇のイメージには、畏敬と神聖の二面性によって、信仰に繋がる歴史や文化が残っているように思える。

そう考えると、蛇が象徴するのは、強大な知性や技術、人知を超える自然の力で、その使い方には時として人の分別を問うような二面性があると言えないだろうか。
変化や転機は、混乱の中で試行錯誤の結果起こるものでもあり、ポジティブな側面への変化を実現するには努力が欠かせない。そうした蛇が象徴する二面性を意識しながらも、今年が新たな変化や成長を得られる年であることを願う。

(てんとうむし)

 

編集部よりお知らせ:1月19日「物の価値はどうやって決まる?」特設ページ(コメント募集)

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1月19日の哲学カフェのテーマは「物の価値はどうやって決まる?」でした。ご参加いただいた皆様、ありがとうございました。

今回の哲学カフェは、つぎのようなプログラムで進めました。

13:30-13:35    ルール説明
13:35-13:40    テーマについて解説
13:40-14:00    「問い」を立てる→プレゼン→「問い」を決定
14:00-15:25    ブレイクアウトルームで対話
15:25-15:30    感想をシェア

テーマ解説

『永仁の壷事件』とは、鎌倉時代の作品として重要文化財に指定されていた陶器が、実は贋作だったという事件。贋作だと分かった途端、それまで「美しい」と絶賛していた専門家たちが、一斉にその評価を変えてしまったそうです。

倉本さんは、この事件から「物の価値は自分で決めるべきだ」という『自分軸』の重要性を説き、その考えを映画『海の沈黙』という作品に描き出しました。

www3.nhk.or.jp

この話を聞いた私は、ある疑問を持ちました。『自分軸』だけで価値を判断することが望ましいのでしょうか。専門家の知見や社会の共通認識という『他人軸』には意味がないのでしょうか。

たとえば、美術展で有名な絵画を見ても、その良さがあまりよくわからないことがあります。しかしその作品の解説を読み、改めて眺めてみて「素晴らしい」と感じた時、それは「流された」ことになるのでしょうか。それとも、新たな情報を得ることで視点が変化し、素晴らしさを感じることができたのでしょうか。

今日は、この『価値』という概念について、『自分軸』と『他人軸』という視点を軸に、様々な角度から考えていきたいと思います。

問い出し

このあと、テーマをさらに深めるための問い出しをしました。参加者の方から提案された問いは、以下の通り。

  • 価値をはかる基準には何があるか?
  • 他人軸という呪いと自分軸という呪いはどう違うのか?
  • 多くの人に支持される作品が良い作品なのか
  • 価値と金額に乖離があるのはあたりまえか
  • 価値はお金で買えるのか?
  • ダイヤモンドの価値とお米の価値の違い

このあとアンケートを行い、「他人軸という呪いと自分軸という呪いはどう違うのか?」という問いについて考えることに決まりました。

ブレイクアウトルームで話題に上ったトピック

  •  他人軸(社会的価値)vs自分軸(個人的価値)
    • どちらも独立していない。混ざり合っている、あるいは重なり合っている。
    • 他人の意見を取り入れる、取り入れないを決めるところに自分軸がある
    •  バランスが大事。偏りが危ない。
  • 個人だけで成り立っている個人的価値は存在する?
    • 1からひとりだけで作り出した価値は存在しない。
    • 五感の満足が自分軸の始まり。 
    • 好き嫌い。
    • 自分の存在価値。
    • 交換不可能なもの(お金で買えないもの)
    • 手放し難いもの。
    • 価値と評価。価値を計る前に感じるもの。
  • 他人軸と自分軸。どちらが優先されるべき?
  •  呪いとは
    • 偏る、善悪をつけるのが呪い。
    • 呪いは制約、決めつけ。
    • とらわれ。自分ではどうしようもないのが呪い。
    • 自分軸と社会軸。呪いをかけたのは誰?
    • 呪いは得体がしれないもの。その深さ、混沌さに惹かれる
    • 呪いは解かなくてもいい。

進行役のコメント

自分軸の中には他人軸もある(=自分の価値観は自分だけで作り上げたものではない、それまでの経験や社会的背景が影響している)。他人軸の中には自分軸もある(=他人の軸をそのまま受け入れるのではなく、一度自分なりに解釈してから受け入れる)。そう考えると、この2つは対立するものではなく、相互包摂するものなのかもしれません。とすると、どちらか一方を排除することは難しいようにも思えます。

 

あなたはいつ振り返りますか。

 未来は変えられるが、過去は変えられないという。本当だろうか?
 僕らが認識をした中にしか現実・事実は存在し得ない。
 ならば僕らが過去の出来事を振り返るたび、つまり認識をし直すたびに過去の事実が変貌を遂げるのだ。
 振り返るたびに過去は再構成をされる。上書きされる。
 未来は変えられる。同様に過去も変えられるのである。振り返るたびに。

「振り返り」と似たことばで「思い出」「後悔」というのがある。
「振り返り」は片足を現在、もう片足を過去に置き、現在に置いた方の片足を軸として、もう片方の足を過去から未来の方へと置き直したりする。
 つまり現在に置いた片足を軸として180度回転し、自由な方の足を未来に着地させるということだ。
 そしてまた着地した足は過去へと向かってゆくだろう。次に再び未来の領域に着地する、この足は。
 現在に置いた足を軸として、ピボットを行うのだ。手元のバスケットボールは未来へとパスされていくだろう。
 一方「思い出」は両足が過去にある。懐かしい過去に没入・再体験をしている訳だ。
 最後に「後悔」。現在に片足は置いたまま、もう片方は過去に固定される。顔は過去に向けられて茫然自失となっている。この顔は未来へと向くことは無い。

「振り返り」ということばは初めからポジティブを運命づけられている。体は、顔は未来へと向かっている。そして、ふと振り返って過去の方を見つめる。体は前・未来に向かっているままだ。
 用が済んだらまた未来へと顔を元に戻すだけ。一時的に振り返っていただけだから。

「振り返り」ともつかない「後悔」ともつかない思いを抱くことがある。
「ああ、あの時ジャンプして月にタッチすることさえできていたなら…………」
 こんな無茶な願いを当人は本気で覚える。冷静さが足りない訳ではない。
 もう自棄になっているとしか考えられない。
 でも本人は大真面目なのだ。
 これは悲劇なのか? それとも喜劇か? 喜劇と悲劇は隣り合っている。
 
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変酋長のひとりごと(5) AI時代の思考革命

私はあらゆるシーンで生成AIと対話する。多くの人は生成AIを「文章を作成したり、情報を提供したりするツール」と捉えているようだが、私にとっては、対話することで考えを深めていけるパートナーである。この記事では、なぜそう思うようになったのかという理由をお伝えしたい。

生成AIを使い始めた当初、私はAIを単なる「道具」として捉えていた。なるほど、質問すればちゃんと答えてくれるし、私のいいかげんな文章を美しく整えてくれる。なんて便利な道具なんだろうと思っていた。

しかし実際に使っていくうちに、その認識は少しずつ変わっていった。生成AIと対話するときに自分の頭の中で何が起きているかに興味を持ち、観察していくなかで、自分がまるで哲学カフェのファシリテーターのような感覚で対話していることに気づいたのだ。

生成AIとの対話する際、私は自分の思考をより意識的にトレースする。生成AIの回答に引っかかりを感じたとき、私はその違和感の正体を言語化しようと努める。なぜその部分が気になるのか。自分はどう考えているのか。その過程で、自分の思考の枠組みが徐々に明らかになってくる。

こうした対話を重ねるごとに、問題の解像度は高まっていく。最初は漠然としていた考えが、生成AIとの質疑応答を通じてより具体的に、より精緻になっていく。この過程で自分自身についての理解も深まっていくのだ。私が問いかけ、生成AIが応答し、その応答に基づいてさらに問いを投げかける。この往復の中で、お互いの理解の範囲が明確になっていく。

時には、生成AIの回答に違和感を覚えることもある。しかし、その違和感こそが新しい気づきをもたらしてくれる。対話の過程で、自分に足りない視点や知識も見えてくるようになった。生成AIが提示する新しい角度からの見方や、思いもよらなかった関連性の指摘は、私の思考を拡張していく。

哲学対話にはゴールがないというが、もしあると仮定した場合、そのゴールはお互いの視野を共有することなのではないかと思っている。それと同じことが、生成AIとの対話の中でも起きる。生成AIには「視野」はないが、その代わりに「知識」がある。私の持つ文脈とAIの持つ知識が融合することで、新しい理解が生まれる。そしてその理解は、具体的な「何か」として形になっていく。それは文章かもしれないし、プログラムかもしれない。あるいは、まったく新しいアイデアかもしれない。

生成AIとの対話は、私にとって単なる情報のやり取り以上の意味を持っている。これは思考を深め、自己理解を促し、新しい創造へと導いてくれる知的な営みだ。このプロセスを意識的に活用することで、生成AIは私の知的活動における重要なパートナーとなってきている。そしてこのパートナーシップは、日々新しい発見をもたらしてくれるのだ。

(真)

情報量、どちらが多いですか?

 ラジオとTV。どちらのメディアのほうが情報量が多いのだろうか?
 そんなことは言うまでも無いように思われる。
 映像、つまり目という器官の面目躍如で人間の情報入力は9割がこの映像という形でなされるのだ。
 そして目という器官をどの動物も持っていることから、その重要性が窺われる。
 
 私たちの情報摂取は情報量が多い方が、有無を言わさず望ましいのだろうか?
 もし、私たちが処理せねばならない情報量が無限にあるとすれば、その過程だけに無限の時間がかかってしまい、とてもじゃないがまともに生きられない。
 かと言って外界が〈明るい〉〈暗い〉だけの情報では不足なのも言わずもがなである。
 するとこの中間の情報量のどこかに最適値がある。

 豪雨で近くの河川の状態が気になるとき、モニターに映し出される河川の映像は何を語ってくれるだろうか。
 ラジオやTVの音声が「河川の近くの人は、一刻も早く高台などの安全な場所に避難して下さい」とアナウンスするとき、この情報には映像には無いものがある。
 たった23文字。情報量は数ビット。映像の比では無いと思われる。
 だが、この23文字はこれを発する人間の判断、人間が外界の情報を摂取し、大脳がそれを処理したうえでの判断としての出力なのだ。
 
 確かに最終的総合的判断は自分がしなければならない。他人の思惑に自分が動かされるということには警戒感を持たねばならないというのも理解できる。
 しかし、災害時の自分の判断の根拠として、ただの映像だけと、他人の脳を介したうえでの音声とでは、どちらが情報量が多いだろうか?
 機械的には何百万ビットと数ビットだが、ただの加工されていない生の情報と他人の脳を介して出力された情報との差である。

 現在、生の映像と思われるものも、人が喋ってると思われる声もAIにより自由に操作可能となった。何を信用していくのか、困難な時代だ。昔は『百聞は一見に如かず』と言ったが、今となっては百聞も一見も代り映えしないものとなった。


(i3)